お父さんはフェミニストだよ、と言える日のために|第5回|「優しい人間になれよ〜」と歌いかける|張江浩司

第5回
「優しい人間になれよ〜」と歌いかける
張江浩司
親子で緊張の飛行機デビュー
正月休みというとなんとなく実家に帰省し、冷蔵庫をモゾモゾと物色して発見したビールを飲んだり、地元の友だちに会ったり会わなかったり、紅白を見ながらウトウトしたかと思うと、つぎの瞬間には元旦の妙に長い時間やっている演芸番組を見ながらウトウトしていて時間感覚が失われたり、つまりダラダラの限りを尽くすものだった。
2023年の夏に結婚したので、今後の正月は義実家に行くこともあるだろうし、こうもやっていられない。実際、2024年の1月1日は妻の実家で過ごすことになり、やや緊張していたところ、震災と飛行機事故がたて続けに起こってしまって、親族一同ニュースに釘付けになっていたら、集まりは終わっていた。
そして、今回は子どもがいる正月だ。私の親にも妻の親にもひととおり面通しがすんでいるとはいえ、なかなかの一大イベント。落語や歌舞伎でいうところの襲名披露公演というか、アイドルグループの新メンバーお披露目ライブというか、とりあえず晴れがましい。年末から元旦まで北海道の私の実家に滞在し、1月2日は神奈川の妻の実家に行くことになった。
親戚が集まる場所特有の気まずい体験が待ちかまえているのではと身がまえているわれわれの前に実際に立ちはだかったのは、子どもが生まれて初めて体験する零下の寒さや、甥っ子・姪っ子たちからなんらかのウイルスをもらってくるリスク、そしてなにより飛行機だった。たかだか1時間強のフライトだが、子どもがどんな反応をするのか想像ができない。
調べてみると、ベビーベッドを用意してくれる航空会社もあるようだが、今回乗る機体にはないもよう。親の膝の上でじっとしていてもらうしかない。大人だって飛行機が苦手で乗れない人もいるのに、いわんや乳児をや。離陸時にはGがかかるし、気圧で耳が変になるし、絶対に泣いちゃうよ。ちなみに、医学的には生後8日以降から飛行機に乗っても問題ないそう。そんなにすぐ乗っても大丈夫なんだなと少し驚くと同時に、のっぴきならない事情と新生児を抱えて空路で国外に出ないといけない人のイメージが浮かび、勝手に複雑な気持ちになった。
時間に余裕をもって羽田空港に到着し、滞りなく保安検査などをすませ、混みあっているべビールームでオムツ替えと授乳をし、できることはやった。あとは祈るしかない。眠気がきているような表情なので、運よくフライト中ずっと寝てくれるかもしれない。そうなればわれわれの完全勝利である。しかし、そうは問屋が卸さないわけで、席について荷物を棚にしまったりしているうちに、子どもの目はギンギンに冴えてきた。だが、機嫌は悪くなさそう。
窓から景色などを興味深そうに見ている、ような気がする。うちの子どもは図太いところがあるから、心配は杞憂だったかもしれない。
滑走路を進むスピードが徐々に上がっていくのに比例して顔がこわばり、グズりだす。いや、まあ、やっぱりそうだよね。短時間で情緒が行ったり来たりしているので、妻と私はすでに疲れている。離陸したタイミングで泣きだしそうなので、おしゃぶりを口にあてがう。耳抜きするためにも、ツバなどの水分を飲み込む必要がある。電車や出先で泣きだしたときには、おしゃぶりがあれば一発で泣きやんでいたので、一挙両得。あまりにも効果があるので、乱用しないようにセーブしているほど信頼している。
が、このときは、ひと吸いするとすぐにぺッと吐き出してしまった。その瞬間、片方の口角がニヤリと上がり、「もうそんなもん通用しないよ」とばかりに笑っているような気がした。もう一度口元に持っていくと、手ではたき落とすような仕草をする。ああ、ついこのあいだまではおしゃぶりになされるがままだったのに、嗜好が変わったんですね。いまはおしゃぶりではない、と。意思が芽生えてるんですね。どんどん「個人」になっていっている。子どもの成長とは、親の思いどおりにならなくなるということなんだなあ。
などと感慨深くなっている場合ではない。泣き声は強くなるし、早く耳抜きしてあげたい。シートベルト着用サインが点灯しており席を立てない状況だったので、人目につきにくい場所だったこともあり、上着で隠しながら授乳することにした。とりあえず落ち着いたものの、またグズるのであやし、万策尽きて授乳する。これを4セットやったところで目的地に到着。飛行機を降りても子は不機嫌で、迎えにきてくれた私の弟の車の中でも泣きどおし。実家にたどり着いて、ようやく観念するかのように寝てくれた。
