お父さんはフェミニストだよ、と言える日のために|第2回|「乳首が2回転半」の謎|張江浩司

お父さんはフェミニストだよ、と言える日のために 張江浩司 息子をジェンダーの呪縛から解き放たれた子に育てたい──。悩みながら、手探りで子育てに奮闘する父の試行錯誤の育児記録。

息子をジェンダーの呪縛から解き放たれた子に育てたい──。悩みながら、手探りで子育てに奮闘する父の試行錯誤の育児記録。

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第2回
「乳首が2回転半」の謎
張江浩司

授乳は痛いもの?

 子育てというものをやりはじめておよそ1か月。オムツを替える、沐浴させる、寝かしつける、ミルクをあげる、などそれぞれひとつずつの行為には慣れてきたものの、それらが予期せぬタイミングで組みあわさって襲来する総体としての「子育て」には、慣れさせてもらえる気がしない。

 それでも子どもは日に日にかわいくなるからすごい。生まれたてよりも幾分人間らしい意思の萌芽を目に宿すようになったし、「あだ」とか「ぴぐ」とか喃語も口にするようになった。まだ笑わないのもクールでいい。

 しかし、いくらなんでも「目に入れても痛くないほどかわいい」という慣用句は言いすぎじゃないかと妻に話すと、「こっちはついこないだ膣から出してるんだから、わざわざ目から戻したくない」。

 たったの1か月で1kgと2cm成長するスピードと、せわしなさ、かわいらしさは大変だった記憶を更新するのにじゅうぶんで、あの分娩すらすでに「なんだかいい思い出」に書きかえられつつあると妻は言う。当人がそうなら、私があれこれ言うのも無駄なおせっかいに思える。けれど、「じゃあよかったね」で済ませるのは不誠実だとも思う。

 たいていのことは「過ぎてしまえばみな美しい」けど、それで万事解決としてしまうと何も変わらない。目まぐるしい毎日の渦中にいて適応するために苦しさをいったん脇に置く必要がある当事者のとなりで、その苦しみを見逃さないこと。なんなら本人よりも心配して、悩んで、考えること。それが他者の役割なんじゃないだろうか。励ましも慰めも、対岸で屁をこきながら発していたのでは何の役にも立たない。

 そういう意味では、前回「あの日の妻の痛みと私の役に立たなさは、一生覚えておこうと思う。」と文章を締めくくったが、甘かった。「妻の痛みを覚えておこう」も何も、忘れる暇がない。

 産後、5日間入院した妻は、そこではじめての授乳を体験する。「おっぱい飲むのが上手な赤ちゃんですね!」と助産師さんに言われたそうだ。生まれたてでまだ歯も生えていない新生児だが、何度も吸いつかれると乳首が痛くなってくる。体勢を少しずらしてみるなど自分なりに工夫してみても、次第に乳首が傷ついてくる。

 たまらず助産師さんにアドバイスをこうと、「授乳は痛いものですよ〜。しばらくすると慣れますから」という返答。ただでさえ出産のダメージがまったく癒えておらず、頭もうまくまわらないなかで、「まあ、そんなもんなのかな」とぼんやり思ったという。

 退院の日、荷物を整理してナースセンターにも挨拶し、いよいよ子どもを抱えて病院をあとにするぞという瞬間、妻が助産師さんに「やっぱり授乳のとき、おっぱいが痛いんです。我慢できなくなったら、ミルクをあげたりして休んでも大丈夫ですか?」と尋ねた。「休んじゃうと、おっぱい出なくなっちゃいますから。大丈夫!2か月もすると、乳首が2回転半くらいして、何も感じなくなりますよ。それまでは我慢!」と満面の笑みの助産師さん。私たちは「乳首が2回転半」というのが、どういう状態なのかうまく想像できず、しかしそのワードの迫力にやられてしまって、帰りのタクシーの中で「乳首が2回転半か⋯⋯」とふたりで何度かつぶやいた。私の頭の中には、塚本晋也監督の『鉄男』(1989年)よろしく、ドリル状態になった妻の乳房が思い浮かんだ。

