こんな授業があったんだ│第28回│実践記録「福島に生きる子どもたち」〈前編〉│坂内智之

こんな授業があったんだ 授業って、教科書を学ぶためだけのもの? え、まさか。1980〜90年代の授業を中心に、発見に満ちた実践記録の数々を紹介します。

授業って、教科書を学ぶためだけのもの? え、まさか。1980〜90年代の授業を中心に、発見に満ちた実践記録の数々を紹介します。

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福島に生きる子どもたち〈前編〉
(2011年・ 小学4年生)
坂内智之

はじめに

 私の勤務する福島県郡山市立赤木小学校は、福島第一原子力発電所から西に60kmほど離れた人口約33万人の中核都市にあります。

 福島県では、原子力発電所から北西部と西部にかけての汚染がひどく、半年が経とうとする現在(2011年秋)でも、郡山市では毎時1マイクロシーベルト(μSv)前後、草原や雑木林などでは2〜3μSv前後の放射線量が計測されます。本校の校庭でも、3月には毎時2μSv以上が計測され、校庭の表土を削って校庭のすみに積みあげ、ブルーシートをかぶせていました。校庭は使用禁止となり、子どもたちは1学期間、校庭に足を踏みいれることもできませんでした。
 夏休みに入り、校庭のすみに積みあげられていた表土もようやく地中に埋められることになりました。しかし、私が現在担任する4年生のクラスでも、この放射線の問題で数名が転校を余儀なくされました。また、逆に、原発から10km圏内の子どもが避難し、本クラスに転入してくるなど、とても複雑な状況でもあります。
 この3月11日から避難所でおこなわれた「被災地域学習支援プロジェクト」や、本クラスでおこなわれた放射線授業の歩みについて、みなさんに紹介したいと思います。

震災の日

 3月11日。これまで作成していた作文を子どもたちとパソコン室でプリントアウトしていたときに、今回の東日本大震災に被災しました。
 郡山市の震度は震度6弱から6強という揺れの大きさで、これまで経験したことのない揺れが襲ってきました。避難するときには、鉄筋コンクリートでできているはずの校舎が、ねじれながら揺れていました。一瞬、このまま倒壊してしまうのではないかという不安に襲われました。
「すぐに校庭に避難しなさい」という緊急校内放送で、子どもたちは、きしんでいる廊下から外へといっせいに避難しはじめました。そのときにはだれひとり声をだすこともできず、無我夢中での避難となりました。外では雪が舞い、校舎はずっとギシギシと音を立てながら揺れていました。ただ泣きじゃくる子どもたちへの対応に追われているそのときは、そのあとにさらなる災害が私たちの身に降りかかろうとは、まったく予想できませんでした。

原発事故直後のまち

「福島第一原子力発電所ですべての電源が喪失しました」
 当初、これが何を意味するのかはわかりませんでした。私は、「多重の安全策が施されているはず」の原子力発電所でどんな事故があろうとも、限定的な被害しかでないだろうと、根拠のない安心感をもっていました。しかし、その安心は原子炉建屋の爆発をテレビの映像で見て、一気に吹っとんでしまいました。それから続々と起こる爆発、そして緊急避難地域の拡大、まるで災害パニック映画を見ているかのような現実が襲ってきました。
 私たちの学校のある郡山市も当初は安全ゾーンといわれていましたが、現実には毎時10μSvを超えるような、ひじょうに高い放射線量が観測されはじめました。郡山市はインフラの被害が比較的少なかったものの、街に人の姿はなく、死んだようにひっそりと静まりかえっていました。
 放射線の影響で、私たちは自宅待機になりました。そんななか、原発周辺で緊急時避難区域に設定された川内村や富岡町の避難所となった郡山市の総合展示施設「ビッグパレットふくしま」は、2000名を超える避難者であふれかえっていました。

