他人と生きるための社会学キーワード|第13回(第2期最終回)|初期社会科の時代──テストは、教える側・学ぶ側双方の評価のために行われる|岡本智周
初期社会科の時代
テストは、教える側・学ぶ側双方の評価のために行われる
岡本智周
社会をつくっていくために社会科を学ぶ
日本の学校で子どもたちが学ぶ教科のうち、社会科ほどカリキュラムの構成が変化してきたものはない。社会についての「教え – 学び」自体が、つねに政治や社会の状況から影響を受けるからである。たとえば、戦後の新設科目であった社会科は戦前の国史や修身との連続性を断つ性格をもったものの、占領政策の終了と日本の独立回復がなるとすぐさま見直しの圧力を受けることとなり、1950年代半ばには学習指導要領の改訂によって構成が大きく変わっている。そのため、それまでの社会科をとくに「初期社会科」と呼び、それ以後とは区別して語られることが多くなっている。
初期社会科は、敗戦直後の日本社会において民主主義教育の中核を担う科目であった。児童生徒が自分たち自身の生活のなかで発生する問題をとらえ、その解決のために必要なことを考え、社会の進展に貢献することが、教科の営みであった。社会科の創設に深くかかわった教育社会学者・馬場四郎は当時、社会科の本質をつぎのように表現していた。
第一に社会科は、児童生徒がかれ等自身の生活の間に発生する問題を解決して新しい経験を積み、社会の進展に貢献するという教科の本質が、民主主義社会の要請にうまく適合するということである。(略)
民主主義社会においては、社会の問題は集団の各個人がその問題解決を分担しなければならない。集団の全員の利害に関する問題は、成員の各個人がかれ等にとっての共通の問題として協力してその解決に当たらなければならない。もし成員のある者が集団全体の問題解決に参加しようとする関心を持たなかったり、またその能力に欠けているとすれば、集団の真の幸福を維持することは困難である。(馬場四郎『社会科の本質』同学社、1948年、80-81頁。以下、下線は引用者による)
「社会の問題」「集団全体の問題解決に参加しようとする関心」といった言葉が用いられている。ここでの問題とは、民主主義を社会において実践するうえでの「共通の問題」であり、「協力してその解決に当た」るために社会科の取り組みが意味をもつとされた。
今日でもしばしば、ひとが学校でだれかといっしょに学ぶのはなにゆえかと話題になる。この馬場の著作ではそれに対して明確に、新たに社会をつくっていくため、他者の状況を共有し、そこにある問題をいっしょに解決していくためだという回答が示されていたことになる。問題解決学習は、民主的な社会の創出と維持を担う行為にほかならなかったのである。
評価の対象は子どもだけではない
評価についてどう考えるかも、この時代の教育観をよく示す要素である。この時代、テストなどによる評価は、学ぶ側の成果や到達の度合いを測るためだけのものとはされていない。教える側の状態や教育環境の改善の必要性・可能性を把握するために行われるものであった。馬場四郎は、「社会科の評価がいかなる目標の下に行われるか」について、つぎのように述べていた。
それはまず第一に児童生徒の学習の成果を明らかにし、かれらの成長発達の姿を客観的にとらえるという必要から行われるものである。その結果は、一面では個々の児童についての理解に役立つと共に、他方ではその子どもの学習を指導し、これを個人的に補導する為の手がかりを得ることができる。第二には、教師の指導方法並びに技術の改善に役立てようとする狙いである。たとえば、社会科の学習指導の結果、個人的にも集団的にも、ある方面に特殊な共通な欠点がみられる場合、かようなものがいかなる原因から生ずるのであるかを検討することによって、教師の指導方法の拙さが明らかにされることが少くない。評価の結果、知識や理解についてはかなりの進歩を認めることができても、推理力や綜合的な判断力や分析能力において欠けている場合、その教師の平素の指導がただ歴史的地理的な知識の伝達に終っていて、問題解決能力の育成を図っていないという欠点が明らかにされるであろう。第三には、これらの二つの評価結果から帰結されることだが、社会科カリキュラムそのものの改善に役立てようとする目的である。たとえばある学級教師の指導している学級全体の子供に対して行った評価の結果、歴史的な事柄に関する理解が共通に欠けていたとする。その単元を展開することによって当然期待されるはずの、歴史的な理解がこのように欠如しているということは、その教師の指導の方法が問題となると共に、教師のたてた指導計画ないしは学校のカリキュラムに欠点があるということになるのである。(馬場四郎『社会科の改造』同学社、1952年、186-187頁)
評価とは、教える側の指導方法や技術の欠点、また、策定される授業計画やカリキュラムの不十分な点を把握し、原因を究明し、改善がなされるために行われるものでもあったのである。社会をつくりだすための「教え – 学び」は、そもそもの学習課題の適切さをつねに吟味し問い直すことと不可分であった。馬場はこれに続けて、「評価といえば、普通は児童生徒の学習成果の評価のみが中心的な仕事だと考えられ易いことを反省し、その結果をより一層広く社会科教育全般の改善の為に用いてゆくという、基本的な態度を見失ってはならない」と述べている。学習者のみが外部からあてがわれるものの習得を期待されるような教育観は、ここでは前提にされていない。
