雑踏に椅子を置いてみる|第5回|「鍵」はどこにある?|姫乃たま

雑踏に椅子を置いてみる 姫乃たま 「居場所」は見つけるもの? つくるもの? だれもがもっていそうなのに探し求められつづける、現代における自分の「居場所」論。

「居場所」は見つけるもの? つくるもの? だれもがもっていそうなのに探し求められつづける、現代における自分の「居場所」論。

 

第5回
「鍵」はどこにある?
姫乃たま


誰にも邪魔されず、ひとりでいられる場所

 星新一のショートショート集『妄想銀行』に収録されている「鍵」は、しがない男が道ばたで鍵を拾ったことから物語が始まります。当連載を通じて「居場所」について考えるようになって、ふと思い出したのが、この短いお話のことでした。

 私が『妄想銀行』を初めて読んだのは小学生のころで、この1冊がきっかけとなって読書の習慣が身につきました。もともと絵本や児童書が好きな子どもで、パッケージなどの注意書きを読むのも好きだったので、活字が好きではあったと思うのですが、大人が読むような文字の小さい文庫本を読んだのは『妄想銀行』が初めてでした。これは母親が持っていた1冊で、読了したときは大人の仲間入りをしたような誇らしい気持ちでした。

 あれからずいぶん時間が経って、自分で買い直してみたら、新しい帯の背に「読書への入り口」と書かれていて驚きました。まさに! 当時はインターネットに触れる機会があまりないのでわからなかったのですが、私のようにこの本がきっかけで読書をするようになった人は多いのでしょう。いまさらながら、読者の人たちとつながれたような嬉しい気持ちになりました。数ある本のなかから同じ本に出会っている人の存在というのは、なんだか嬉しいものです。

 そしてそれからはどんな本でも読める自信がついて、読書が、小学生だった私の居場所になりました。小学校の図書室の先生とは、いまでも個人的な交流があります。また、現実がつらいときにも、本を読むとその世界で心を旅させることができました。現実世界には存在しない魔法や、まだ知らない恋愛や、冒険や犯罪で胸がいっぱいになりました。読書は私の居場所でした。きっといまでもそうですが、行動範囲の狭かった子どものころには、もっと切実な心の拠り所であったように思います。

 私がふと「鍵」を思い出したのは、そういえばあれは居場所の話ではなかったかと思い当たったからです。あらためて読み直してみると、物語の冒頭で男が「ひでりの午後の植物が雨を求めるように、いつもなにかを待ちつづけていた」と書いてあります。そして「いつもなにかを待ちつづけていた」がゆえに、道ばたで得体の知れない鍵が輝いているように見えて拾うのです。この「なにか」というのが居場所のことなのではないかと私は思います。

 最終的にこの鍵が男をとある居場所へと導いていくのですが、それは私にとっての読書とは違って、実際に空間が存在する物理的な場所です。その部屋には男以外の人間は立ち入ることができません。私たちにもそういう場所が必要だと思います。誰にも邪魔されず、ひとりでいられる場所。

 気に入っている部屋の隅っことか、重たい布団の中とか、押し入れに閉じこもると気持ちが落ち着きます。そういう狭い場所が好きだと話す人はけっこう多い気がするのですが、どうしてでしょう。みんなかつてはお母さんのお腹の中で丸まって育ったからかもしれません。

 

同じ「推し」がいる関係

 そうしてひとりで居られることも大切だし、誰かと居ることも、ときにまた私たちの居場所になります。

 男も最終的な居場所にたどり着くまでに、拾った鍵に合うドアを探して、さまざまな体験をしました。そして、そのことが「とくに恵まれたものとは呼べなかった」はずの男の人生に張り合いを与えていくのです。

 男は鍵に合うドアを探して、さまざまな場所を訪れ、いろんな人と話をします。その詳細はたくさんは描かれないのですが、いずれも鍵がなければ足も運ばなかったし、つながりも持たなかった人たちであることはわかります。

