こんな授業があったんだ│第4回│にわとりを殺して食べる〈前編〉│鳥山敏子
にわとりを殺して食べる 〈前編〉
(小学4年生・1981年)
鳥山敏子
(小学4年生・1981年)
鳥山敏子
◎にわとり狩り:後藤有理子
とても、ざんこくでした。
にわとりを殺しました。わたしは殺せませんでした。殺し方……というので、先生が見せてくれました。まっ赤な血が、ぴゅーっととびちりました。あたり一面がまっ赤にそまりました。わたしのすきなにわとりも、殺されました。
「もう、やめてっ、やめてったらー」
女子は泣きさけびました。にわとりをだきながら、泣いている人もいました。男子がナイフをもって、おいかけてきました。
「バカバカバカっ、れい血人間──」
なんどもなんどもさけびました。でも、もうだめでした。ほとんど殺されていました。(鳥山注:八高線の鉄橋の)大きい柱の後ろで、声も出さないで泣きました。
「も、もう、わたし、なんにも食べない!」
そう、わたしは言いました。でも、ほんとうはとってもとってもおなかがすいていました。さっき、わたしがいったようなことをいった人も、しまいには、
「わたし、鳥の肉だけ食べない」
といっています。なんだか、なさけない気持ちです。でも、わたしも、ソーセージを2本、たべました。
朝からの絶食のあとで
──稲刈りをして、多摩川べりへ
子どもたちは、朝から一滴の水も、食べものも口にしていない。まず、空腹にしておくことが“にわとり殺し”参加の条件であった。
あと4日もすれば11月だというのに、よく晴れわたった暖かい日曜日。前日までつづいた雨はうそのよう。東京の郊外、昭島市の中村博紀さんの田んぼに、総勢90人以上が集合。4年5組の子どもたちとその兄弟、母親たち、わたしの友人4人、わたしの息子と娘である。この日は中村さんのほかに、協力者がもうひとり。『子どもを救え』などを書いた新島淳良さんの息子さんの雄高さんである。彼は元・山岸会のメンバーで、にわとりをつぶすことにはなれているという。彼をつれてきてくれたのは、サークル「授業の広場」の仲間・高崎明さんである。
まず、中村さんの田んぼで、6月に田植えした稲を母子で刈った。2時間ばかり、刈ったり、たばねたり、干したりしたあと、歩いて20分ばかりある多摩川へ、にわとり狩りに出かける。
にわとりは22羽。ダンボール箱のなかにいれておいた。早朝、中村さんとふたりで、養鶏をやっている大野さんのところへ行って、いただいてきたものだ。大野さんは、私が昭島市の学校につとめていたときの父母で、いつも授業に気持ちよく協力してくれた、数少なくなった東京のお百姓さんのひとりだ。最初は、7、8羽でにわとり狩りを行なうつもりだったが、大野さんがどんどん箱につめてくれたため、22羽にもなってしまった。それは、卵を生むよりもエサ代のほうにお金がかかるようになったにわとりだった。
中村博紀さんが用意してくれたもの──肉をさす70センチくらいの竹のくし100本以上。大きな鉄のおかま、かまど、アルミの大なべ、鉄の大なべ、包丁、まないた、金しゃもじ、小麦粉、水のはいった大きなポリバケツ、ゆでピーナッツ、しょうゆ、しお、野菜、つけもの、まき、殺したにわとりをつるす竹ざお。それらと22羽のにわとりを入れたダンボール箱を、中村さんと新島さんの車2台に積んで多摩川へ。
そのほかにお母さんたちが用意したものは、ナス、ピーマン、ウィンナ・ソーセージ、小麦粉、うどん、しょうゆ、包丁、まないたである。子どもたちは着がえの服とおわん、おはしをもってきていた。それらはそれぞれがしょって多摩川へ。弁当と水とうはもってきてはいけないことにしておいた。
多摩川べりでの水遊び
──おとなたちはカマドづくり
長い列をつくって歩いた。20分ばかり歩いたところで多摩川の大きな堤防に出た。まっ青な、雲ひとつない空。白銀のススキの穂が波うち、多摩川の水がまぶしく光っている。遠くに富士山がくっきりと美しい。多摩川が見えたとたん、子どもたちの足ははやくなる。土手を走った。冷夏異変で、まむしが出る可能性もあるので、注意をしておいた。