「おっぱい」への性的なまなざし
思い返すに、細心の注意を払ったとはいえ、公衆の面前での授乳は緊張した。だれかに「不愉快だからやめろ」と言われるのではないか。CAさんから「ほかのお客様のご迷惑になりますので」と、とがめられるのではないか。現実にはまったくそんなことなかったし、何も恥ずべきことはやっていないと思っている。それでも、私と妻は「べつに問題ないよね?」「大丈夫でしょ」とささやかに励ましあわなければならなかった。
クローズドな個室以外での授乳について、ネットでちょっと調べても、賛否両方の意見がすぐ見つかる。2017年には「レストランなどでの授乳は、ケープを羽織って隠しているとしても戸惑ってしまうのでやめてほしい」と新聞に投書されたこともあったようだ。子育て中の女性向けメディアで特集されることが多いので、取り上げられているのはほとんどが女性の声。「必要なことなんだからやらせてほしい」と悲鳴をあげているのも、「公共の場所なんだからやめてほしい」と言っているのも女性。先の新聞投書も、当時23歳の女性によるものだ。
ここで留意したいのは、反対派の意見を詳しく見ていくと、「カフェなどでゆっくりしたい人もいるかもしれないのに、いきなり授乳したらびっくりしてしまうのではないか」「男性は目のやり場に困ったしまうと思う」など、自分の感情ではなく他人の不愉快を想定している人が多いことだ。この「他人の不愉快」の根源は、「おっぱい」への性的な視線である。2018年のこの記事(たまひよ「犬山紙子さんはアリ派!? 賛否両論!『電車で授乳ケープ、駄目ですか?』」)でエッセイストの犬山紙子さんがこう指摘している。
「おっぱい=いやらしい、ケープの下だとしても肌を露出するのはいけないことだと感じるならば、それはその人に『おっぱい』への性的な偏見があるからだと思います」
2022年に日本公開された「セイント・フランシス」という映画にも、公園で授乳している母親のもとに別の母親がやってきて「車の中かトイレでやって」といさめるシーンがある。そして、彼女は「男に注目されたいなら別だけど」と続ける。国境を超えて、同じ問題が横たわっている。
(ちなみに、この「セイント・フランシス」は2022年の個人的ベスト映画。この連載を読んでいる方はグッとくるはずなので、ぜひご覧いただきたい。Amazon Primeで観られます。映画で表象される女性としては画期的なほど冴えない主人公ブリジットと、生意気にもほどがある6歳の少女フランシスのひと夏の交流を描いているけれど、ハートフルという言葉からはみ出るような場面がたくさん出てきて最高。妊娠中絶薬を飲むブリジットが相手の男と交わす、「あんたも何かやってよ。わざと食中毒になるとか。冷蔵庫に傷んだチキンがあるから」「⋯⋯真面目に言ってる?」というやりとりを、私は一生覚えているでしょう)
月亭可朝の「嘆きのボイン」の歌詞を引くまでもなく、女性の「おっぱい」は、だれかの性的な欲望のために存在しているのではない。「mamasta」というサイトには授乳のさいの注意事項として、「ケープをつけていても、おっぱいはおっぱいだからね。盗撮されて、インターネットにアップされるかもよ」という意見が載っているが、これは盗撮するほうの問題であって、それによって母親や子どもの活動が制限されるのは本末転倒だ。
つまり、飛行機内で私と妻が感じていた緊張は、その場にはいない「授乳を不愉快に思う人」に由来していて、その「授乳を不愉快に思う人」の不愉快は、「女性のおっぱいを性的に欲望する人」に由来しているということになる。おもに男性から生まれる欲望が入れ子構造的に内面化されて、子育てにかかわるいろいろなことを抑圧しているのだ。これは授乳や子育てだけにかかわらず、社会の至る場面に存在している。「俺が思いどおりにしたい」という欲望、そこから派生する「俺が思いどおりにしなければならない」という規範、どんどん複雑化して発生源が不明になりながらも伝播していく抑圧。最悪のピタゴラスイッチだ。
こういった抑圧がもたらす緊張や不安は、なかなか拭い去ることができない。子どもを連れた外出からなにごともなく帰宅できた経験が積み重なることで、徐々に薄れていくことはあっても、自分の中に仮想の他者がいるかぎりは、「今回は運がよかっただけかも。つぎはだれかに迷惑をかけるかもしれない」という懸念が消えてなくなることはない。道ですれ違う人に軽く舌打ちでもされれば、その思いは強化される。法律でどうこうできる類のものでもないだろう。