避難所で始まった学びあい

 郡山市の小中学校では11日の震災以後、休校となり、子どもたちはひと足早い春休みとなりました。このあいだに郡山市の多くの子どもたちが、県内外に避難を始めていました。
 私と同僚がまず動いたのは、郡山市に避難してきた富岡町、川内村の子どもたちへの対応でした。もともとその子どもたちを教えていた先生方も被災者になってしまったこともあり、自分や自分の家族を守ることで手いっぱいになってしまったのです。教師である私ができることは、物資の搬入を手伝うことではなく、子どもたちへの教育と考えました。おそらくこれからしばらくは安定して生活できないであろう子どもたちに、今年1年をしっかりと学べるように支援することでした。
 そこで、私と同僚とで、「被災地域学習支援プロジェクト」を立ち上げることにしました。このプロジェクトでは、ビッグパレット内にいる小中学生を対象にして、算数の予習をおこないます。これは、今後、学習の進行が遅れるであろう子どもたちが、新しい学校に行ってもスムーズに学習を進められるようにするものです。本校で、算数の苦手な子どもたちを対象におこなっている学習の応用で、予習をすることによって通常の授業がとても意欲的になり、また、学習のつまずきも小さくなる効果があるのです。
 各自治体の教育長には、プロジェクトの理念をご理解いただき、支援していただけることになりました。また、大手の教材会社である教育同人社や地元の教材会社の協力を得て、今年度の算数・数学のドリル・文具類を無償でご提供いただけることになりました。
 そして初日の3月26日。100名を超える子どもたちを集めて、この学習の意義を説明することにしました。そこには、きのう避難所内で卒園式を終えたばかりの子どもたちや、卒業式を終えた中学生や高校生も参加していました。

となりに立つ本校の子どもも、学習の進め方をアドバイスしてくれました。

「残念ながら、こんどの原発事故で、自分の家に帰ることや、いままでの学校で学習することがひじょうにむずかしくなりました。でも、だから勉強が遅れてしまうのはしかたがないとか、勉強がわからないのはしかたがないと言っても、それをだれも補ってくれるわけではありません。だからここで、みんなで力を合わせて学習をしていきましょう」
 そんな話をしました。その後、「学年みんなでいっしょにわからないことを教えあうこと」「自分たちでわからないところは上の学年の人に聞いてみること」といった学習の進め方などを同僚の教師が説明し、スタートしました。
 集まったばかりの子どもたちは当初、「どうして勉強するの?」という表情でしたが、仲間が集まり、テキストを目にすると、とたんに表情や動きが変わります。目を輝かせながら仲間と算数の解き方を話し合ったり、わからない子に説明したりする姿になりました。中学生もどんどんテキストをこなしながら、まわりの喧騒をよそにひじょうに集中して学習していました。
 最初の数日は学習するための机や椅子なども不足していましたが、そんなことも気にならないくらいに、子どもたちは学習に向きあっていました。

最初は学習スペースが確保できず、立ったまま学習することもありました。
しかし、こんな環境でも、みんな集中し、学習します。
本来なら、4月に入学式を迎える子どもたち。みんなで教えあったり、
問題をつくったりしています。

 私は、小学校にまだ入学していない子どもたちが気になり、寄り添っていました。最初は、「まだ私、小学生じゃないよ」と言う子どももいましたが、やはりみんなといっしょに学ぶことが楽しくなり、2時間の学習時間、ずっと算数をやりつづける姿も見られるようになりました。
「5−3というのはね、ほら●が5こあるでしょ? そこからね、3つなくすの。すると、いくつ残るかわかるよね」
 算数の得意なNさんがホワイトボードの図でみんなに説明すると、「わかった。2だよね」と、まわりの子どもたちがどんどん声を上げていきます。夢中になって説明したり、話し合ったり、問題をだしあったりする姿は、けっして幼児ではなく、もう立派な小学生の姿になっていました。こうした学習への向き方を子どもたちに身につけさせられたこともこのプロジェクトの成果だと思います。
 この「被災地域学習支援プロジェクト」は、その後、多くのボランティアに支えられながら10日ほどおこなわれ、この10日間で小学生は1学期間の算数・数学の予習はほぼ終わるくらい進むことができました。
 この避難所の子どもたちは現在、郡山市内の小中学校に転入したり、一部の学校を間借りして登校したりしています。いっしょに参加された地元の先生方からも、この学習のプロジェクトによって、子どもたちの学習は遅れることなく、むしろこれまでよりもずっといい状態で学習を進めることができているという話を聞いて、とてもうれしく思っています。

