お父さんはフェミニストだよ、と言える日のために|第6回|ホラーな母性よりも適切な情報|張江浩司

第6回
ホラーな母性よりも適切な情報
張江浩司
子どものゲロがいままでになく臭い
みなさん、離乳食がはじまりました。ついこのまえまで「5か月が近づいたら離乳食の準備」と目にしても、そんな先のことを考える余裕なんてなかったのに。「気づいたらあっという間に大きくなってるよ」といろんな人に言われたし、出産前はそういうもんだろうと自分たちでも思っていたが、育児に突入したら「ぜんぜんそんなことないじゃん!」と鼻息荒くなった。
思い返すと、最初の2か月は時間の流れが鉛のように重たい。母乳をあげるにせよミルクをあげるにせよ、正解がわからない。沐浴中、湯に落としそうにもなるし、身体を強くつかんだら折ってしまいそうにもなる。寝る時間もバラバラで、寝たと思ったら本当にすぐ泣いて起きる。バタバタとやることがたくさんあって、ひと段落つくということがない。つねに緊張して、疲れていた。1か月検診を終えたあと、つぎの4か月検診までが悠久に感じられた。
2か月たつと、妻いわく、母乳をあげるさいの乳首の痛みがだいぶ和らいだそうだ。これでストレスがだいぶ減ったとのこと。この連載の2回目に書いた助産師さんの言葉は正しかったわけだが、「2回転半」の意味はついぞわからなかった。3か月が近づくと、寝入る時間が20時〜21時あたりで安定してきた。もちろん夜泣きすることはあるけれど、ノンストップで朝まで起きないこともあり、妻も私も体力的にずいぶん楽になった。
寝る時間が決まると、それに向けてお風呂に入れる時間も、われわれが夕食をとる時間も、逆算で決まっていく。ルーティンになっていくと、今度は1日が激流のように過ぎていくようになった。鉛かと思ったら激流。子育てに限ったことではないが、「ちょうどいい」が訪れることはほぼない。ここに離乳食という新しいルーティンが加わる。これを書いている時点では、はじめて4日目なのでそこまでではないけれど、またどんどん加速していくだろう。
離乳食初日は緊張した。なんたって、この子どもはまだ液体しか口にしたことがない。ちゃんと食べられるのだろうか。うちでは私が料理担当だ。居酒屋で働いていたこともあるし、コロナ禍で時間ができたときにはYouTubeで目についたいろんなメニューを試したし、結婚以降は毎日自炊することで練度がメキメキ上がっている。正直、そこらへんのお店には負けない自信がある(原価率や利益を気にしなくていいのだから、家庭料理のほうが美味しいのは、ある意味あたりまえなんだけど)。
しかし、今回は「10倍がゆ」一本で勝負せねばならない。読んで字のごとく、米を10倍量の水で炊いたおかゆ。もちろん味つけなし。それをさらにすり鉢で細かくしてドロドロにする。これは自分で食べてみても美味しくはない。はたと気づいたが、私はいままで自分が美味しいと思っていないものを他人に供したことはなかった。客に「鯵のなめろうがしょっぱすぎる」とクレームをつけられたことはあっても、こちらとしてはそれくらい塩気があったほうが酒が進むのではと思ってのことだったし、このあいだ作ったソーメンチャンプルーは手順をミスして麺がモタッとしてしまったが、鰹節と紅生姜をこれでもかと振りかけることで「7:3で美味しい」くらいまでにリカバリーできた。
もちろん、食事歴39年の大人と1日の乳児では口にできるものが違うということを頭では理解しているが、ソワソワする。その前日は離乳食の本の10倍がゆのページを何度か眺め、ついでにネットでもレシピを確認し(当然、米と水を鍋に入れて煮る、としか書いてない)、気もそぞろだった。J-WAVEのラジオ番組に電話で生出演するという仕事があったが、つねに頭の片隅に10倍がゆがあって、そのわりにはうまくしゃべれたと思う。
いざその瞬間が近づいてきて、妻といっしょに「この硬さでいいのか」「もっと冷ましたほうがいいのでは」などと相談しつつ、なんとか10倍がゆは完成。それを妻が、さじで子どもの口に持っていく。ぺっと吐き出されたら、すごく傷ついてしまうかもしれない。自分でもよくわからない心の動きに動揺する。結果、子は口もとをデロデロにしながら前のめりで完食。よかった⋯⋯。
ひと安心して原稿仕事にとりかかっていると、妻から「子どものゲロがいままでになく臭い」とLINEが。この子はひんぱんに吐くので、心配になって検診のたびに相談しているが、「体重も順調に増えているので問題ないでしょう」と医師に言われてきた。ゲロそのものもほとんど匂わない。それが、おかゆひとさじで変わるとは。固形物の力、すごい。「かわいいだけじゃない段階に入った」と返すと、妻は「人間らしくなってきたね」と。名言だ。