各人が「善い人」を目指す
これを解決するには、身もふたもない言い方をすれば、抑圧してる側の人間がちょっとでも「善い人」になるしかない。根本の原因は人間の心性にあるのだから、そこを変える必要がある。「人間なんてしょせん動物なんだから、弱いものを踏みつけて当たりまえ」「だれしもが仄暗い感情を抱えている」というような言葉は、ここでは意味がない。本性や本心、言い換えれば人間性のスタート地点が重要なのではなく、そこから「善い方向」に動こうとするダイナミズムに価値がある。根っから100点満点の善人がさらに101点の善人になろうとすることと、-100点のどうしようもない人間がなんとかして-99点でいようとあがくこと。両方に同じだけの価値がある。
お笑いコンビ「春とヒコーキ」のぐんぴぃが中心となって運営されているYouTubeチャンネル「バキ童チャンネル」。その、ある動画(「得体の知れないドレッドヘアーのバキ童スタッフ、金子を深掘りする」)のなかで、ぐんぴぃさんとスタッフのあいだに「(自分は)優しさに努めている人ではある」「優しい人を演じれば優しくなれると思ってる」「(本当に優しい人よりも)それのほうが大事だと思うところもありますね」という会話があった。ほぼ下ネタで構成されているチャンネルなのに、不思議と嫌悪感がないのは、こういう思いが共有されているからなのかと腑に落ちた(とはいえ、万人にはまったくおすすめできないくらいには下ネタだらけです)。
現在、『ビッグコミックスピリッツ』で鍋倉夫が連載している漫画「路傍のフジイ」。34話に登場する西園寺さんという女性は、凡庸で取り柄はないが人によっては「いい人」だと思われている会社の同僚の藤井(本作の主人公)を、「天然の善人」だと思っている。会社では「いい人」として振る舞いながらも、藤井に複雑な思いを抱く西園寺さんは、「私がひねくれてるのは自覚してる。自覚してるからそれがバレないように思っていることはなるべく言わず⋯いい人でいる努力をしてきた。いい人のふりをし続けられれば、それは『善い人』と変わらないから」とモノローグする。
ありがちな漫画だと、西園寺さんがいい人のふりをすることに疲れて鬱っぽくなりそうなものだが、この漫画は非凡なのでそうはならない。「私は努力してるし悪い人間じゃない。嫌いになる必要なんてない」と自分の振る舞いを肯定し、藤井に誕生日を祝うひと言をかける(勢いでこの話の結末まで書いてしまいましたが、西園寺さんの表情など漫画としてのよさにあふれているのでぜひ読んでください)。
2024年12月に横浜ネイキッドロフトでおこなわれた怪談にまつわるトークイベント「怪談と心FINAL──漂う心たち」を配信で視聴したところ、怪談作家の高田公太さんが「何か選ばなくちゃいけないときは、善い人間でいられるほうを選ぶ」と言っていた。予想しなかった熱い言葉に興奮した。
「優しい人を演じる」「いい人のふりをする」「善い人間でいられるほうを選ぶ」。こうしたリアルな日々の実践が、同時代の多種多様な面白い表現をとおして見られるのが本当にうれしい。これだけが、大統領就任イベントでナチスの敬礼の真似事をやってみせるようなクソ面白くない金持ちに対抗できる手段だと思う。かくいう私も、20代中盤までは「いい人って、ほかに何も褒めることがない人間にかける言葉だよね。張江さんはいい人ですね、なんて言われてもぜんぜんうれしくないわ」などとうそぶいていたことをはっきり覚えているが、本当に文系のひねくれたマッチョイズムが集約されていて最悪ですね。タイムスリップしてビンタしてやりたい。「いい人」は最高の褒め言葉です。
各人が「善い人」を目指すというのは、あまりにも具体的な数字を伴わない方法だから、ものすごく時間がかかるだろうし、私が生きているあいだにケリがつくことではないだろう。それでも、私はこれを実践しないといけないし、子どもには伝えなければならない。とりあえず、寝かしつけるときに「優しい人間になれよ〜」と適当なメロディーをつけて歌っている。音楽や映画、文学、お笑い、漫画、怪談、つまり文化の役割は、つまるところこれなんじゃないかという気がしている。

寝ている子どもにお地蔵さんのように供えられたお年玉。
張江浩司(はりえ・こうじ)
1985年、北海道函館生まれ。ライター、司会、バンドマン、オルタナティブミュージック史研究者など多岐にわたり活動中。レコードレーベル「ハリエンタル」主宰。
ポッドキャスト「映画雑談」、「オルナタティブミュージックヒストリカルパースペクティヴ」、「しんどいエブリデイのためのソングス」。