「まあ、それに比べたら」

 妊娠から分娩までおよそ40週、それなりの時間をかけて女性の身体は変化していくが、出産後は待ったなしで身体の機能が「出産」から「育児」に書きかえられているように感じた。あんなに大きかった子宮は1か月ほどで収縮するし、母乳は直後から出る。ホルモンバランスもすごい勢いで変化しているそうだ。もちろん、さまざまな部分に個人差はあるけれど、そのドラスティックなさまは「メタモルフォーゼ」ということばがしっくりくるほどだろう。

 妻は平均より母乳の生産量がかなり多いようで、乳房が張って痛そうだ。乳腺炎になってしまうかもしれないと、区の助成を利用して助産師さんに相談してみることにした。その方いわく、「もう乳腺炎になってますね」。子どもが泣くたびに母乳をあげていたらどんどんつくられてしまって母乳の生産量は増すばかりとのことで、少なくとも3時間は間隔をあけるように指導された。助産師さん自身も10回ほど乳腺炎になってしまったことがあるらしく、そのたびに40度近くまで発熱したそう。妻は熱までは出ていなかったが、ただでさえ体力がほとんどゼロの状態でそうなったらしんどすぎる。早い段階で聞いておけてよかった。乳首が痛くならない授乳の方法も教えてくれた。⋯⋯え、痛くないやり方があるの? 完全に痛くないとはいかないが、かなり軽減されたようで、妻は大喜び。「痛いけど我慢!」は何だったのか。いっそう「乳首が2回転半」の謎が深まった。

 1か月健診で病院に行った際、栄養相談という名目でミルクなどを販売している某食品メーカーの相談員に話しかけられた。「何かお困りのことはありませんか?」と言うので、「おっぱいがちょっと」と妻が答える。怪訝な顔をする相談員。健診では非常に順調に体重が増えており、母乳で育てている旨も伝えていたからだろう。「母乳が出過ぎるみたいで、乳腺炎が怖くて」と付け足すと、相談員さんは「なかなか出ない人もいますからね! まあ、それに比べたら」。笑顔の裏に「なんだ、そんなことか」というニュアンスをくみ取ってしまうのは、いささか斜に構えすぎかもしれない。しかし、個人の痛みが母親としての困難よりも軽んじられているのはたしかだと思う。

 勉強不足でこのときまで知らなかったのだが、母乳は吸われるかぎり出続け、そのあいだは生理が止まると助産師さんに教わった。私の頭にはまたしても1本の映画が思い浮かぶ。

 2015年に公開された『マッドマックス 怒りのデス・ロード』には、核戦争後の荒廃した世界で水と石油を我がものとする独裁者、イモータン・ジョーが登場する。彼が支配する砦には、「ワイブズ」と呼ばれる女性たちがおり、フュリオサ大隊長が彼女たちを逃がそうと反旗を翻すところから物語がはじまる。ワイブズに与えられた役割は「イモータン・ジョーの子どもを妊娠、出産すること」。加えて、あまりスポットは当たらないが、家畜のように管に繋がれて太らされ、母乳を搾られる女性たちも描かれる。この砦には、「独裁者の子どもを身籠るための妊娠可能な身体」、「栄養価の高い母乳を生産するための身体」の2種類しか女性の存在を許されない。

 ジョージ・ミラー監督は、女性は身体の変化に伴って、権力者たる男性から搾取されるフェーズも変化してしまうことを提示している。そして、イモータン・ジョーの支配は唯一の例外、男性を装って潜りこみ、戦士として地位を築いた女性であるフュリオサを端緒に瓦解する。

経済合理性が内包するもの

 念のため書いておくと、子どもに母乳をあげること自体が搾取であるとはまったく思っていない。妻は、授乳中にとても幸せを感じるという。まだ感情表現がほとんどない新生児との、唯一といっていい具体的で密接なコミュニケーションなのだから、それはそうだと思う。しかし、妊娠と出産、そして母乳にまつわるもろもろは、本来多面的な個人である女性の「母親」という一側面だけをクローズアップしすぎてしまうのは間違いないし、この問題は「母乳をあげる幸せ」とは切り離して考えないといけないんじゃないだろうか。

