雑踏に椅子を置いてみる|第1回|私はババアになりたい|姫乃たま

雑踏に椅子を置いてみる 姫乃たま 「居場所」は見つけるもの? つくるもの? だれもがもっていそうなのに探し求められつづける、現代における自分の「居場所」論。

「居場所」は見つけるもの? つくるもの? だれもがもっていそうなのに探し求められつづける、現代における自分の「居場所」論。

 

第1回
私はババアになりたい
姫乃たま


「居場所」ってなんだろう?

 いつか知人の写真家が「居場所」をテーマに作品を撮っていました。インターネットで募集した被写体たちに、ひとりきりになるときに行く場所につれて行ってもらって、撮影するというもの。それは自室らしき場所であったり、雑踏の中であったり、大きな木のそばだったりしました。説明を読まないと、一見どういうテーマの写真なのかわかりません。被写体にも写っている場所にも一貫性がないからです。

 芸能人のポートレートや広告写真なんかも手掛けている写真家だったので、編集者たちは「そっちの仕事に打ちこんだほうが稼げるんじゃないか」とこっそり心配していたけれど、私はその心配を聞いたことで、これらの写真が芸能人や広告する商品のイメージに縛られていないことに気づきました。

 たぶん私はそのときにはじめて、誰かがひとりで自分の居場所にいるときの表情というのを見たと思います。被写体はどの人もアンニュイな表情を浮かべて、それぞれの落ちつく場所でたたずんでいました。

 私ははじめ、ひとりきりになるときがテーマだから、彼らはここへくるとき、人間関係か何かに疲れていて、それでこういう表情になっているのだと思いました。でも写真を眺めているうちに、そもそも居場所とはアンニュイな表情でいても、ありのままを受け入れてくれる場所のことではないかと思いあたったのです。

 写真のテーマはひとりきりになるときの場所だったけれど、居場所は複数人でいるときにも成立します。家族といるとき、友人といるとき、恋人といるとき、それも居場所になります。複数人でつくり上げる居場所の場合も、ずっと笑っていられる関係は最高だけれど、真顔のまま無言で佇んでいても、受け入れ合える関係は理想的だと思います。私にとっての居場所とはつまり、ありのままの自分で居られることができて、しかも安心できる環境のことなのでしょう。

 

身の置きどころがなかった幼少期

 そう考えると、私にとって居場所があったのは、幼稚園に入園するまでだったなあと思います。母親が常にそばにいて、まだ世界のことがまるでわかっていなかった私は、母親と自分は同じ人間だと思っていました。一心同体というのがいちばん近い感覚かもしれませんが、一心同体はふたりの人間が心を同じくすることなので、少し違います。もっと、それを超えて、完全に同じひとりの人間であるように感じていたのです。

 よく遊んでくれる母親でした。私の記憶のなかにほかの子どもは登場しなくて、どこにいて何をしていても母親を見ていたし、母親もまた私だけを見ていました。

 それなので幼稚園に通いはじめたときはとても驚きました。まさか私と母親が離れることになるなんて! 母親がいなくて寂しいから、先生たちやほかの子どもたちと遊びたいかというとそんなことはなく、ひたすら家に帰りたくて、それが叶わないならひとりになりたかった。でも幼稚園に先生たちの目の行き届かない場所があってはならないので、静かになれる場所はなく、トイレの扉まで背が低いし、何かとほかの子どもたちといっしょに行動させられて、なんだか逃げ場がないように感じていました。

 幼稚園のことを思えば、小学校は裏庭にある百葉箱のあたりなど、誰もいなくて少しだけ心が落ちついた気がします。大きな木がいくつか並んでいるおかげで、心なしか裏庭はひんやりしていました。

 それから校庭の朝礼台。東京の小学校は校庭が狭くて、数少ない遊具は混みあっていたけれど、朝礼台は朝の全校集会などで先生たちが立つ場所なので、明確に決まりがあった覚えはないけれど、なんとなく生徒たちが勝手に上がって遊んだりすることはありませんでした。