広い川原をとおり、ススキの穂波のあいだをぬって八高線の鉄橋の下へ。きのう下見をしておいたところだ。そこは、“昭島くじら”発見の場所としても有名である。危険なところはあまりないが、なれない川だけにじゅうぶん注意を与える。母親たちは手わけをして子どもたちをみることにしている。
到着するやいなや、子どもたちはずぶぬれになってもいい服に着替えた。着替える時間ももどかしいらしく、心はもう多摩川のなか。きゃっきゃっと大よろこびで水にはいる。気のはやい子は、もう釣りをはじめている。あたたかいので下着1枚になったり、パンツだけで川のなかにはいったりする子もいる。ビルの谷間が遊び場になっている子どもたちなのだ。いまは、にわとり狩りの準備をするよりも、少しでも川で遊ばせてやりたい。わたしは親たちに声をかけ、車につんできた道具、食糧、水、まき、にわとりを、ほとんど大人たちの手で運んでもらうことにした。
なにとて都会育ちの親子。石でかまどひとつつくるのもたいへんだ。中村さんの指導をうけて、なんとか大きなおなべとおかまで大量の湯をわかした。さあ、いよいよ、にわとり狩りだ。
「おおい、集まれ! にわとり狩りだよ」
さすがは都会っ子だ。男の子の多くが手にしているのはりっぱな高価なつり道具だ。けれど、どの子も1ぴきもまだつれてはいない。糸をまきとる音だけはよくひびいていたが……。釣りに未練を残しながらも集合。
いよいよ、にわとり狩り
──殺すから、目をはなさないで!
「いまから、にわとりを放つよ」
ダンボールのなかのにわとりは、逃げないように両翼を長時間、交差されていたためか弱っている。それでもダンボールから出されたにわとりは、あちこち歩きまわりはじめた。こわごわ追いかける子。つかまえて抱きかかえる子。水のなかまで逃げていくにわとり。かまどの煙のなかですくんで動かないにわとり。
「先生、これ殺すの、いやだよ」
母親たちも、「殺すのなんてかわいそう」「できないわ」といっている。
にわとりをみればみるほど、殺したくないと思う心は強くなっていく。絶対、殺したくないといって抱きかかえ、火から遠ざかっていく女の子たちをみて、男の子が追いかけていく。男の子だって、殺すのはいやなのだが、女の子のてまえもあってか、あまり態度にださない。
「さあ、中村さんに、にわとりのつぶし方を教えてもらうから、よくみてて」
中村さんは、にわとりの首をきゅっとひねった。子どもたちも親たちも思わず顔をそむける。ぐにゃっとなったにわとりの両足をおさえ、首の毛をむしり、包丁をあてた。「いやだ!」「こわい!」。ぐっと力が入れられた。血がドクドクとふきでる。頸動脈を切断された首がブランとなったが、にわとりのからだは最後の力をふりしぼってあばれる。その生命力のすごさに身がすくむ。さかさまにつるして血を出す。ドクドクとわきでるまっ赤な血。それでもにわとりはあばれつづけた。
やがて、おとなしくなった。死んだのだ。じゅうぶん血を出しきったところで、湯のわきたっているなべにさっと入れて、とり出した。とさかも目も黄色く白く変色していた。わたしたちをうらんでいるような目だ。わたしは、呆然と立って凝視している子どもたちや親たちに声をかけた。
「さあ、みんなで毛をむしって! むしった毛はビニール袋にいれて、散らかさないように」
いやがる子どもや親の心をはねかえすように、事務的な口調でいった。つき動かされた親子は、羽をむしりはじめた、こわごわと。むしりとっていく羽の下にみえてくるものは、いつも店頭で目にしているあの鶏肉である。ふたたび中村さんの手によって、もも肉、手羽肉と、料理されていくのをみているうち、わずかずつ子どもたちのからだに変化がみられる。その変化は、やがて、その肉のかたまりが完全にバラされ、小さくなり、いよいよ竹ぐしにさして焼かれるという段階になって、はっきりと出てきた。
「ぼく、もも肉、ちょうだい!」
竹ぐしをもって行列ができたのだ。朝早く起き、1時間、電車にゆられ、長い道のりを歩いて多摩川まできた子どもたちである。朝からなにも食べていないし、なにも飲んでいないのだ。そのうえ、稲刈りもしたし、水にはいって遊びもした。かわいそうだと思っていた気持ちより空腹が勝ったのだ。
