石巻「きずな新聞」の10年│第14回│石巻復興きずな新聞、嵐のなかの出帆│岩元暁子

石巻「きずな新聞」の10年 岩元暁子 石巻の仮設住宅で読み継がれてきた「きずな新聞」。最後のひとりが仮設を出たいま、3.11からの日々を編集長が綴る。

石巻の仮設住宅で読み継がれてきた「きずな新聞」。最後のひとりが仮設を出たいま、3.11からの日々を編集長が綴る。

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第14回
石巻復興きずな新聞、嵐のなかの出帆

準備万端のタイミングで鳴った、衝撃の電話

 1か月間の新聞配布のスケジュールも決まり、新生「石巻復興きずな新聞」の創刊に向けて、準備は万端。あとは新聞の発行を待つばかりとなった2016年6月2日、私は一本の電話に目の前が真っ暗になった。電話の主は、新聞の配布をメインで担う予定となっていた、支援団体「友だちの会」(宗教団体から派生したボランティア組織)の本部の担当者、高橋さんだった。

「あきさん、ちょっとたいへんなことになりました⋯⋯。鈴木(高橋さんの上司で、友だちの会のNo.2)が熊本地震の支援にいっているので、いま私が直接佐藤(友だちの会の代表)とやりとりしているのですが、鈴木と佐藤とのあいだのコミュニケーションがうまくいっていなかったみたいで、佐藤には『友だちの会は蛇田・渡波エリア以外やらない。蛇田・渡波に絞って活動する』と言われてしまいました。あきさんは、『仮設住宅の住民さんの数が減っている蛇田・渡波エリアに絞ると、契約に必要な活動日数を下回って、友だちの会から参加しているスタッフさんが活動できなくなってしまう』とか、『河北地区は仮設住宅が最後まで残るし、たくさんの犠牲者を出した大川小学校の遺族も多いから、そこで友だちの会が傾聴見守りをすることには意義がある』とか、こちらの意向をいつも確認しながら話を進めてくださっていたので、そのことなども佐藤に伝えたのですが、『PTW(Part Time Workerの略で、友だちの会が地元で雇用している有償スタッフ)の人数を4人から2人に減らしても、蛇田・渡波に絞ってやっていくんだ』と言われてしまって⋯⋯すみません」。高橋さんは心底申し訳なさそうに、いっきにそう話した。

「えーと⋯⋯、で、とりあえず⋯⋯どうしたらいいですか?」

「せっかく立てたスケジュールなので、今月はこれでいきましょう。2か月くらいはこれでいってみようという話になっています。でも、そのあとのことは、いまはわからないです」

 言いたいことは山ほどあったが、高橋さんに言ってもしかたなさそうなので、私はいったん了承した。

支援団体「友だちの会」とのかかわり

 宗教団体を母体とする「友だちの会」は、災害時の緊急支援をメインに活動する全国組織で、石巻では2015年7月頃から地元の女性たち4名を雇用して、蛇田・渡波エリアで仮設きずな新聞の配布を担ってくれていた。いっしょに活動していると、かれらのことばや態度の端々から「困っている方がいらっしゃるときに、何か少しでもお手伝いをさせていただきたい」という思いが伝わってきた。

 仮設きずな新聞の終刊が決まったときには、本部のみなさんも、雇用されている地元の女性たちも、とても悲しんでいた。ピースボートの本部からは「終刊はおまえのせいじゃない。自分も被害者なんだ、という顔をしていろ」と言われていたが、なかなかそうもいかず、本部の鈴木さんが石巻に来たときなどは「まさか半年でやめてしまうとは。PTWはまだまだこれからだと言うのに」と嫌味を言われ、私は返すことばがなかった。

 友だちの会はその後、石巻でPTWの4人ができる、きずな新聞以外の支援活動を模索していたが、なにせ支援活動初心者のPTWさんたちと石巻の現状や課題にくわしくない本部のみなさんでは、ほんとうに被災地のためになる活動をコーディネートするのは難しい。活動探しの旅は難航していた。

 私が仮設きずな新聞を引き継いで、石巻復興きずな新聞として新たな活動をはじめようと思うと伝えたときは、PTWのみなさんも本部のみなさんも、それはそれは喜んでくれた。トップの佐藤さんが来石したときには私もお会いし、「(新しい活動をはじめるのは)すばらしい。もし、その新しい活動が実現できるのであれば、ピースボートにしていた寄付の半分を新しい活動にまわしてもよい」というコメントをいただいたりした。

 これまで、PTWのみなさんには、蛇田・渡波エリアを中心に活動してもらっていたが、新しい新聞をその地区だけに配布するというわけにもいかない。また、発行頻度も仮設住宅の入居率も減り、蛇田・渡波エリアだけでは月2〜3日の活動になってしまう。たとえば河北地区の仮設住宅には、防災集団移転地への入居にまだ2年かかる方々が住んでおり、大川小の遺族の方も多く、傾聴が必要だった。そういう背景があり、PTWのみなさんと、蛇田・渡波エリア以外の地区でもいっしょに活動できればと思っていた。佐藤さん、鈴木さんにご相談すると、「ほかのエリアもやらせていただけるのであれば、ぜひ」と言ってくださった。

