いっそ阿賀野でハラペーニョ!|第6回|手本があって手本がない|高松英昭

第6回
手本があって手本がない
「なんじかね?」「なんじかね?」
農作業を終えて軽トラの助手席に座ると、私は大きな水筒を抱えて麦茶をガブガブと飲んだ。汗でビタビタに濡れたTシャツは不快だし、水筒を抱える手は汗で白くふやけていた。
「なんじかね?」。運転席でエンジンをかけながら、ミツグさんが私にたずねた。
「もう17時ですけど、まだまだ暑いですね」。ミツグさんにそう言って、ふたたび水筒を抱えて麦茶をガブガブ飲んだ。
「なんじかね?」。ミツグさんは同じことをくり返したずねてきた。今度は少し怒気が混じっている。
「17時です」。よく聴こえなかったのかと思い、私も声を張り上げて答えた。それに、ミツグさんも腕時計をしているので、自分で時計を見ればいいのにと内心思い、怒気を少しにじませた。なんせ、暑いし、疲れていたから、対応も少し雑になる。
「おめさん、オレの言っていることわかっているか」。ミツグさんが声を張り上げた。
「疲れたか? と聞いているんだよ」
「なんぎ(難儀)かね? と言っていたのですね。てっきり、なんじ(何時)かね? と聞いていたのだと思ってました」。ミツグさんが何を言っていたのか、ようやく気がついた。
「おめさん、方言もわからんのかね」と言って、ミツグさんは軽トラを走らせた。
難儀は「つらい」とか「大変」を意味する新潟の日常語だ。
「ミツグさんも腕時計しているから、自分で見ればいいのにって、内心思っていましたよ」と言うと、ミツグさんはあきれたように小さく微笑んだ。
農道を走る軽トラの窓から生温かい風が入り込んでくる。汗で濡れたTシャツが少しずつ乾いていくようで心地よい。運転する師匠のわきで、私はひたすら麦茶をガブガブと飲んだ。
そのうち仕事が教えてくれる
ミツグさんは「百姓の師匠」である。移住者促進のための情報発信の活動として、私はミツグさんに弟子入りしたのだ。
移住者のなかでも新規就農希望者は「金の卵」のような存在である。国内の農業者の平均年齢は70歳近くまで迫り、高齢化が進んでいる。農業の担い手が圧倒的に不足しているのだ。地方では「新規就農希望者の奪いあい」といってもよい。とくに、若い新規就農希望者はポケモンのレアカードくらい、のどから手が出るほどほしい存在なのだ。
新規就農希望者は自治体が設けている研修制度を利用して、ベテラン農家のもとで営農などを学び、助成金や給付金など公的な支援を受けながら「ひとり立ち」していくのが一般的だ。ほかにも、新規就農を目的とした地域おこし協力隊員を募集する自治体も多い。
公的な研修制度や支援事業などの情報は、インターネットで検索すれば簡単に得ることができる。検索しても出てこないリアルな情報を発信できないかと考えていた。そこで、私自身がベテラン農家に弟子入りして、その「やりとり」をSNSで発信する企画を考えた。
地方は都会よりも人間関係が濃い。農業分野ではその濃度がさらに高くなる。ささいな行き違いが発端となって、移住先で苦労することもある。リアルな「やりとり」を発信することで、就農研修の具体的なイメージを喚起させるのがねらいだった。
ミツグさんは76歳で、ひとりで東京ドーム約4個分の面積に値する20ヘクタールほどの田んぼの面倒をみている。地元JAの職員に相談したら、ミツグさんを紹介してくれたのだ。
「企画のタイトルは『人生 山あり谷あり 田んぼあり』ですか。まさに、そんな人生を歩んできた方ですよ」とJAの職員は言って、その場でミツグさんに連絡してくれた。
そうした経緯で、市役所で事務作業や別の取材を昼過ぎごろまでして、そのあとは、ミツグさんといっしょに農作業することになった。
しばらくして、いつものように「じゃあ、農作業に行ってきます」と席を立つと、「高松さん、情報発信担当ということは忘れないでくださいね」と、市の担当者は小声で言った。なかなか鋭い。ミツグさんといっしょに農作業を続けていると、取材者という立場を離れて、兼業農家になったような気分になっていた。
ミツグさんは私より20歳以上年長だが、とにかく体が動く。単純に体力がある、ということではない。どんなに疲れていても、作業の所作がていねいなのだ。肉体と精神をくり返し鍛錬してきた人の強靭さがあった。私は疲れてくると、少しでも楽をしようと所作が雑になり、ミツグさんのような強靭さがない。百姓になるにしては、私はまだまだ「ヘタレ」なのだ。
ミツグさんは細かな指示を出すこともなく、こちらから質問しなければ、ていねいにあれこれ教えてくれるようなこともなかった。初対面なら、ぶっきらぼうと思ってしまう人もいるだろう。
「それは〝霊感ヤマカン第六感〟ってやつで、こういうのは手本があって手本がない。創意工夫しながらやって、そのうち仕事が教えてくれる」
作業手順をたずねると、ミツグさんは禅問答みたいなことを言うこともあった。

