本だけ売ってメシが食えるか|第11回|妥協点を探る|小国貴司
第11回
妥協点を探る
小手先より仕組み
先日、経産省が町の本屋さんを支援するというニュースが流れて、SNSをにぎわせた。
賛否両論あるなかでもっとも批判されていたのが、カフェの併設やイベント開催を成功事例として共有しようとしている点だろう。うちの店のイベントへの向き合い方の正直なところは以前書いたし、そのイベントも、カフェも文具販売も、「粗利を増やす」という目的が第一であれば、うまくいかないのではないかなぁ? と思う。
本屋という存在が「本に込められた思い」を売る職種であるという点を魅力に感じる人も多いわけだが(ちなみに僕はその意見には懐疑的であるけれど、それにしても)、だいたいの「上層部」はそれを無視するような、つまり現場のモチベーションを下げるような方法をとる。今回も、そんなにおいを嗅ぎつけた業界関係者は多いだろう。これまで売場をさんざんいじくりまわされた経験から、批判的になっている人も多いと思う。
そもそも本屋って、何もしなくても売れる楽な商売だったというイメージをもたれがちだが、かつては現実として(いまも?)「売れなければ返品」「とくに選ばなくても定期的に売れていく雑誌」で食べていたわけだから、世間からそういうイメージをもたれるのもあながち間違っていない気がする。もちろん実際には、重労働だし粗利は小さいしで、本屋側にも言い分があるわけだが、それでも「リスクないじゃん」と言われたら「まぁ……たしかに」という気になってしまう。
ただ、時代は変わった。いま本屋をやろうとするのは、大航海時代に船乗りになるくらいのリスクがあると覚悟するべきだと思う。本は売れない。雑誌も売れないから、そこでお金を儲けようというのは至難の業だ。十中八九、そこに成功はない。
でも、大きな組織になればなるほど、どこか「過去の栄光」を引きずってはいないか? と思うのだ。粗利が小さいなら粗利の大きいものを組み合わせれば、本屋には人がまだまだけっこう来るんだから、それでいいじゃん! みたいな。
もしそれが成功する本屋のビジネスモデルということならば、その目的に使われるカフェも文具もイベントも、いい迷惑ではないか?
もちろん、そうじゃないお店がたくさんあることは知っている。それはそれで本気でやればいい。でも、もし飲食や文具販売を本気でやっているなら、なおさらそのノウハウをタダで水平展開することなどありえないし、それで「あなたの本屋」を救うことはできても、「本屋業界」を救うことなどできないはずなのだ。つまり、やはりここで必要なのは「店のノウハウ」なのではなく、業界の構造にメスを入れることだろう。
端的にいうと、業界が得た利益をきちんと適正なかたちで分配すること、なのではないか。先行者利益が多いこの業界の仕組みを、きちんと努力=売上どおりに分配すること。リスクをとったのなら、そのリスク分もきちんと利益に反映できる仕組みを作ること。これに尽きると思う。
「本屋を救う方法を考えたら、既存の本屋を救わずにスクラップすることでした。てへ」みたいなやばい結論が出る可能性すらある。それでもわれわれは本気でがんばらないといけない時代にきているのかもしれない。
さて、とはいうものの、BOOKS青いカバの主たる生計は古本である。前述のカフェやイベントと同じように、新刊書よりは粗利が大きい。それはリスクをとっているからだ。新刊と古本をいっしょに扱う書店のほうが「本屋」として文具販売やカフェをやるよりもずっと魅力的だと思うから、古本屋を選んだ。というより、本という商材を新刊と古本に分けて当たりまえというのが、そもそもおかしいのではないか、と思う。もちろん「古本は絶対に買わない」という人がいるから(逆もまたしかり)、商材としては純粋に同じではないのだが、もしわれわれのターゲット客が「本を読む人」なのであれば、どちらの選択肢も同時に提供できる店には意義があると思う。