 ほかの人と朝礼台について話したことがないのだけど、私が通っていた小学校では、朝礼台の上に赤い木製の円錐が置かれていました。これは校庭が利用可能になっているときの合図で、おもに運動好きな男の子たちは、授業が終わりに差しかかるとそわそわしはじめて、窓ぎわに近い席の子が円錐の存在を確認しては、何をして遊ぶか話しあうのでした。

 私は短い休み時間にわざわざ校庭で遊ぶのは苦手だったけれど、外に出て遊ぶことが学校で推奨されている時期があり、休み時間は強制的に校庭に出されることがありました。そういうとき、私はそっと朝礼台の上の円錐を触りに行きました。校庭ではドッジボールや花いちもんめがくり広げられていて、それを視界のはしで眺めながら、人の少ない朝礼台のそばに立って、そっと円錐に触れました。円錐は窓から見てもわからないけれど、校庭の砂で軽くざらついていて、触っても何も起きませんでした。

 

人間関係が苦しかった小中学校

 敷地の狭い小学校とはいえ、幼稚園よりはずっと大きな校舎なので、そうして時折ひとりになれる場所は見つかったけれど、同級生とのコミュニケーションは幼稚園より複雑化するし、同時にまだ全員幼稚で突発的でもあるから、男の子も女の子も後先考えないで誰かの悪口を言って喧嘩になったり、突然「今日から誰を無視しよう」みたいな話が発生したりしました。

 小学校や中学校の話になると、結構な確率で無視を強要させられた、あるいは無視されたみたいな体験談を聞くけれど、これって本当になんなんだろう。それまでは気にくわなくても正面衝突しかできなかったから、小中学生にとっては無視って少し高度な攻撃って感じがするのかもしれません。殴ったり暴言を吐いたりしていたら先生も止められるけど、無視って先生も「仲良くしなさい」とは無理に仲裁しづらい空気があった気がします。厄介ですね。

 とにかく今日まで仲良かったはず(と私が思っていただけ)の子が、いきなり「あの子を無視しよう」とか言いはじめると、私はどちらとも仲がいいので心がちりぢりになったりしていました。こういうときは味方が少ないほうのそばにいることにしていたので、無視されている子とふつうに接したり励ましたりしていると、意外と無視しているほうにも何か理由があったりして、気にくわなくてさらに怒るみたいなことに発展します。

 私からすると無視する人って愉快犯というか、無駄に気が強いだけのようにも思えていたので、何か理由があることに驚いて、またどうしたらいいかわからなくなったり。

 そしてその理由が「あの子のほうが自分より塾での成績が良い」みたいな嫉妬であったりすると、いま思えば、無視しているほうも気持ちのコントロールがまだできなかったのだろうし、無視されている子は本当に気の毒だし、私も仲裁なんかできる能力もないし(塾でのことも知らないし)で、とにかく小学生のコミュニケーションというのは難易度が高かった⋯⋯

 もちろんいつももめているわけではないし、みんなで遊んで笑ったりするような平和な時間もあったけど、友人との関係を居場所として考えるには、当時のコミュニティは危うかったように思います。

 中学校に入るとさらに先輩との上下関係で争いが起きるから大変ですよね。先輩ってすごい怖かったな。年齢ひとつふたつしか違わないのに。おまけにきっちり反抗期もやっていたので、母親との衝突も重なって、中学時代は学校でも家でも落ち着ける時間がほとんどありませんでした(そんなに長引くこともなくいまは仲良いですが。良い飲み友達って感じです)。この年齢になるとさすがに母親と自分が同じ人間とかも思っていなくて、しかもわりと違う性質の人間であることもわかっていました。どこにいてもいつも緊張していて、ストレスで全身が鼻の穴の中までんでただれました(本当に)。