まず、何人かの男の子たちが、少しずつ自分の手でにわとりを料理しはじめた。首をひねり、頸動脈を切り、血を出し、湯につけ、毛をむしる。この一連の作業をこわごわと、あるいは、自分をかりたてるようにして進めた。そして、女の子たちも少しずつやるようになった。こうして、多くの手によって21羽のにわとりを殺した。しかし、どうにもそれをみたくないといって逃げ、1羽のにわとりを抱いて、泣きつづける女の子たちもいた。その女の子たちを集めて、
「わたしがいまからにわとりを殺すから、けっして目をそらさずに見ていること!」
かなりきつい口調で命令した。子どもたちの泣き声をはねのけるようにして、わたしは包丁を手にした。いまのいままで子どもたちの胸に抱かれて生きていたにわとり。そのぬくもりがわたしの心にも痛い。でも、わたしの手はそういう思いを断ち切った。
これらの肉は、中村さん、新島さん、お母さんたちの手でこまかく料理された。子どもたちは、それを竹のくしにさし、ウィンナ・ソーセージ、ナス、ピーマンなどもさして、バーベキューにし、塩をふりかけて焼いて食べた。口のまわりを黒くし、ガツガツとくらいつき、空腹を満たしていった。
一方、大きなおかまですいとんをつくった。小麦粉を水でとき、おたまですくって、ぐらぐら煮えたつ湯のなかに入れる。野菜、にわとりの肉、しょうゆをいれて煮たてる。
竹にさした肉を食べないといっていた何人かの子も、やがて、おわんをもってすいとんのまわりにやってきた。「肉をいれないでね」といって。
生きるために、いのちを奪う
──殺す人と食べる人の分離
「四年生の子どもににわとりを殺させるなんて、なんというおそろしいことをしているのだ。殺したことが子どもの心のなかに残虐性をうえつけることにならないか」と多くの人は、疑問を抱く。
*
戦後まもないころだ。7、8歳のわたしは、いとこが自分の家で飼っていたにわとりを殺して料理するのをみたことがある。広い庭に台がもちだされ、そのうえでつぎつぎにバラされていくにわとりをみていたわたしの記憶のなかに、かわいそうにという感覚の片鱗も残っていない。いや、むしろ夕飯を思って舌なめずりをしながら見ていたことをはっきり覚えている。
たくさんの内臓のなかから、黄色いたまごがつぎつぎと出てきたときは、感動さえした。毎日毎日、おしりから出ていた卵が、すでにおなかのなかで用意されていたのに驚いた。いとこは、その卵を大きい順に手にしながら、「これがあした出てくる卵、これがあさって出てくる卵」とわたしに教えてくれた。つやつやした肉と卵が、その夜の食卓をどんなにはなやいだものにしてくれたことか。たっぷりおつゆのはいったすいとんを、何ばいも何ばいも食べた。少しでも動くともどしてしまいそうなほどに。
*
戦中・戦後を生きてきた多くの人がよく口にする「もったいない」は、わたしのからだにしみこんでいる。それは、わたしのなかでは、ただ、食べるものを捨てる、無駄にするという意味の「もったいない」だけではない。生きるということは、ほかの生きもののいのちをとりいれることである。自分が生きるために奪ったそのいのちは、自分が生きるためにぜんぶ使うのでなければならないということなのだ。奪いとったいのちは、自分のからだのなかで自分のいのちとしてよみがえっている──自分の生がいま、こうして営みをつづけるまでに、どれだけ多くのいのちを奪ってきたことか。どれだけたくさんの植物や動物たちのいのちを食べつづけてきたことか。
小鳥や犬や猫をペットとしてかわいがったり、すぐ「かわいそう」を口にして、すぐ涙を流す子どもたちが、 他人が殺したものなら平気で食べ、食べきれないといって平気で食べものを捨てるということが、わたしには納得がいかないのだ。自分の身内のようにペットをかわいがる子どもたちをみて、心の豊かな子であるというふうにかんたんに見てしまう大人たちの風潮にも腹がたつ。自分のなかの何か満たされないもの、飢餓感、孤独感が、ペットへの密着を強くしている場合もあるのだ。
だからといって、それら生きものへの愛情をまったく否定しているわけではないのだが、わたしには、「生きているものを殺すことはいけないこと」という単純な考えが、「しかし、他人の殺したものは平気で食べられる」という行動と、なんの迷いもなく同居していることがおそろしくてならない。
