本だけ売ってメシが食えるか|第14回|必要なのは余裕|小国貴司

本だけ売ってメシが食えるか 小国貴司 新刊書店員から独立して古書店「BOOKS青いカバ」を開店して5年。「本」という商品を売る仕事の持続可能性を考える。

新刊書店員から独立して古書店「BOOKS青いカバ」を開店して6年。「本」という商品を売る仕事の持続可能性を考える。

第14回
必要なのは余裕

棚づくりに工夫あり

 

 古本屋になってからの棚と、新刊書店時代の棚。なにか違いがあるだろうか? と考えてみる。

 パッと思いつくのは文庫の棚だ。

 新刊書店は、いまはそうではない店も増えてきたが、基本的には出版社別に並べるのが主流である。一方で、古本屋で出版社別に陳列しているのはあまり見ない。

 新刊は、一覧注文という作業があり(いまでもあるよね?)、毎月1回は各社の売行き好調商品を、出版社から送られてくる注文書(本のリストに注文欄のついたもの)を使って、チェックしながら欠本を補充する。ちなみに、「ベスト1000」とかそういう売れ筋を集めた注文書もあるのだけれど、この作業で自分はかならず、「全点注文書」を使うようにしていた。これならば、稼働しているのにノーマークだった本も載っているので、商品を覚えるのに大変役に立った。逆に言うと、現時点ですでに流通していない本もわかるわけだから、古書店としての修業にもなる。

 その欠本チェック作業のためにも、文庫棚は版元別に陳列されていたほうがやりやすいし、チェーン店ともなれば、各種の報奨金のためにも、出版社ごとの棚数の管理が重要になる。文庫の棚の10のうち、3割は新潮社、2割が講談社、角川、といったふうに振り分けていくわけだ。

 報奨金というのは、売上に応じて出版社から書店に特別に支払われるお金のことで、書店経営のなかで意外に重要なものだが、しかし世間的にはあまり知られていない。

 かつては(今でもそのような書店はあるかも?)売上確認のために本に挟み込まれた短冊=スリップをまとめて出版社に送って集計されていたが、僕が就職したころにはすでにPOSデータになっており、レジを通せば自動的に出版社に送られた。

 出版社の大型企画などで特殊な報奨券はいまでもたまに見ることがあり、これは「堅券かたけん」と読んで、それはそれは大事に扱われた。これだけは必ず回収して、チェーン本部から出版社に送られていたものと記憶している。堅券を無くしたらお金も貰えないし、返品もできないので、大変なことになるのだ。

 ぼくはチェーン店の本部にいたわけでもないし、いまの青いカバでは報奨金なんて出るわけもないので、それほど詳しいわけではない。が、書店経営にとって、年間数十万、数百万とキャッシュとして入ってくるこのお金の重要さは、書店の事業規模が大きくなればなるほど増す、ということはわかる。だって、数百万の利益というのは、数千万の売上分に匹敵するからだ。ときには1冊1冊の本を売るなんてことよりも、いかにしてこの報奨金を得るかが重要な作業にもなる。「もう少しで報奨金もらえそう!」となったら、ほかのものを押しのけても、ある特定の出版社の本を売らねばならなくなるのだ。

 なので、じつは書店全体のなかで、どの版元の棚がどれだけあるかというのは、経営的にきわめて重要なものなのだ。

 もし、文庫の棚が著者別になってしまえば、この計算がひじょうにやっかいなものとなる。おそらく出版社ごとの棚段数の管理は不可能であろう。お客さん的には「すべて著者別に並んでいたほうが探しやすい!」というのは事実なのだが、書店の経営的には、そうも言っていられないという事情は理解できる。

 だから結論としては、報奨金なんて関係のない小さなお店から著者順の並びにすればいいと思うし、実際そうなっていると思う。

 大きな書店がお客さんのニーズに応えられないというわけではない。大きな書店には大きな書店なりの役割ややり方があるし、そうせざるをえない状況もある。小さな書店が自分の生活を支えているように、大きなところはそこで働く数百人、数千人の生活を支えているのだ。そりゃあ、わかっていてもできないことはある。だから、できるところがやればいいと思うのだ。大きな書店では新刊と古書の併売なんて夢のまた夢だったら、うちのような小さな店がやればいい。規模によってできること・できないことがあって当たりまえなのだ。

 ちなみに青いカバの文庫棚で唯一(!)気をつかっているのは、じつは1冊100円の棚である。そこでは、ぐちゃぐちゃに商品が並ぶ。むしろぐちゃぐちゃなほうがよい。宝探しというのは、カオスから探すのがいちばん興奮するからだ。しかし、カオスとはいっても、見やすさはあんがい大事である。そこでひとつだけ、べつにたいしたことではないのだが、工夫をした。

 文庫の背表紙を見るとお気づきになると思うのだが、著者名がタイトルの上にある版元と下にある版元で大きく分かれる。前者は講談社、後者は新潮社が代表だ。その位置をそろえるのだ。

 つまり、100円文庫棚ではできるだけ、講談社や幻冬舎や光文社がまとまって並び、新潮社や文春文庫がまとまって並ぶ。こうすることで、著者名で探されることの多い文庫の棚が、ぐんと見やすくなる。