 男にとっての鍵のように、何か共通の話題があってつながっている人たちが、私たちにもいると思います。たとえば、最近は推し活が一般的になりましたが、地下アイドルとして活動していたころ、私はファンの人たちを見ながら「推しがいる人って本当に楽しそうだなあ」とつねづね思っていました。

 地下アイドルを10年間続けられたのも、「オタクを見ているのが楽しい」というのが大きな理由のひとつでした。舞台に立って歌っているとき、大人ってこんなに楽しそうな表情ができるものなんだと衝撃を受けたものです。

 また、ライブが終わったあとのファン同士の打ち上げも楽しみなようで、あまりに楽しそうなので私も参加させてもらったことがあるのですが、おたがいに本名も知らないような間柄なのに、あだ名で呼びあって心から楽しそうに酒を酌み交わしていて、これは本当にいいなと思いました。

 私自身も地下アイドルを卒業してから、突然、プロレス(おもに凶器を使って攻防をくり返すデスマッチと呼ばれる試合形式)を観にいくのが趣味になり、それまで何かのファンになったことがなかったので、プロレス団体FREEDOMSの興行に通うことで、初めて誰かを応援するという体験ができました。

 かなり精神的にもつらい時期に通いはじめたのですが、血まみれになりながら戦っている選手を応援していると、リング上で何度でも立ち上がる選手と自分自身の精神状態が重なり、選手への応援を通じて自分自身の人生を肯定しているような気持ちにもなりました。

 いまでも舞台に立って歌うのが怖くなってしまったとき、舞台袖で「私はデスマッチファイターだ!」と暗示をかけると、私は勇気ある私になれます。「今日の試合は負けてもいいや……」と言いながらリングに上がるデスマッチファイターはいないから、私も強い気持ちになって舞台に上がれるのです。デスマッチは私にとって心の拠り所です。推しのいる人たちは、みんな多かれ少なかれ同じような気持ちなのかなと思います。

 そして嬉しいことに、私にもプロレスファンの友人ができました。性別も年齢も職業もばらばらで、やっぱりおたがいに本名すら知らなかったりするのですが、打ち上げも中盤になるとプロレスの話からも離れて、墓じまいとか不妊治療とか離婚とか、なんか人生のなかでも踏み込んだ話題について話し合ったりしていて、普通だったら一緒に遊ぶこともなかったような人たちとそんな話ができるなんて、共通の趣味がもたらす信頼感はすごいなあと思います。

 

抜けてもいいし、直してもいい

 しかし、人間関係によって形成される居場所は複雑で、ひとりで居るときとは違って、ときに傷つけられたり、傷つけてしまったりすることから逃れられません。先日も、推しを通じて仲良くなったはずの人たちとうまくやっていけないという相談を受けました。

 私はお酒が大好きで、酒場のカウンターも居場所のひとつになっているのですが、お酒を飲んでいるだけでも、ときどき複雑な人間関係の話が耳に入ることがあります。趣味のコミュニティでもそんなことが起こるのだから、学校や会社ご近所づきあいなど、輪から抜けづらいコミュニティはさらに大変でしょう。

 でもよく考えると、抜けだしたらいけないコミュニティって、ないんですよね。抜けだすのは大変だけれど、家族だって学校だって離れてもいいんです。精神的につらいときって思考も狭まってきて、身動きがとれなくなるけれど、つらい思いをしながらその場にいて弱っていくよりも、生きのびていくことのほうがずっと大切です。でも、その場にいるより勇気を出して抜けだすことのほうが大変なら、嵐が過ぎるまでやり過ごすのもいいと思います。

 精神的に余裕があるなら、居場所の修復に取り組むのもいいですよね。対人関係で傷ついたり、傷つけられたりしても、それで人生が終わってしまうわけではありません(「人生終わった!」とは思うけれど)。