放射線から自分を守るための授業

「被災地域学習支援プロジェクト」が一段落するなかで、放射線の被曝から子どもを守るためには、われわれ教師は何をすればよいかを考えていました。教師ができる物理的な防護対策、たとえば「校舎からでない」とか「校庭では体育をやらない」という方法で、たしかに子どもの被曝量は減少させることができます。しかし、もっと大事なことは、いまの状態を子どもたちに理解させ、みずから行動できる賢さを身につけさせることなのだと考えました。
 三月中のひじょうに高い線量のあった時期でも、中・高校生などが無防備に出歩いたり、野外で運動をしたりする姿を何度も見かけました。その姿を見て、子どもを「規則」で防護するよりも、子どもたちがみずから学び、自分はどのように行動すべきかを考えられるように育てることが大事だと考えました。
 われわれ教師や親は「子どもだから」という理由で、「なぜ」にたいする答えのないまま子どもたちを縛りつけることがよくあります。しかし、理由を理解させることで、それは子どもたちみずからの行動に変化していくのです。ですから、学校での放射線教育がひじょうに重要であるのです。そんななかで私ができることは何でしょう。私ができることは、子どもたちに教育すること。この目の前の子どもたちが「世界でいちばん放射線にくわしい子どもたち」であるように教育していくことが、私の使命なのだと考えました。子どもたちのこれからの人生はとても長いものです。だからこそ、知識をあたえられるだけの子どもではなく、知識をみずからとり込み、自分らで考え、そして行動できる、そんな学ぶ力の強い子どもたちを育むことが私のすべきことなのだと考えました。
 また、学校全体での放射線教育のレベルを上げるためにも、先生方を対象にした学習会を開き、放射線にたいする正しい知識と理解、そして危険性を共有することにも努めることにしました。教師が知識量を上げ、情報を共有化することで、学校そのものの放射線意識が高まるのです。

始業式の日、そして授業開きの日

 そして4月11日。いよいよ郡山市でも新学期が始まりました。避難していたほとんどの子どもたちも、新学期にあわせて郡山市に戻ってきました。しかし、その時点でも、ひじょうに多くの不安な情報が飛びかい、教師も保護者もまだ混乱のなかにありました。
 私のクラスでは、まだ2名が関東に避難していて、全員がそろうことはありませんでした。また、原発事故の警戒区域である大熊町から、女の子が1名転校してきました。彼女の話から、原発付近では3月11日から12日にかけてひじょうに緊迫した状況で、みんなが命からがら懸命に避難してきたことがうかがえました。ひじょうに不安そうにしている両親や彼女を見ていると、早く安心した環境で学習や生活をさせたいという思いに駆られました。
 朝、教室に入ると、そこには震災前と変わらない子どもたちの姿がありました。
「私は新潟に行ってたんだ」
「ぼくはずっと秋田にいたよ」
「ぼくはずっと郡山にいて外にでられなかったから、毎日つまんなかったなあ」
 まるで夏休みが終わったかのようにニコニコしながらはしゃいでいるその姿を見て、ほっと安心した反面、現状の環境と子どもたちとの姿にギャップを感じました。
 翌日の授業開きの日、「被災地域学習支援プロジェクト」での経験をふまえて、子どもたちにつぎのような話をしました。
「いま、きみたちはこの原発の事故のことで、日本じゅう、いや、世界中から同情され、そして多くの支援がされることでしょう。でも、将来、きみたちが原発の事故があったからしかたなかったとか、原発のせいで勉強ができなくなったとか言えば、『かわいそうだね』と思ってもらえるだろうけど、そこで話は終わってしまう。いま大事なことは、自分の未来を切りひらくために勉強のできる賢い人間になること。だから、勉強も全力で取り組んでいく必要があるし、放射線のことだって、自分の将来のために、世界一くわしい小学生になる必要がある。それが、いまのきみたちを守ることになり、いまやらなければならないことだよ」
 いつまでも福島県の子どもだからという同情を受けるのではなく、われわれ教師は全国の子どもたちと同じレベル、いや、それよりも高いレベルで学べる子どもを育てていかなければならないと考えました。