 小学校と中学校は地元の公立学校に通っていたのですが、同じ地域に住んでいて、年齢がだいたい同じだからという理由だけで、同じ学校で毎日顔を合わせて生活を送るのは私には難しかったです。かなり難しかった。当時も居場所は学校だけじゃないと開きなおれたらよかったのだけど、小中学生が好きに出かけられるところなんていくつもないし、お先真っ暗で、この先、高校生になっても、大学にいっても、会社に入っても、人生ってずうっとこんな感じで人間関係がきついんだろうなと思っていました。

 

自分でコミュニティをつくる

 思いがけず楽になったのは、高校生になってからです。

 自分で選んだ学校に入学して、同じ学校を選んで入学してきている子たちとは気があうものなんだなと思いました。もちろん仲良い子とか、そうでもない子とか、つきあいにグラデーションはあるんだけど、そんなに普段喋らない子とかでも、何か交流があったときに「こいつ嫌な奴だなあ」と誰かに思った記憶が全くありません。

 そんな環境にいても「クラスの子たちと全員仲良し!」という感じになるわけではなくて、やっぱり集団で何かをしたりするのは苦手なままでした。どこかで、ひとりになりたい、少人数でいたいという気持ちがあったのです。

 困ったのが文化祭で、必ずだしものに参加しないといけないのだけど、クラスの大人数で作業するのは苦手で、部活のメンバーで何かをやってもいいのだけど、そもそもそんな性格の人が部活動に入っているわけもなく(正確には一年生の夏休みまえに挫折して退部した)。そんなときに、有志が三人くらい集まれば、そのメンバーで何かだしものをしていいと知って、空き教室でDJパーティーを主催することにしました。

 仲の良い友人とたまに遊びに行っていたクラブで知り合った大人からDJ機材を借りて、その子たちと教室に搬入して交代でDJをしました。当時の文化祭は誰でも遊びにこられたので(いま思うと危ないのかな)、学校内の友人たちをはじめ、学校外の友達や、最近の高校生の状況をリサーチしたい知らない大人(やっぱり危ないな!)など、たくさんの人が遊びにきてくれました。

 大人数でいるのが苦手と書いたので、その状況も嫌だったのではと思われるかもしれませんが、そんなことはなくて、そのときにはじめて自分は準備されたコミュニティ(居場所)に居るのは苦手だけど、自分でコミュニティをつくり上げることには向いているかもしれないと気づいたのです。

 このころの私は16歳で、ちょうどフリーランスの地下アイドルとして活動をはじめた時期でもありました。まだ駆けだしで、誰かが主催しているライブに出演するのがおもな活動内容だったのですが、すぐにいろんな人たちの手を借りながら、自分でもライブを主催するようになりました。

 2009年くらいのことで、地下アイドルカルチャーはまだ黎明期。バンドが流行っていて、会場側のライブハウスから楽器を持たない私はなかなか信頼されませんでした。仕事もコンビニのアルバイトしかしたことがなかったので、ビジネスメールの書き方なんかわからなくて、いちいち大変だったけれど、私はやっぱりコミュニティをつくることに興味があったのだと思います。

 卒業したいまになってふり返ると、地下アイドルの仕事はライブではなくて、コミュニティ作りでした。狭い世界だったので地下アイドル同士の連携もあるし、何より自分のファンコミュニティを引率するのが地下アイドルの仕事だったのです。

 私が地下アイドルを卒業した理由もまた、ファンコミュニティについて考えた結果でした。円滑なファンコミュニティの維持は難しく、これは私が地下アイドルを卒業することで一度コミュニティを破壊して、地下アイドルとファンではなく、人間対人間として、コミュニティを再生しながら強化していく必要があると感じたのです。卒業して5年がたったいま、徐々にではありますが、想像していた状況に近づきつつあるように思います。

 