 頼みの綱のミルクの缶にも「赤ちゃんにとって、健康なお母さんの母乳が最良です」と書かれていてやるせない。母乳育児にはメリットがあり、この文言は国際的な食品規格で策定されたものであることは承知の上だが、これでは現状の性別役割分業の構造を強化してしまう。

 それにしても、妊娠初期にはつわりがあり、慣れてきたと思ったら切迫早産の危険性があるからと思いっきり行動を制限され、出産当日は想像を絶する激痛に襲われ、そのダメージが癒える間もなくヘロヘロな状態で授乳して乳首を痛め、母乳過多で乳腺炎に悩むという、あくまでも妻は一例だとしても、こんなに痛くて辛いことが満載となると不条理を感じずにおれない。

「人間の体ってよく出来てるよね」というのはよく聞く言葉だけれど、生殖にこんなに苦痛を伴うのは、どう考えてもバグだろう。人間の体、全然よく出来てない。「ワシらうまいもん食うての、マブいスケ抱く、そのために生まれてきとんじゃないの」(『仁義なき戦い 広島死闘篇』より)のような自然主義的で素朴な人間観は、いかにも出産可能性のない側の発想なんだなと、妻を目の当たりにして思い知らされた。本能のままに性行為をしたとして、その結果としての妊娠出産はとんでもなく苦しいし、食事も制限しなければならないのだから。本能や欲望の発露をガソリンとして、経済というエンジンをまわしていくことをある種の合理性と捉えて肯定することで成り立っているのが資本主義であり、消費社会であるとするなら、その社会システム自体が女性蔑視や差別を内包しているんじゃないかと思う。

 いつか広告代理店の人と打ち合わせしたときに「張江さんの仕事のモチベーションはなんですか? 僕はね、ぶっちゃけお金です。いい車に乗りたいし、高い時計もほしいんですよ。だから仕事も頑張れるんで」とドヤ顔で言われたときに感じたドス黒いものの正体は、おそらくこれだろう。この合理性とは違う視点から世界を見直すことが必要なのかもしれない。

 とはいえ、どこから見ればいいのか、まだこれっぽっちもわからない。うーんと悩んでいるあいだにも、子どもが泣く。妻が授乳しているあいだやることはないが、とりあえずとなりにいる。それでも泣き止まなくて、抱っこしたままウロウロする。これは何か身体の不調を訴えているのではないかと思い、ふたりでスマホと睨めっこする。新生児はとかく死の危険ととなり合わせで、泣いていても心配だし、黙っていても心配だ。ひとりっきりで「人間が死ぬかもしれない」という責任を背負うのは、精神的な負担が大きすぎる。なので、なるべくどの場面にも立ち会って、その責任を分かち合うようにする。

「僕は稼ぐから、君は子育てしてね」というのは、一見合理的なように見えてこの分担がまったくできない。無駄なようでも、いっしょに「どうしようどうしよう」と悩みながらやっていくしかない。

 そのあいだにルンバのスイッチをオンにして、床掃除してもらう。文明の利器はガンガン使う。子どもが泣きやんで寝てくれたので、妻に留守番してもらって買い物に行く。米が普通に買えるようになったのはよかったが、卵や野菜がジリジリ値上がりしているのは誠にファックオフだ。秋刀魚が豊漁なのは最近で唯一の良いニュース。近所の魚屋で3本で500円と、いまいち安いのか高いのかわからない値段だったが、勢いで購入。晩ごはんは秋刀魚の塩焼きだ。

おむつ替えのたびにお目にかかるこの人のことを、
毎回「寅次郎」と呼んでしまう。育児はつらいよ。

 

張江浩司(はりえ・こうじ)
1985年、北海道函館生まれ。ライター、司会、バンドマン、オルタナティブミュージック史研究者など多岐にわたり活動中。レコードレーベル「ハリエンタル」主宰。
ポッドキャスト「映画雑談」、「オルナタティブミュージックヒストリカルパースペクティヴ」、「しんどいエブリデイのためのソングス」。