石巻「きずな新聞」の10年│第2回│多くのいのちが奪われた地で、いのちに寄り添う│岩元暁子
第2回
多くのいのちが奪われた地で、いのちに寄り添う
「らく」で「楽しかった」から石巻に通った
2011年4月にはじめて石巻に行ってから、私は何度も石巻に通うようになった。理由を聞かれると困るのだが、誤解を恐れずに言えば「らくだった」、そして「楽しかった」から。
当時、福島での原発事故の影響で、テレビでは毎日放射能のニュースが流れていた。やれどこでホットスポットが見つかった、やれどこで高い放射線が検出された——。私たちが口にする水や食品は安全なのか? このまま関東で暮らしていていいのか? 深く息を吸うのも躊躇するような雰囲気が、当時の関東にはあったと思う。
友人たちのなかには、首都圏から関西に避難する人もいた。また、それをSNSで発信して、「(逃げるなんて)非国民だ」とたたかれて滅入っているという場面も目にした。どこで、どのように暮らしていくのが正解なのか、日々多くの情報を目にしては右往左往していた。
しかし、石巻にボランティアに行けば、テレビのニュースやインターネットからも遮断され、放射能の脅威を感じることは皆無だった。だれも話題にもしなかった。目に見えない放射能より、いま目の前にある瓦礫とヘドロをどうするかのほうが、よっぽど重要だった。じっさいは、原発からの距離で考えると、東京よりも石巻のほうが圧倒的に近いのだが、私は「石巻に来ると放射能が薄くなる」と感じていた。
それに、家にいれば「何もできない無力感」にさいなまれることになるが、石巻で泥のひとつでも掻いていれば、被災地の復興が1mmくらいは進んでいることが実感できた。私が石巻で活動したとて、石巻の復興が強力に推し進められるというものではないのだが、無力感が微力感ぐらいには感じられた。ゼロとイチは大きな差だ。
そんなわけで、私にとって石巻で活動することは、目に見えない脅威や自分の無力感と向きあわずにすむという点で「らくだった」。
また、長期で活動しているメンバーは、活動報告や情報共有のため、毎日ミーティングがあるのだが、そこではいつも笑いが絶えなかった。被災地で活動をするのに「笑いが絶えない」というのも不謹慎な気がするが、まちに一歩足を踏みだせば、そこには目を覆いたくなるような、心が荒む光景が広がっている。余震も多く、いつ津波警報が出るかもわからない。震災で家族を亡くした方と接して、ことばに詰まることもある。そんななかで毎日を乗りきるには、とにかくテンションを上げて冗談を言いあって、楽しい雰囲気を出すことが必要だった。それはいわば防衛本能だったのではないかと思う。涙も笑いに変えて全力投球する同志たちの姿は、とてもまぶしく、尊敬できた。
ヘドロ、魚と格闘しながらのかまぼこ工場支援
被災地はナマモノで、状況はどんどん変化し、それにあわせて活動の内容も変わっていった。2011年、夏の終わり。ピースボートは被災した水産加工工場の再開支援をはじめることになり、私はその責任者を任された。
最初にかかわるようになったのは、大正時代から続く老舗かまぼこ工場「高橋徳治商店」。「10月1日に本社工場を再開させたい」ということで、社員の方々と工場の清掃や消毒作業にいそしんだ。事務所の壁が抜け、断熱材が出てきていたり、ベニヤ板で塞いだりしている状態で、食品工場が再開できるのか——。最低限の業者を入れて、加工場や包装のスペースとそれ以外の場所を分けるシャッターを修繕し、食品を扱うスペースでは安全に製品が製造できるように、床も壁も天井も、何度も何度も消毒した。
無事に本社工場で生産ラインを1本再開させたあとは、もっと海寄りに位置して被災の大きかった第2工場で、かまぼこ製造機械を掘りおこし、洗浄する作業がはじまった。厚く堆積したヘドロには、重油や冷凍工場から流れてきた魚が大量にふくまれており、そこに発生したうじ虫の抜け殻を踏みしめて工場内を歩いた。あの感触とザクっとした音は、いまでも忘れない。
当時、長期ボランティアたちは、被災した居酒屋だった建物を拠点として使わせてもらっており、さすがにテント暮らしではなかったものの、毎日お風呂に入れるような状況ではなかった。なんせ常時20〜30人が寝泊まりしているところに、シャワーがひとつ。週に1、2回浴びられればラッキーだ。そんな状況で毎日ヘドロと魚と格闘していたので、われながらひどいにおいを放っていたはずだが、私は勲章だと思っていた。