テキスト「みんなで防ごうほうしゃせん」と学びあいの授業

 授業のはじめに「放射線って、なんだか知ってる?」と子どもたちに尋ねると、予想どおり、「からだに悪いもの」とか「ガンになっちゃう」「毒」ということばが返ってきました。
 放射線そのものがどんなものなのかは、これまで身近なことではなかった子どもたちにはわからないものです。福島県でも、連日ニュースで、放射性物質、ヨウ素、セシウム、ミリシーベルト、マイクロシーベルト、外部被曝、内部被曝などなど、ふだんわれわれが聞かないようなことばが連呼されていました。こうしたことばは、子どもにとっては宇宙人のことばと変わりないものです。授業で最初におこなうべきことは、ことばについて正確な情報を理解させることでした。しかし、子どもたちがこうしたことを学ぶためのテキストは、もちろんのことありませんでした。
 そこで、春休みのあいだに、子どもたちが学ぶためのテキストを自作することにしました。ツイッター上で相談をよびかけたところ、岐阜県在住のイラストレーターの柚木ミサトさんに協力いただけることになり、二人三脚でテキストの作成にあたりました。ことばだけではわかりにくい内容を、柚木さんが生き生きとしたキャラクターを使って子どもにもわかりやすくしてくれました。
 「みんなで防ごうほうしゃせん」は、こうした流れのなかで作成されました。

 このテキストは無料で公開され、福島県だけではなく東北・関東の多くの学校や保護者も手にすることができました。現在は、不足している情報を加筆し、「ほうしゃのうをやっつけろ大作戦!」というテキストにバージョンアップされて公開されています。
 このテキストをもとに放射線学習が始まりました。まずは用語一つひとつを子どもたちに説明してきました。
「放射線というのはね、光のようなもので、目には見えないものなんだよ」
「放射線がからだにあたると、からだの情報が入っているDNAというところに傷をつけてしまって、これが原因で病気になってしまうこともあるんだ」
 イメージしにくいことばはイラストが補足してくれることで、子どもたちの理解はどんどん深まっていきます。そこからの学習は、子どもたちによる学びあいで深めていきます。放射線についてくわしくなることを目標に、クラスのいろんな人とかかわりながら自分の疑問を解決したり、友だちの疑問に答えてあげたりしていきます。

A―ねえ、放射性物質って、どういうこと?
B―それはね、放射線をだすつぶつぶみたいなやつなんだよ。元素っていうやつ。
A―元素って?
B―ほら、ここに元素記号表があるでしょ。このなかのもので放射線をだすやつだよ。
A―元素から放射線がでるの?
B―そうそう。絵に描くと、こんな感じだよ。でも、目には見えないんだよ。
A―服を着ればだいじょうぶ?
B―放射線はからだをつき抜けちゃうんだって。

 このような会話がいたるところでおこなわれ、子どもたちはみずから放射線の知識を広げたり、考えを深めたりしていきます。
 もともと私の授業は子どもたちによる学びあいで進められ、どの教科の課題にたいしても、クラスみんなで力を合わせる協働学習をしています。授業中には子どもは自由に立ち歩いて、必要な人とつねにつながりながら学習を進めています。いつでも学級のだれかとつながりあって学習できるという環境を保障しています。このような環境だと子どもたちは遊び歩いて、きちんと学習に取り組めないのではないかと誤解を受けてしまうこともありますが、子どもたちはよく集中し、学びます。自由に学べる環境と明確な目標をあたえることで、伸び伸びと学習しはじめるのです。ですから、子どもたちの学力もずっと高くなります。
 こうした学びをしてきた子どもたちだからこそ、この困難をもきっと乗り越えていけるだろうと、私は考えていました。たしかに、子ども1人の力は貧弱かもしれません。でも、「子どもたち」という集団の力は大きいものだからです。
 子どもたちがつながりあう学習によって、原発付近から本クラスに転校してきた子は初日から温かく迎えいれられ、本人もスムーズにクラスのなかにとけ込み、笑顔の毎日を送ることができるようになりました。
「私ね、この学校に転校してきてね、ほんとうによかったって思う」
 放課後にそっと来て話してくれたことばにとても安心するとともに、早くもとの環境に戻れることをただ願いました。

(後編につづく)

出典:「現代」の授業を考える会編『エネルギーと放射線の授業』2011年、太郎次郎社エディタス

坂内智之 (ばんない・ともゆき)
1968年、福島県生まれ。福島県・小学校教諭。「ひとりも見捨てられない授業」を合い言葉に、子どもたちがひとつのチームとして学びあう授業をつくる。最近は、日本全国や世界各地の教室と教室とをインターネットで結び、学習方法の共有化や子どもの側からの授業改革をめざす「子ども未来プロジェクト」を進めている。 著書に『放射線になんか、まけないぞ!』、共著に『エネルギーと放射線の授業』(以上、小社刊)がある。