子育てにまつわる恐怖
いまのところの育児は、「無意味」との戦いだ。新生児〜乳児とのコミュニケーションにおいて、言葉が通じないということを抜きにしても知識や経験則はほとんど役に立たず、身体的な感覚すらも根拠にできない。いちばんあたりさわりなく万人に共通すると思っていた「今日は寒いね」という感覚は、体温が約0.5℃違うから同じようには感じていないはず。その感覚にしたがってあったかくすると、SIDS(乳幼児突然死症候群)のリスクが上がる。先に書いたように「美味しい」も共有できない。
最近は妻が寝かしつけを担当してくれているが、先日久しぶりに私がやることになり、入浴して母乳も飲み、あとは寝るだけというタイミングで、ギャンギャンに泣きやまなくなってしまった。おむつは濡れていないし、不快な要素は思いつかない。暗い寝室で泣き叫ぶ乳児を抱え、途方に暮れる。ふだん、意味や理屈で把握しているはずの世界の輪郭がぼやけて、子どもとふたりだけで海に投げだされているような気分になる。無意味の海は広大で、どのような解釈も可能なぶん、どちらに泳ぎだしていいかわからない。泣き声から察した妻がようすを見にきてくれて、心底安心した。これで、この不安を共有できる。盛大なぐずりの意味をいっしょに探り、解釈を狭めることができる。
犬や猫のように違う種類の動物であれば、わりきってお世話することはできようが、子どもはいずれ大人になるから難しい。もしかしたら親であるわれわれの一挙手一投足が、子どもに影響してしまうかもしれない。そう思うと、子どもに対するすべての行動に気が抜けないし、そうするとますます意味を探ったり、意味を込めたりする。実際に、親の行動と子どもの成長には因果関係はあるんだと思う。しかし、「何が・どれくらい・どのように」影響するのか、具体的に示してくれるものはない。因果というスタートとゴールはあるのに、その中身がブラックボックスになっている。近年流行っている不条理な実話怪談のようだ。
批評家の北村紗衣さんがWebで連載している「あなたの感想って最高ですよね!──遊びながらやる映画批評」。韓国のホラー映画『哭声/コクソン』(ナ・ホンジン監督)をテーマにした回で北村さんは、「これは私が勝手に考えていることなんですけど、おそらく地域を問わず、現代人は『子どもをちゃんと大人にするにはどうしたらいいのか』という恐怖があるんだと思います。ちゃんと育てているつもりなのに、子どもがいきなりおかしくなるっていうことが根源的な恐怖として存在している」と語っているが、腹落ちしすぎて「そう! そうなんです!」と絶叫しそうになった。
心というものは目視することができないので、原理的に他者とのコミュニケーションには理解不可能性がついてまわるが、乳児期の無意味さは輪をかけて恐ろしい。
ここで注意したいのは、北村さんが「現代人は」と書いている点。つまり、この恐怖が顕現したのはごく最近だということだ。昔の人は恐ろしくなかったんだろうか。おそらく、かつての子育てにはとっておきの護符があったんじゃないかと思う。それが「母性」という概念だ。子どものことがわからなくたって、母親なら大丈夫。だって母性が備わっているから。じっと子どもの目を見つめれば、自然と意思疎通できる。母性があるからね。もちろん、熱が出たりじんましんが出たら医者が診るよ。でもそれまでは、母性のある母親が面倒みるのが一番。というような。現代では母性の神通力はどんどん無効化されているので、子育ての恐怖が封印を突き破って出てきているのだ。
母性依存への反抗
『哭声/コクソン』の続編として企画され、結果、独立した作品として公開されたタイ・韓国合作のホラー映画『女神の継承』(バンジョン・ピサンタナクーン監督、ナ・ホンジンは原案と製作を担当)は、タイの東北部イサーン地方の村に伝わるバ・ヤンという精霊を媒介する巫女ニムが物語を進める。この巫女は一族の女性が代々継いでおり、その村の儀礼をとりしきったり、相談に来た村人へ祈祷をおこなったりしている。当初はニムの姉が巫女になるはずだったが、それを拒否した姉はキリスト教に改宗。結果として、都会で服飾の専門学校に通っていたニムが呼び戻された。この姉の娘、つまりニムの姪が謎の体調不良に見舞われて⋯⋯、というところから物語がはじまる。