安心できる「居場所」で長生きしたい

 30代になってから、悪口を言う人や、思いやりのない人とのつきあいがまったくなくなりました。悪口を言わないとか、思いやりをもつとか、それこそ小学校の標語みたいだけれど、あのころは口うるさく言われても規則に縛られるようで嫌だったのが、大人になるとだいじだったんだなとやっとわかります。

 いまやさしくて面白い友人たちとお酒を飲みながら、この人も子どものころは喧嘩したり、意味もなく駆けだしたりしていたんだろうかと思うと、みんなここまでよく成長してきたなと、なんだか面白く思います。

 私は生まれてから、世のなかはずっと不景気で、未来に希望なんてなかったけど、それでもむかしから早く大人になりたかったし、いまでももっと歳を重ねたいと思っています。16歳で仕事をはじめたとき、大変だったけれど、それまでの生活よりずっとたのしくなったし、20代は仕事や病気や結婚やいろんなことがあってやっぱり大変だったけど10代よりたのしかったし、30代のいまは太ってメイクもなるべくしなくなったし、かわいいけれど手間がかかる服や着心地の悪い服は着なくなって⋯⋯と書くと、さすがに若いときのほうが良かったんじゃないの? と思われるかもしれないけど、私は30代のいまがこれまでの人生よりもずっと気分が楽でたのしいです。もちろん着飾っていたときも、着飾っていたときのたのしさはあったけれど。40代はもっとたのしみで、その先はもっとたのしみ。つまり私はババアになりたい。ババアは私の行く道であり、居場所だから。

 そのためには第一に生きていかなくてはなりません。私はずっと死にたかった。でもいまはなるべく長生きしたいと思っています。

 きっかけは夫と出会ったことでした。恋人だったころ、私はひどい鬱病でものすごく迷惑をかけたのだけど、彼は「君の内側にはユーモアがある」と言って譲りませんでした。調子が悪いときの私はお風呂に入れず、トイレに行くのすら億劫でぎりぎりまで起きあがれませんでした。人前に立つ仕事のプレッシャーからダイエットをやりすぎて、パン屋の前で「もうこれを食べられることは一生ないんだ⋯⋯」と静かに涙を流したり、栄養失調で生理が何か月も止まったり、考え方もおかしくなって心が泥のように落ちこんでいました。

 どう考えてもユーモアからものすごく遠い存在だった私を、彼は「大丈夫、君は面白い」と言いはり、私自身は何も面白くなかったけれど、でもそう言われるたびにに落ちない顔をしながら、じつはどこかで自分の体の中に「ユーモア」の場所があって、それが光っているように感じられていました。念のために書いておきますが、夫は私の失調を面白がっていたわけではありません(笑)。

 面白い面白いと言われているうちに、私は少しずつ元気になって、何年もかけて人生が本当に面白くなってきました。

 いま幼稚園に入園するまえに、母親といっしょに過ごしていたころのような気持ちで過ごしています。それはきっと私が安心しているからだと思います。安心しているときにポジティブな感情を受け取ることが幸せだとしたら、私は幼稚園という社会に放りこまれてからずっと、刺激的でポジティブなことを求めて体験しつづけてきたけれど、ずっと安心ができていなかったように思います。先のことはどうなるかわからないけれど、とにかく私はババアになりたい。そしてその居場所もまた幸せであることを願っています。

 

姫乃たま(ひめの・たま)
1993年、東京都生まれ。10年間の地下アイドル活動を経て、2019年にメジャーデビュー。2015年、現役地下アイドルとして地下アイドルの生態をまとめた『潜行~地下アイドルの人に言えない生活』(サイゾー社)を出版。以降、ライブイベントへの出演を中心に文筆業を営んでいる。
著書に『永遠なるものたち』(晶文社)、『職業としての地下アイドル』(朝日新聞出版)、『周縁漫画界 漫画の世界で生きる14人のインタビュー集』(KADOKAWA)などがある。