しかし、もちろん覚悟は必要だ。「古本は粗利が大きいですよ、楽になりますよ」という点を推していくのは嘘になる。けっきょく、この古本屋稼業は好きか嫌いかが決め手になるから、嫌いな人は一生買取なんてやりたくないだろうし、本に押しつぶされそうになる日々は耐えられないだろう。やつらは勝手に増殖していく。ほんとうだ。買ってるつもりはないのに、本は勝手に増えていくのだ。その増えていく圧に、本が売れていないときは追いつめられる。そんなときは「おまえら、なんで稼げないんだ!」と、まるで売れないサーカス団の団長のような気分になる。実際は団長たる自分が悪いと知っていながら……。
店をはじめてから7年経ったいま、ぼんやりと見えている新刊と古本の違いというのがある。
それは、すべてをコントロールしたいと思うなら新刊のほうが向いているということだ。新刊ならば、自分が扱うほとんどの本の内容を把握するのも可能だろう。それは言い換えれば安心な場所だ。「本に込められた思い」をていねいに売ることもできる。自分がそれらの本についておおまかには知っているのだから、本は友人であるだろう。しかし、古本はもう少し禍々しい。店の棚は絶対に把握できないものたちが蠢いている場所である。
内容という面でもそうだが、時代が変わり本来とは意味が変わったものたち、新刊では排除されたものたちが、棚のあいだから顔を出している空間である。そいつらをコントロールしようとしたら、たぶん商売など成り立たない。本屋の店主にとって本は友人でもあるが、いつかそいつに噛み殺される(いや押し潰される)かもしれない友人である。そこを引き受けることができないと、本を買ったり売ったりはできない、という印象がある。
だから、つまりどんな商売でも、個別を見るとぜんぶ大変なので、もし「官」のお金が入るなら、業界全体の仕組みにかかわるような、もうすこし大きなお金の使い道を考えてほしいなぁ、という話。
人生を商品価値に「直す」
古本屋にとっての商材は、過去にだれかが買った本だ。いや、当たりまえのことを何をいまさら、と言われるかもしれないが、それこそが新刊書籍との決定的にして唯一の違いである。そのあいだにバーゲンブックという、純粋には二次流通ではない商材があるが、それはグレーということで、純粋な古本はだれかが買った本を(それを読んだか読んでないかはおいておいて)再度流通に乗せたものということになる。
つまり、古本というのは新刊にはないプレイヤーとして、「買った人」がいるということだ。この当たりまえのことを抜きにして、古本の商売は語れない。
買った人というのは、古本屋にとっては売ってくれる人、もしくはその予備軍ということでもある。
往々にして起こるのは、この買った人=売ってくれる人とわれわれ古本屋の価値観の不一致だ。
われわれは商売である以上、それが売り物にならなければ買うことはできない。もちろん古本屋にだって趣味や嗜好はあるし、10年後の値上がりを期待して買うことだってある。しかし、それはあくまで趣味と投資だ。趣味と投資は余裕資金でおこなわれる。BOOKS青いカバのような駆け出しの古本屋に、そんな余裕資金はない。いや、おそらくほとんどの古本屋にないだろう。かたや、趣味と投資に余裕資金は割かない古本屋だってある。つまり、基本的には、圧倒的に「今日明日で儲かるかどうか」が買取の基本になる。
一方、売るほうはそういうわけにはいかない。
多くの人が蔵書を評価してほしいと思っているはずだし(痛いほどその気持ちはわかる)、その評価が金銭的価値ではない場合すらある。評価してくれるならお金はどうでもいいと思う人もいる。「本を集めた人生を評価してくれ。お金はどうでもいい」と言われても、しかし、それはなかなか厳しい相談である。古本屋はカウンセラーではない。あくまで本を流通にもう一度乗せるのが仕事なのだ。そうして古本屋は、「いい本ですねぇ」と言ったら、精一杯お金を払わなくてはならない。それが良心的な古本屋だ。たぶん。