村に降りかかる超自然的なこと=意味不明なことへの対処が巫女に一任されており、その選抜理由は「そういう家系の女性だから」という一点のみ。コミュニティ全体に対して「母性」を発揮することを期待される巫女になったニムと、それよりも個人の自由を選んだ姉。その相剋からまだ逃れられない次世代としての姪。そして謎が解き明かされていくと、この映画に通底する呪いの根源は、男たちが資本主義システムのうえで重ねてきた数々の蛮行であることがわかり、本来そういったものと無縁であるはずの精霊バ・ヤンですらその巻き添えになってしまう。
『女神の継承』はさまざまなホラー表現がつぎからつぎへとやってくる満漢全席のような映画で、とくにクライマックスの怒涛のような除霊シーンは本当に素晴らしいのでぜひご覧いただきたいのだが、ラストのニムの衝撃的な独白は「母性的な役割を期待され、それを全うしようと努めてきた女性の後悔」にも読みとれる。
母性という超能力を発揮することをあたりまえに求められてきた女性側からの、現時点でのもっとも痛快なアンサーのひとつが、ロックバンド「おとぼけビ〜バ〜」の「アイドンビリーブマイ母性」。
「アイドンビリーブマイ母性 他人事じゃないよ児童虐待」「孫の顔見せて 見せてから戻す」「先祖代々 地獄!自己実現」など、歌詞はどこをとっても怒りとユーモアに満ち満ちており、高速のストレンジハードコアで叩きつけられる。現状への異議申し立てがそのままポップな表現に直結するというのはロックバンドの王道だし、フー・ファイターズやレッド・ホット・チリ・ペッパーズのフロントアクトとしてスタジアム級の会場で演奏し、海外ツアーの規模は年々大きくなっているのもすごすぎる。
科学的な指標があれば
言わずもがな、子どもは化け物でも妖怪でもないので、やるべきことは「母性」みたいなぼんやりした概念でフタをすることではなく、そこに意味を見出さなくても粛々と子育てできるように、デジタルな指標に基づくノウハウをシェアすることだと思う。
日本小児科医会が発行する『スマホに子守りをさせないで』というリーフレットには「なぜ泣いてるのか、わからないときに子育てアプリを見せるのではなく、『どうしたの』などの声かけや抱っこを繰り返すことで親子の絆が生まれます」とある。医学的なデータに基づいて書かれているものであろうし、この内容自体に異論を挟む余地はないけれど、「親子の絆」というワードには「母性」による封印と同じものを感じてゾッとする。子育ての恐怖にまとわりつくぼんやりした概念は、すぐにでも一掃されてしかるべきだろう。なぜスマホを見せてはいけないのか、目に悪いのか脳に悪いのか、何分見せたらどれくらいの影響があるのか、問題のない範囲はどこまでなのか、スマホのほかにも気をつけるべきことはあるのか、スマホ特有の問題なのか、「個人差がある」のであればどこまでを許容範囲にすべきか。たとえばこういった項目を、具体的な数字をあげて、だれでもアクセスできるようにしてほしい。
医療にかぎらず、育児にかかわることには雰囲気重視の文言が多く、解釈できる幅が広い。そこに恐怖が宿るすきまがあって、そのすきまに陰謀論やカルトが入り込むこともある。そうなれば、「子育てって大変!」という範疇を超える問題になってしまう。われわれがコロナ禍の数年で経験したことが、じつは妊娠・育児にも昔から潜んでいるのだ。コロナ禍を収束させたのが怪しげな流言ではなく科学的な態度だったように、子育てに必要なのは適切な情報しかない。エモーショナルでLOVEな部分は規範的に教えられるべきではなく、各人がそれぞれのやり方でぞんぶんに実践していけばいい。
そういえば、妻が子どもを予防接種に連れていってくれたとき、医師と雑談する時間があって、「私は母乳で育ててるんですけど、なかなか体重は減らないものですね。母乳ダイエットって言うくらいなのに」と何気なく話したそう。医師は微笑みながら、「ああ、パートナーの協力もあって楽しく子育てできてる方は、そんなに痩せないことが多いですよ。体重がガクッと減るのはたいていワンオペのママさんで。まあ、やつれてるんです」。
⋯⋯いくらなんでも、さすがに怖すぎる。

張江浩司(はりえ・こうじ)
1985年、北海道函館生まれ。ライター、司会、バンドマン、オルタナティブミュージック史研究者など多岐にわたり活動中。レコードレーベル「ハリエンタル」主宰。
ポッドキャスト「映画雑談」、「オルナタティブミュージックヒストリカルパースペクティヴ」、「しんどいエブリデイのためのソングス」。