 人の目はあんがい、上下するとストレスを感じるもので、同じ高さで左から右に視線をすべらせたほうが、文字を見つけやすい。これは横書きが左から右に読むからだと思うし、逆に、古い本屋さんで右から左に本が並ぶのは、戦前の印刷物では横書きも右から左に書かれたからだろうと思っている。

 著者をあまり気にしない雑学系はそうではないが、小説は基本的にそのようにそろえる。なおかつ、上の段には著者名が下にある文庫、下の段には上にある文庫を並べる。ささやかな工夫だ。もはや自己満足の工夫ともいえるが、そのような小さな自己ルールの積み重ねが、あんがい店をつくっているものだ。

 100円の棚はバラエティとカオスを保ちながら、最小限の秩序で並んでいてほしいと思うので、できるだけ多くの話題を雑多に並べる。ルールが多すぎると、小さな店ではそれがとたんに邪魔になるので、できるだけそのあたりはバランスをとる。

 新刊書店と古書店の棚づくりの違い。ひと言でいうならば、「雑多さ」の強弱であるように思われる。

好きじゃなくてもできる

 いま古本屋をやっているぼくを見て、「好きなことを商売にできてよかったですね」と言う人もいる。そんなときは「ほんとそうですね。好きじゃないとできないですから」と言いつつ、好きじゃなくてもできたほうが健全では? と思うこともある。

 自分は絶対に本が嫌いではない。かといって、「本が好きなんですね」と言われると複雑な気分になる。好きだからやっているというより、本を売り買いすること以外に続けられることがなかった、というほうが、自分にとっては大事なのだ。

 たしかに本以外で好きと言えるものは少ない。これまでに見た映画の数はたぶん100本くらいだろうし、音楽にも熱狂したことはない。美術のほうが本より好きかもしれないが、熱狂的に好きということもない。スポーツもまたしかり。

 じゃあ、何にいちばんアドレナリンが出るかといえば、数年に1冊、鳥肌が立つような本や小説を読んだときだし、買取や市場でぐちゃぐちゃななかから1冊の本を見つけたときだ。でも、これは「好き」という感覚とはなんか違うような気がするのだ。

 そもそも、好きなことを仕事にできるのって、そんなに幸せなことだろうか? とも思う。最近なんだか世の中が、好きなことや、言いたいことや、やりたいことを称揚しすぎていやしないか? と。

 ぼくが好きなYouTubeのチャンネルで、1990年代くらいの東京の映像をひたすら流している人がいて、おそらくは8ミリビデオかなにかで撮影された、なんでもない街のようすだ。スマホでだれもが撮影できるようになったいまよりも、遥かに貴重な映像である。偶然、記録された、普通の人びとの普通の表情(少しこわばっている顔もあるが)が映されている。

 そのなかに本屋を映したものがある。

 驚くほど混んでいて、通路をすれ違うのもやっと、という感じ。みな雑誌やら本やらを立ち読みしていて、選んでいるというよりも読んでいるようすが伝わってくる。「ああ、90年代の本屋はこうだったよなぁ⋯⋯」と、いま見るとため息とうらやましさしか感じない。

 しかし、これだけぎっしり立ち読みされて、よく本屋は平気だったよなぁ、と思う。立ち読み客の近くで店主がハタキをかける、みたいなイメージがむかしの本屋にはあるが、それはたぶん実際には少数派で、おそらく大部分の本屋はこのようにぎっしりと立ち読み客であふれて、それでも商売はまわっていたのだろう。

 もしいま自分の店で、こんなふうにぎっしりの立ち読み客がいたら、自分は気が気でないだろう。乱暴な本の読み方をしている人はいないか、このうちどのくらいの人が買っていってくれるのか、もしだれも買わずに出ていってしまったら⋯⋯そういう雑念を払うように、本を拭き、値付けに集中する。もはや座禅である。

 つまり、必要なのは余裕なのだ。おそらく90年代の本屋には余裕があった。どれだけ立ち読みされようとも、汚れたら返品すればいいし、毎月十分暮らしていけるだけの売上はある。あるいは、今日が売上ゼロでも、明日はNHKテキストの発売日だし、まぁいいだろう、くらいの気持ちで商売ができたのだろう。そこには本が好きという感情は棚に上げて、ただただビジネスとしてまわすことのできる本屋があるのだ。

 昨今の「本屋をやっているのは好きだから」というイメージが行きすぎるのは、いかがなものか、と思う。ほかにも商材はいろいろあるけれど、たまたま本がいいなと思ったから本屋をやった。そのくらいの気持ちの人でも本屋をやれるようにならなければ、商売としては健全ではないのだと思う。

 だから、あえて言いたい。

 本屋なんて、本が好きじゃなくてもできるよ、と。

「本屋って、もうかるんでしょう? 一回やってみようかな」と言われる時代。

 そういう世の中がもう一度来てほしい。

 

小国貴司(おくに・たかし)
1980年生まれ。リブロ店長、本店アシスタント・マネージャーを経て、独立。2017年1月、駒込にて古書とセレクトされた新刊を取り扱う書店「BOOKS青いカバ」を開店。

BOOKS青いカバ