ボランティアと被災者という垣根を越えて
女を捨てて(?)活動にあたる私を「天使の笑顔」と呼んでくれたのが、高橋英雄社長だ。
震災後、多くの被災企業では事業ができなくなり、社員を解雇せざるをえない状況に追いこまれた。高橋徳治商店も例外ではなく、高橋社長は3月末で社員全員を解雇することを決断した。「社員は家族」と話す高橋社長は、解雇の2日前、ストレスで倒れて病院に搬送されたという。
その後、数名の若い社員たちをアルバイトとして呼びもどし、工場再開に向けて舵を切る。社員とその家族、そして全国の取引先からの応援と期待に応えるべく、1日も早く工場を再開せんと奮闘する社長の姿は、いつも情熱とエネルギーにあふれていた。
あるとき、高橋社長が思いつめた顔で、ことばを紡ぎはじめた。「震災後、自殺してしまった知人・友人がいる。この歳でまた借金をつくって工場を再建して、だいじょうぶだろうか。再建できても、放射能の影響で、近海の魚では練り製品がつくれないかもしれない。そうした不安を考えると、自分もすべてを投げだして、死んでしまったほうがらくなんじゃないかと思うときがある」。
ふだんの威勢のいい社長からは想像できないような、弱々しい姿。社員や家族にもなかなか見せることはないのだろう。せっかく震災を生きのびたのに「自殺を考えることがある」ということばに、私は正直とてもショックを受けた。しかし同時に、高橋社長にとって、私はその心のうちを話すことのできる存在であったという事実に、安堵と感謝を覚えた。「ボランティアと被災者」という垣根を越え、人と人として、「心で石巻の人と出会った」と感じた。
あのころの石巻は、生と死がとても近いところにあったように思う。私は社長が自殺する夢を見るほどに心配した。そして、「この人が『もうだいじょうぶ』と思えるようになる日まで石巻にいよう」と心に決め、毎日とびっきりの笑顔を心がけた。
私の笑顔パワーが功を奏したのかはわからないが、あれから10年経ついま、高橋社長はとても元気だ。固いきずなと信頼で結ばれた社員たちを率い、再建した新しい工場で、こだわりぬいた無添加の練り製品をつくっている。
やさしさあふれる伊藤さんとの二人三脚
秋になり、高橋徳治商店の作業が落ち着いてきたころ、缶詰工場「木の屋石巻水産」にも頻繁に通うようになった。クジラや金華サバの缶詰製造を手がける木の屋では、倉庫にあった100万缶の缶詰が津波で流されていた。それをヘドロのなかから拾いあつめ、洗浄するという作業だった。
のべ1000人以上のボランティアの受け入れを、私と二人三脚で担ってくださったのが、工場長の伊藤英二さんだ。
伊藤さんは、はじめてのボランティアにも、いつもやさしくていねいに作業の説明をしてくれた。毎日のように新しいボランティアが来るので、毎日同じ説明をしなくてはならないのは、正直私でもうんざりするのだが、伊藤さんはほんとうにいつもやさしく、ていねいだった。「石巻の被害の状況を知ってもらいたいから」と、お昼休みには自分の軽自動車にボランティアたちを乗せて、壊滅的な被害を受けた魚市場や本社工場を案内してくれたりもした。
ある日、「あなたにはお世話になっているから。私の趣味だけど」と少し照れながら、1冊の本をプレゼントしてくれた。モネの絵画集。やさしい伊藤さんの人柄を表したような、明るい色彩であふれていた。
またある日は、「あなたは石巻の歴史に興味があるんじゃないかと思って」と、古い石巻の本を何冊も貸してくれた。自転車で来ていた私が「重たいからぜんぶは持って帰れないな」と言うと、私と本と自転車を無理やり軽自動車に積んで、事務所まで送ってくれた。
「石巻を、お願いします」
伊藤さんは、震災のずっとまえからガンを患っていた。ボランティアの受け入れが終わってしまってからの伊藤さんは、目に見えて元気がなくなり、2012年の夏、とうとう仙台の病院に入院された。
「明日、お見舞いいくよ! 欲しいものない?」と電話で聞く私に、伊藤さんは笑いながら「あなたの笑顔」と答えた。「そういうんじゃなくて。食べものとか」と言う私に、「ガリガリ君が食べたいなあ」と言った。病院の売店で、ガリガリ君をふたつ買った。