狩りと採集の時代も、農業の時代も、人間は自分で口にするものは自分の手で殺してきたのだ。それは、多くの動物たちと同じように、ぎりぎりのところまで追いつめられ、そのいのちを維持するためであった。したがって、食べるということには、空腹を満たすということだけでなく、ある神聖さ、感謝があったように思えるのだ。
以前、グループ現代が製作した映画「チ・セ・アカラ」(われら家をつくる)で、アイヌの家づくりをみたことがある。そのなかで、アイヌはけっして必要以上にものをとったり、いのちを奪ったりはしない。柱と柱をむすぶひもにする木の皮をとるにしても、木が死なないように、みきの一部だけをはいでとった。また、食べものひとつとるのにも、人間だけでなく、くまや動物たちのぶんも考えてのこしておくという細やかな心くばりをしていた。おそらく、かつての人間は、いのちあるもののなかに、つねに精霊を感じ、祈りをもって接してきたのではないだろうか。
ところが、殺す人と食べる人が分離されたときから差別がうまれ、いのちあるものをいのちあるものとみることさえできなくなってしまった。いや、人民を差別させあうために、政策として分離させたという事実も、わたしは直視したいのだ。
わたしのなかには、あの宮沢賢治の「よだかの星」のよだかがいる。星にむかってひたすら苦しんで飛びつづけているよだかの叫びが、食べものを口にするたびにひびいてくるのだ。
自分の手ではっきりと他のいのちを奪い、それを口にしたことがないということが、ほんとうのいのちの尊さをわかりにくくしているのだ。殺されていくものが、どんな苦しみ方をしているのか、あるいは、どんなにあっさりとそのいのちを投げだすか、それを体験すること。ここから自分のいのち、人のいのち、生きもののいのちの尊さに気づかせてみよう。
人間がにわとりに殺されていたら……
──子どもたちの感想文
◎石川三樹
鶏を殺した。私はとてもざんこくで殺せなかった。
いこまさんや望美さんは、鶏をだいてないていた。それなのに男子は、望美さんやいこまさんのあとをおいかけ、鶏をつかまえようとする。のぞみさんたちは、とってもいやがっているのに、男子たちはナイフをもっておいかけて来る。坂内さんは、はらがたったみたいで、
「あんたたち、命のことを考えないで、殺すことばかり考えて、鶏だって命があるんだから」と、顔をまっかにさせて言った。
鶏を殺すところでは、もうたくさんの鶏が殺されていた。川は血でいっぱいだった。男子たちが殺していた鶏をちらっと見たら、口ばしから血がポタポタたれていた。男子が、
「女子たち、鶏をだいて、かしてくれない」と、いっしょに来たおばさんや先生に言っていた。最後の最後まで鶏をだいていたんだけど、とうとう鶏は、つれていかれた。生駒さんがもっていた鶏が先生に殺される。先生は、
「鶏から目をそらすな」と言った。だいぶみていたけど、がまんできなくなって目をそらした。
首をきったけど、まだ生きていた。はねをばたばたさせ、首からは血がポタポタたれている。
ねっとうに入れると、赤いとさかが黄色くなって、目もとじて、ただでさえ白い鶏がもっと白くかんじた。そのしゅんかん私は、体のなかのなみだがぜんぶ出そうだった。
女子では中島さんひとりが鶏を殺していた。生駒さんたちは、
「お肉、食べない」と言っていた。けどほんとうは、ものすごくおなかがすいていたんだろうと思う。
「私は鶏を殺してしまったんだから食べなくてはだめだ」と思い、けっきょく少し食べた。
◎児玉勇一
きのう昭島へ、おかあさんとおとうとといもうとと、4年5組のみんなや弟や妹や兄やで、いった。
ぼくは、ざんこくなことは、したくなかった。矢野君とにわとりをかわいがっていた。折田君が、
「つり人は、ざんこくなことはしない」
と、言っていた。ぼくもそう思っていた。だけど、ぼくも肉ややさいやさかなを食べているから、しようがないなと思っていた。ぼくは、にわとりをころすのをやったり食べたりするのは、はじめてだ。ころしたりしていたら、手が、くさかった。