 もちろんトラブルのないコミュニティのほうが居心地がいいけれど、場合によってはトラブルを乗り越えたときに、以前より関係性が深まることもあると思います。子どものころは友人との喧嘩によって対話の重要性を学んで、話し合えば以前よりも相手を深く理解して仲良くいられることがたくさんありました。

 大人になるとなかなか誰かと喧嘩することもありませんが、そんななかで私が大事だと思っているのは「指摘できる/してくれる友人」の存在です。子どものころは家族や学校の先生や、大人(と、まだ無遠慮な友だち)がなにかと自分のよくないところを指摘してくれるけれど、年齢を重ねれば重ねるほど、自分の間違いを指摘してくれる人は周りからいなくなっていきます。

 私は場の空気が微妙になったり、口頭で自分の思いを主張したりするのが苦手なほうなので、自分のことをふり返ってみても、たとえば何か言い間違いをしている人がいたとして、そこまで親しい間柄でなければ指摘することはありません。一瞬でも相手が恥ずかしい思いをするかもしれないし、自分の発言で恥ずかしい思いをさせてしまうのが嫌だからです。しかし長期的に考えれば、その場の空気よりも言い間違いに気づいたほうがいいので、もし親しい人であれば、「この人が私以外の人の前で恥をかいたら嫌だな」と思ってきちんと指摘するでしょう。

 言い間違いくらいだったら親しくない人でも指摘するという人も多いかと思いますが、これが身なりのことになったり、ひどい場合はパワハラ・セクハラしているなんてことになると、ただの知人だとさすがに指摘しづらいかと思います。でも、もし自分が無意識のうちにパワハラをしていて、おまけに誰にも指摘してもらえなかったらと思うと、ものすごく怖いです。だから大人になっても、おたがいに指摘できる友人とのコミュニティは大切だと思っています。

 

安心できる場所

 そんなに気をつかってまで人間関係を構築したくないという人もいるでしょう。私も、家に居たくない、学校もくだらない、でもほかに居場所と呼べる場所もなくて、もうひとりになりたいと思っている時期がありました。

 でも私たちがいま座っている椅子も、誰かが形や色を考えて、誰かがつくり、誰かがここまで運んだのだと思うと、誰とも、誰の考えとも関わりのない人生を歩むのは、なんとも難しいことがわかります。もしも心が疲れきっていたら、しばらくじっとおやすみして、せっかくなら居心地のいい居場所を探しに出たいものです。

「鍵」の男は次第に鍵自体が心の拠り所になっていきます。人間だけでなく、ぬいぐるみやお守りなど、心の拠り所になる「物」があるのも素敵だなと思います。また推し活の話になりますが、街なかで好きなアイドルやキャラクターのキーホルダーを付けている人を見かけると、すごくいいなといつも思います。

 居場所は探してもいいし、自分でつくってもいいし、好きに離れてもいいし、できれば複数に所属していたほうがいい(ひとつだけだと、そのひとつがなくなったときにどうしたらいいかわからなくなるから)でしょう。私がこの連載で「居場所」と書くとき、それは基本的に「安心できる場所」を指していて、そしてあらゆる居場所にはそうであってほしいと願っています。

「鍵」の男は、安心感、満足感、やすらぎの気持ちを味わいながら、最後に自分の居場所を見つけます。そして、さまざまな場所を訪れ、人びとと交流してきたことによって、自分はかけがえのない思い出を持っていることに気づくのです。私たちの居場所もそうであるとよいなと思っています。

 

姫乃たま(ひめの・たま)
1993年、東京都生まれ。10年間の地下アイドル活動を経て、2019年にメジャーデビュー。2015年、現役地下アイドルとして地下アイドルの生態をまとめた『潜行~地下アイドルの人に言えない生活』(サイゾー社)を出版。以降、ライブイベントへの出演を中心に文筆業を営んでいる。
著書に『永遠なるものたち』(晶文社)、『職業としての地下アイドル』(朝日新聞出版)、『周縁漫画界 漫画の世界で生きる14人のインタビュー集』(KADOKAWA)などがある。