でも、いい本でも、いますぐ売れる本というのは多くはない。ここ10年はなおさらだ。市場で故人の蔵書を仕分けしていて、「売るのが20年遅かったな」という会話をすることがよくある。そのくらい本の市場は値が下がった。それは結局、本が売れないからだ。そんなわけで買取のとき、われわれは自然とこういう口調になるのだ。
「いい本なんですけどねぇ」
しかし、矛盾するようだが、どんなに商材的には見劣りしている本でも、ある人がそれを集めたということに対しては、一定の敬意を払うようにしている。われわれは商人であると同時に人間でもあるので、その人が本を読みたいと思っていること、つまり何かを知りたい、何かを変えたいという欲望をもっていたことに対して敬意を払うべきなのだ。仮にその本棚が自分には理解できないものであり、商品的に価値がないものであったとしても(現時点での代表例はおそらくヘイト本の類だろう)、その欲望にこそ、相反する考えの妥協点はあるはずだと思う。
まぁ、とはいうものの、商売は商売。集めた本への売り手の情熱と、あくまでその商品価値を計る買い手のわれわれという、売り手と買い手の溝は永遠に埋まらない。古本屋は商品としてしか蔵書を評価できないが、お客さんは商品価値以上の評価を望む。
ぼくの好きな写真家にヴィヴィアン・マイヤーという作家がいる。ベビーシッターとして働きながら、数十万枚というストリートスナップを撮りつづけ、生前は1枚も売れることがなかった。というよりは、商品として考えたことはなかったのだろう。しかし没後、オークションでそのネガという「ゴミの山」を手に入れた若者が作品を評価し、その素晴らしさを世に問い、またたくまに彼女は偉大な写真家になる。
しかし、少しいじわるかもしれないが、こんなことを考えてしまう。もし生前にネガの存在をこの若者が知り、売ってほしいと言ったら、写真家はそれを手放しただろうか? また、見るほうもそれを評価しただろうか? と。没後の評価にストーリー込みのロマンチシズムはないだろうか? と。そして、こうも考える。その大量のネガを違う人が手に入れていたら。まったく価値を見出そうとしていない人の手に渡っていたら?
だれしもが自分の集めた大量のものを売るとき、体を引き裂かれたような気持ちを味わう。モノが多ければ多いほどそうだろう。だからこそ、多くの人は亡くなってから、モノを手放す。生前にすべてのモノを手放す人にはまだ会ったことがない。そういった意味では、モノはまた自分自身なのだ。ときめきなど関係ない。大量のモノは自分自身になる。そして、それをわかっていながら、いやわかっているからこそ、古物商はそれをあくまで商品価値に「直す」のだ。自分自身がどこかのだれかの人生を背負い込まないためにも。
一方、商人ではなく人間としてのぼくは、ヴィヴィアン・マイヤーのネガが正しい「古物商」に渡ってよかったと心底思う。発見した若者もそうだが、これを商品にしようと思った人(それが古物商かどうかわからないが)も、正しくその「古物」を評価したことに感動する。そしてそれを商品として売り出し、その嗜好をきちんと手渡すことができた奇跡。それは売り手と買い手と商材が噛みあった奇跡であろう。
このような奇跡の種は、どこにでもありふれているはずだが、実際にうまくいくのはむずかしい。万に一つという可能性だろう。
商人としての冷徹ともいえる商品価値を計る視線と、同時にあるべき、ロマン(未知なる儲け?)を見逃さない視線。ひょっとしたら売り手と買い手の妥協点は、このあたりにあるのかもしれない。
小国貴司(おくに・たかし)
1980年生まれ。リブロ店長、本店アシスタント・マネージャーを経て、独立。2017年1月、駒込にて古書とセレクトされた新刊を取り扱う書店「BOOKS青いカバ」を開店。