病室の前に着いたら、伊藤さんは若いお医者さん相手に、いつものクイズを出していた。博識の伊藤さんは、いろんなトリビアを知っていて、いつもいろんな人にクイズにして教えていた。「カモメとウミネコの見分け方、わかる?」。なんとなくじゃましてはいけない気がして、しばらくノックできなかった。溶けかけたガリガリ君を、ふたりで食べた。伊藤さんはほんとうにおいしそうに食べてくれたが、私はやっぱり溶けていないほうがおいしいと思った。「こんどは溶けるまえに持ってこなくちゃ」。こんどがあると思っていた。
お見舞いに、伊藤さんの故郷・雄勝の石でキーホルダーをつくってプレゼントした。丸く削ってツルツルに磨いた雄勝石に、木の屋のシンボルである鯨と缶詰の絵を描いたキーホルダー。「震災後、いちども雄勝には帰っていないんだ。現実を受け入れなきゃと思う一方で、記憶のなかの美しいままの故郷のほうがいいんじゃないかと思って。でも、こうして石だけでも故郷を感じることができて、うれしい」。ふたりでボロボロ泣いた。
突然「石巻は復興したかい?」と聞かれ、私はとっさにことばが出なかった。「復興した石巻を、この目で見たかったなあ……」。伊藤さんは、自分がもう長くないこと知っていた。「つぎは石巻の復興が感じられる写真を持ってこよう。川開き祭りのにぎわってる写真を撮っておこう」。でも、つぎは来なかった。
帰りぎわ、ベッドに座った伊藤さんは、私に深々と頭を下げた。「あなたはまだまだ石巻に必要な人だから。石巻を、お願いします」。ほんとうに、ほんとうに石巻が好きな人だった。
だれかの心のなかに、私はいる
伊藤さんが旅立たれたのは、そのすぐあとだ。溶けていないガリガリ君を買っていってあげることも、川開き祭りの写真を見せてあげることもできなかった。何もできなかったけれど、私は「いのちに寄り添わせていただいた」と感じた。多くのいのちが奪われたこの地で、生きのこったいのちに寄り添うことの意味は大きい。
長期的に活動を続けていると、達成感ややりがいよりも、遅々として進まない復興や自分の無力感へのいら立ちやくやしさを感じることも多い。自分がいったい、だれのなんの役に立っているのか、疑問に思うこともある。そんなときは、伊藤さんのことばを思い出した。「あなたは石巻の復興に必要な人だから」。伊藤さんは、私が将来こんなことで悩むことを知っていて、私にこんなことばをかけてくれていたのかな。まさか10年も石巻にかかわることになろうとは、当時予想もしていなかったが。
冒頭の「らくだった」とは少し矛盾するが、あのころ私は、心のどこかでつねに不安を感じていた。ピースボートと雇用関係があるわけでもなく、何かあっても補償もない。「何者でもない自分」や「居場所のなさ」みたいなものをつねに感じていた。また、ほかの長期メンバーのように、うまくやれているのか、ちゃんと貢献できているのかという焦りにも似た気持ちもあった(なんせ運転免許すらなかったので、それだけで移動に関してはまわりに迷惑をかけている自覚もあった)。
だが、高橋社長との「心で出会う」経験、そして伊藤工場長の「いのちに寄り添う」経験をとおして、私はじょじょに自分の居場所を見出していった。組織のなかでの自分の役割や肩書、まわりからの評価、もしくは「自分が何者であるか」なんて、些末なことだった。それよりも、「だれかの心のなかに、私がいる」、そのふわっとした事実のほうが大切だと感じられるようになった。
「何者でもない不安定さ」は、2012年4月に私がピースボートのスタッフになるまで続くことになるが、心のなかに私の居場所をつくってくれた石巻の人たちのおかげで、いまの私がいることは忘れずにいたい。
岩元暁子(いわもと・あきこ)
日本ファンドレイジング協会 プログラム・ディレクター/石巻復興きずな新聞舎代表。1983年、神奈川県生まれ。2011年4月、東日本大震災の被災地・宮城県石巻市にボランティアとして入る。ピースボート災害ボランティアセンター職員としての「仮設きずな新聞」の活動を経て、支援者らと「石巻復興きずな新聞舎」を設立し、代表に就任。「最後のひとりが仮設住宅を出るまで」を目標に、被災者の自立支援・コミュニティづくり支援に従事。2020年5月、石巻市内の仮設住宅解消を機に、新聞舎の活動を縮小し、日本ファンドレイジング協会に入局。現在は、同会で勤務しながら、個人として石巻での活動を継続している。石巻復興きずな新聞舎HP:http://www.kizuna-shinbun.org/