がっちりとした体格の師匠。空も背中も広い
重いホースを100メートル引きながら
エダマメ畑の薬剤散布作業のときもそうだった。ミツグさんが暮らす阿賀野市笹神地区は転作田を利用してエダマメを栽培している農家が多く、JAが「えんだま─縁玉」というブランドを立ち上げて全国販売している。ミツグさんも転作田でエダマメを3反ほど栽培していた。
エダマメ畑の道路わきに停めた軽トラの荷台には、大型エンジン散布機と病害虫を防除する薬剤の入ったローリータンクと呼ばれる液体運搬用のタンクが積んであった。エンジン散布機には消防ホースのように、先端にノズルの付いたホースが備えてある。そのホースを畑の向かい側まで引っぱっていき、薬剤を散布しながら復路を歩くことになる。
基本的な耕地区画は3反で、横幅30メートル、縦幅100メートルになる。つまり、狭い畝間を歩きながら、まずはホースを向かい側まで100メートルほど引っぱっていかないといけないのだ。
ミツグさんは無造作に、私にノズルを手渡した。「こうしたほうがいい」とか「このようにしろ」という指示もとくにない。私は消防士のようにノズルを持って、畑に向かった。ミツグさんは復路を歩く私の動きに合わせて、荷台の上からホースを巻きとっていく係だ。
エダマメ畑は水田からの転作で水持ちがよく、ところどころ、少しぬかるんでいた。油断すると足をとられて、よろけてしまいそうになる。70メートルほど歩いたあたりで、ホースがかなり重たくなってきた。ホースを伸ばしていくと、そのぶん、さらに負荷がかかっていくようだった。畑がぬかるんでいるから、畝間を這うホースの摩擦が強くなっているようだった。後ろをふり返ると、荷台に立つミツグさんの姿が小さく見えた。
ぬかるんだ地面とホースの重さにあえぎながら、なんとか、残り20メートルほどまでホースを引っぱることができた。あとは最後のバカ力で乗りきれる距離だが、「手本があって手本がない。創意工夫しながらやって、そのうち仕事が教えてくれる」というミツグさんの言葉が頭に浮かんだ。
これまでの経験で、なにか手本になるようなことはないか、脳内記憶ファイルをめくってみることにした。ぱたぱたと脳内記憶ファイルを繰っていくと、グレート・アントニオのことが脳裏に浮かんだ。
アントニオは1961年に来日した怪力自慢のプロレスラーで、試合前のデモンストレーションでは子どもたちを乗せた大型バス4台を鎖で引っぱって、日本中を驚かせた。私が生まれるまえの話だが、子どものころに夢中で読んでいたプロレス大百科に、アントニオが大型バスを鎖で引っぱっている写真が掲載されていた。手本になるかもしれない。やはり、子どものころの読書体験は大切である。
ちなみに、ミツグさんは「鉄人」の異名をもつプロレスラーのルー・テーズのような体格をしている。腕や胸板の線が太い。ルー・テーズは75歳まで現役で試合をしていた「鉄人」だ。「ミツグさんは鉄人ですよね」と言うと、「鉄は錆びるだろ」と、なんだかうれしそうに笑った。
プロレス大百科の写真には鎖を肩にかけ、やや前かがみになって体重を利用しながら鬼のような形相で大型観光バスを引っぱるアントニオの姿が写っていた記憶があった。それを真似てみる。腕力に頼らず、ホースを肩にかけ、前かがみになって体重をホースにのせて引っぱると、たしかに楽である。アントニオを降臨させれば、肉体的な負担を減らしてスムーズにできるような気がしてきた。