社会科カリキュラム変容の背景
しかしながら以下の図に示されるように、1955年の学習指導要領を境に社会科のカリキュラム構成は変わった。中学校において「一般社会」が無くなり、「政治・経済・社会的分野」「歴史的分野」「地理的分野」と、今日にも続く科目に細分化されることとなった。高等学校でも1年次の「一般社会」が無くなり、「人文地理」「世界史」「日本史」「社会」の科目に細分化された。また、民主主義教育の中核たる初期社会科の、さらにその理念を体現していた「時事問題」が高等学校教育から削除されることにもなった。それまで行われていた「時事問題」は、当時の主要メディアである新聞やラジオニュースをとおして現実世界の生々しい問題をとらえ、その解決のために知識と技能の総合的発揮を試みる科目であった。
1950年代前半には社会科が存在することに対して、「地理」や「歴史」の十分な学力が養われないとする観点からの「学力低下」論が突きつけられるようになっていた。「愛国心」の涵養を十分に行っていないとする批判もあった。社会科のカリキュラムは、1955年にこれらに対応しはじめたことになる。
またこの時期以降、社会全体での高校への進学率が上昇しはじめる。学校教育が大衆化すること自体は民主化過程の一環であるが、1960年代の日本社会の場合はそこに、学校間に序列性をもたらす適格者主義と競争主義が強く差し込まれ、「教え – 学び」の性質自体が変化することとなった。「役に立たない」「暗記もの」こそが「受験学力」だとわりきることで、ある種の能力主義に基づいた選抜・選別の仕組みが作動していくことになったのが、高度経済成長の時代である。
選別のための評価、よりよく学ぶための評価
現在の私たちはテストというものをどのようにとらえているだろう。諸個人の外側にある何か客観的な尺度でもって、人間の資質を一方的に測るものだと考えているのではないか。テストを実施する側には、それをもって教える側の状態を把握し、教育環境の改善につなげる思考がどのくらいあるだろうか。多くの者が高得点を取れる問題はむしろ良問と呼ばれず、問題の難易度を調整して受験者全体の得点にばらつきを生じさせられるテストのほうが、選別・選抜のために合理的だと考えられているのではないか。一定数の人間をかならず不出来な状態に置くことを目的とするのがテストであるとするならば、そこでは「教え – 学び」の状態や環境の改善点を測る役割は忘れられていることになる。
人間を序列化し、選別・選抜のための指標を提供することが評価であるのか。それとも、学びの状態を把握し、教え方や学習の体系そのものについても見直すことができるようにするのが評価だと考えるのか。この点をどう考えるかによって、教育の意味はまるで異なるものになる。序列化とは、しかし相対化であり、得点の低い状態よりは高い状態のほうがよい、とするだけの作用である。相対評価は、学習者がどこまで到達することが本当に重要であるのかについては、見ず、問うこともない仕組みである。
一方、到達を把握するためには、「何を学ぶべきなのか、どのような状態が学び得た状態になるのか、教え方や学び方は十分であるのか、学ぶ側にはどんな問いがあるのか、それは満たされているのか」──このような諸々の絶対的な判断基準を考えなければならない。そしてなによりも、「学んだことが社会の創出と維持に寄与するものとなっているのか」ということ。ずっと以前には、子どもたちの教育に関してこれらのことが真剣に考えられていた時代があったことを、私たちはいつでも思い起こせるようにしておく必要はあるだろう。
(リレー連載第2期・完)
■ブックガイド──その先を知りたい人へ
黒澤英典・和井田清司・若菜俊文・宇田川宏『高校初期社会科の研究──「一般社会」「時事問題」の実践を中心として』学文社、1998年.
岡本智周「カリキュラム政策の変遷における高度経済成長期の位置」『学術の動向』第23巻第9号、2018年、28-33頁.
遠山啓『競争原理を超えて──ひとりひとりを生かす教育』太郎次郎社エディタス、1976年.
光永悠彦・西田亜希子『テストは何のためにあるのか──項目反応理論から入試制度を考える』ナカニシヤ出版、2022年.
*編集部注──この記事についてのご意見・感想をお寄せください。執筆者にお届けします(下にコメント欄があります。なお、コメントは外部に表示されません)
岡本智周(おかもと・ともちか)
早稲田大学文学学術院教授。専門分野:教育社会学、共生社会学、歴史社会学。
主要著作:
『共生社会とナショナルヒストリー』勁草書房、2013年
『「ゆとり」批判はどうつくられたのか』共著、太郎次郎社エディタス、2014年
『共生の社会学』共編著、太郎次郎社エディタス、2016年
『教育と社会』共著、学文社、2021年
「歴史教育の高大接続の現状と課題──社会科教育と社会科学教育の接続として考える」『共生教育学研究』第10巻、2022年