もしかはんたいに、人間が、にわとりにころされていたらどうなるかと、思った。
にわとりがりが、おわってから、帰った。帰りは、足がいたくて、たまらなかった。
◎伊藤ふじ美
かなしそうな目で、にわとりはどこをみていたのでしょうか。にわとりの体は、小さくなってふるえていました。私は、殺されると思うと、なみだがとまりません。はじめは、ただかわいそうという気もちでないていた。でもしまいには、人間というのが、あくまのようにかんじました。しばらく私は、ひとりでなきじゃくっていました。
向こうのほうから先生がきた。
「にわとりをころすのを見なさい」
と言われた。私はしかたなく、先生につながっていった。血が出るたびになみだがでた。まるで血をうすめるように。ほんとうなら、やめてーとさけびたかった。
いつもならへいきで食べている肉も、なぜかきょうだけは食べられない。なんだかわからないけれども、なみだが出ました。そして帰りは、とぼとぼあるきながら、えきへ行って、電車で帰りました。
◎山縣慈子
にわとりがころされたとき、すごく悲しかった。しばらくがまんしたけど、がまんできなくなってないた。
男子が、ほうちょうをもってきたので、もっとないた。なきながら人間はなぜこんな残こくなことをするのか。なぜ人をころすとけいむしょ行きで、なぜ“ニワトリ”だとけいむしょ行きにならないんだ。八高線鉄橋のはしらのうらのみえないところでないた。
最初、にわとりの肉だけたべないつもりだったが、もうなにも食べたくないと思った。でも、ついに少し食べた。
◎鹿島秀光
ナイフでにわとりをころすのが、いやになりました。にわとりの首をきったら、ないぞうがでて、血が「ドクドク」でて、みんなは、きもちわるいみたいで、みていました。友だちがにわとりの首のあたりをさした。ぼくは、見た。ぼくが1回やったら、すごくあばれ、足がすごい力だった。かわいそうだけど、にわとりをたべないとおなかがすくから、ころした。女子たちが、ないた。けど、ぼくたちは、にわとりをころした。
◎折田尚也
いよいよ鶏をつかまえるときになりました。だけど、ぼくはつかまえたくなくて、殺すのをてつだった。天野君たちが、ほうちょうふりまわして、つかまえて、ぼくたちが首をぶっちぎりました。そしたら、血が首から「ドクドク」でました。そして、じゅうぶん血をとったら、こんどは、熱い湯につけてから、きって、やいた。そして、たべたら、まあまあおいしかった。
このほか、子どもの作文には、にわとり殺しと戦争を結びつけて書いたものがあった。それを結びつけた授業はしなかったが、9、10月に「東京大空襲」「広島・長崎の原爆」「日中戦争」について、絵本と写真を中心に進めてきていたからだと思う。また、「よだかの星」についてこだわった子どもたちがいた。9月と10月に2回、わたしが「よだかの星」を朗読していたからである。
それにしても、このにわとり殺しについては、なんと、ひとりひとり考え方が微妙にちがっていることだろう。しかも、男の子と女の子のちがいは、大きい。
にわとりを殺したつぎの日の給食は、なんと偶然、にわとりの肉のたっぷりはいったクリームシチューであった。わたしは出張でその場面をみなかったが、
「先生、きのうのシチュー食べられなかったよ」
「わたしたちは、“にわとりさん、ごめんなさい”って食べたの」
と口ぐちに言っていた。(後編につづく)
出典:鳥山敏子『いのちに触れる』太郎次郎社、1985年
鳥山敏子(とりやま・としこ)
1941年、広島県生まれ。1964年、東京都で小学校教師に。60年代の教育科学運動のなかで実践を深め、先駆的な授業を生みだす。70年代、竹内敏晴らの「『からだ』と『ことば』の会」に参加。80年代をとおして「いのちの授業」を実践。また、教師としての宮沢賢治を研究する。94年に公立学校を退職し、ほどなく「賢治の学校」(現「東京賢治シュタイナー学校」)を立ち上げる。著書多数。『いのちに触れる』『イメージをさぐる』(ともに太郎次郎社)、『親のしごと 教師のしごと』(法蔵館)、『生きる力をからだで学ぶ』(トランスビュー)など。2013年死去。