軽トラに載せたホース付き散布機

エダマメ畑の雑草を刈る師匠
農作業を苦役にしない発想
ふざけているわけではない。大真面目である。農作業をただこなすだけの仕事にしてしまうと、苦役になってしまう。フランス語で労働を意味する「トラバイユ」は、重い荷物を載せた荷台の車輪が軋む音が由来の言葉で、「奴隷の労働」を意味していたという。決まった労働時間や休日があるわけでもなく、暮らしと労働が混ざりあう農業の場合、農作業を苦役にしてしまうと、暮らしそのものが労苦になってしまうのだ。
そこで、知恵を働かせ、工夫しながら状況を改善させる。その達成感をくり返すことで、脳内に幸福を感じるドーパミンが多く分泌され、農作業を苦役から解放することができる。私が農作業を好きなのも、知恵と工夫が試される場面が多いからだ。
「こういうのは手本があって手本がない。創意工夫しながらやって、そのうち仕事が教えてくれる」というミツグさんの言葉に、「知恵と工夫を働かせて、労働を苦役から解放せよ」という意味がはらんでいると勝手に解釈している。ミツグさんの本意はわからないが、都合のよいように理解したほうが「やりとり」はスムーズにいくものだ。
それに、天候などの状況変化に、そのつど臨機応変に対応していく農作業は、完全にはマニュアル化できない。だからミツグさんも、作業前に細かな指示をしないのかもしれない。それに、マニュアル化できたとしても、とたんに指示されたことを黙々とこなす苦役へと変化して、つまらないものになってしまうだろう。
薬剤は耕作面積に応じて規定の量を散布しないといけないのだが、ひととおり散布を終えたとき、ローリータンクにはまだ半分くらい薬剤が残っていた。途中で足りなくなるのが怖くて、散布量を抑えすぎたのだろう。散布量は歩く速度で調節していくしかないが、私とミツグさんとでは歩幅も違うから、「このぐらいの速度で歩くように」と指示するのも難しい。ひたすらくり返し、試行錯誤するしかないのだろう。上手にできれば、そこに喜びが生まれるはずだ。
「かなり余らせてしまいました。歩く速度が早かったんですかね。どうしましょう」と、私はミツグさんに対応をゆだねた。ノズルとホースの接合部分をゆるめてしまったのか、薬剤が飛び散って、私のズボンがビタビタに濡れている。
「そこを往復して、残りを散布したらいいよ」とミツグさんは言って、ビタビタに濡れた私のズボンを不思議そうに眺めながら、接合部分を締めなおしてくれた。もう夕方だが、猛烈に暑い。私もミツグさんも汗でびっしょり濡れている。家に帰ったらアイスを食べようと考えながら、ノズルを振りまわしながら歩く。
「ノズルを上に向けて振りかけるように散布するのではなく、葉に直接かかるようにしたほうがいいわね」。帰り道、軽トラを運転しながら、ミツグさんがつぶやくように言った。
私は水筒の麦茶をガブガブ飲みながらうなずいた。

農作業を終えた帰路、車窓から夏の夕日が見えた
写真:高松英昭(以上、4点とも)
(つづく)
高松英昭(たかまつ・ひであき)
1970年生まれ。日本農業新聞を経て、2000年からフリーの写真家として活動を始める。食糧援助をテーマに内戦下のアンゴラ、インドでカースト制度に反対する不可触賤民の抗議運動、ホームレスの人々などを取材。2018年に新潟市にUターン。2023年から新潟県阿賀野市で移住者促進のための情報発信を担当する地域おこし協力隊員として活動中。
著書(写真集)に『STREET PEOPLE』(太郎次郎社エディタス)、『Documentary 写真』(共著)などがある。