 もちろん、ほかにも新聞配布を手伝ってくれるボランティアはいたが、雇用とボランティアとではコミットぐあいがまったく変わってくる。ボランティアであれば、休みを使って、多くても月1〜2日。人によって優先順位があるため、最悪ドタキャンされるリスクなども考慮しなければならない。それが雇用となれば、ひとりあたり月6〜7日は来てもらえるし、よっぽどの事情がなければドタキャンもない。安定的に活動していくためには、命綱とも言えるくらい、必要なリソースだった。

不安の真っただなかで、石巻復興きずな新聞の創刊を迎える

 そもそも私は、仮設きずな新聞の終刊が決まったあと、あっさり新団体設立に踏みきったわけではない。かかわる人たちの「本気度」を対話のなかから測り、「これならだいじょうぶ」と思ったからこそ、新団体を設立することを決めたのだ。友だちの会についても、PTWの4人はもちろん、本部の佐藤さん、鈴木さんとも、直接の対話、メール、電話、資料などで、新団体としてやっていきたいこと、PTWのみなさんにお願いしたいことを伝え、先方からも友だちの会としてやっていきたいこと、PTWの一人ひとりがやりたいことを、時間をかけてていねいにヒアリングしながら、合意をしてきた。われながら、石橋をたたいて渡るほどの慎重さだったと思う。けっして押しつけにならないよう、新生・きずな新聞にかかわることが、友だちの会にとっても、PTWの一人ひとりにとってもプラスになるように、活動内容や頻度を設計してきたつもりだった。

 それが、石巻復興きずな新聞の創刊を目の前にしたいま、これまでの話を根底から覆されようとしている。私はほかのことが何も手につかないほどの強い不安を覚えたが、「全員にとってプラスになるようにここまで進めてきたんだから、きっとだいじょうぶ!」と自分に言い聞かせ、「PTWのみなさんにはまだ言わないでください」という高橋さんのことばにしたがい、なにごともなかったような顔をして、PTWのみなさんといっしょに新聞創刊の日、6月10日を迎えた。

「仮設きずな新聞が終わると聞いたときにはどうなるかと思ったけれど、あきさんが新しい新聞をつくってくれて、ほんとうにうれしい!」

「私たちにとっては、この新聞を持って仮設住宅を訪問し、住民のみなさんとお話しさせていただくことが喜びだから」

「こんどこそ、最後のひとりが仮設住宅を出るまで、がんばりましょうね!」

 何も知らず、新聞創刊の喜びやこれからの決意を語るPTWの4人を前に、心苦しさでいっぱいだった。

石巻復興きずな新聞創刊にあたっては、テレビや新聞の取材も受けた

「われわれはあなたの人生を変えてしまいましたか?」

 結局、話はもとにはもどらなかった。これまで石巻でのPTWの事業の責任者を務めていた鈴木さんは、一度も私の前に姿を現すことはなく、かわりに田中さんという別の担当者が石巻にやってきた。田中さんはこれまでの経緯をまったく知らず、佐藤さんの話だけを聞かされていたようで、私は完全に悪者扱いだった。田中さんの態度やことばの端々から「どうして、うちがこんな活動をやらされなくてはならないのか」という雰囲気が伝わってきて、私はひたすら悲しい気持ちになった。そもそも私は、あなたたちがやると言ったから、新団体を立ち上げることにしたのに⋯⋯。

 私は田中さんにこれまでの経緯を説明し、そのたびに隣に座っていた高橋さんは「いまの話はほんとうです。あきさんはこちらの意向をていねいに確認しながら進めてくれていました」と私を擁護してくれた。田中さんは「聞いていた話と違う」と言いながらも、私の話に耳を傾け、最後に「われわれはあなたの人生を変えてしまいましたか?」と聞いた。それまでがまんしていた涙がどっとこぼれてきて、私は「あなたたちがやると言わなければ、私はいまごろ就職していたと思います」と答えた。就職しようとしていたのはほんとうで、仮設きずな新聞の終刊が決まってからは、ひさしぶりにTOEICを受けたり、NPO関係の求人を見たりしていた。けれど、みんなが続けたいと言ってくれたから、とくに友だちの会のみなさんがぜひ続けたいと言ってくれたから、私は就職活動をやめて、新団体設立といういばらの道を選んだのだ。

「住民の方々からの反響も大きく、新聞を再開させたことには1ミリの後悔もありません。ただ、私はここにいたるまでのあいだ正しいステップを踏んできた(本部に確認しながら話を進めてきた)はずなのに、いまになって『協力できない』と言われたことは、正直ひじょうにショックです。たとえあなたたちが『やらない』と言っても、私は助成金申請書に書いたことはやりきらなければならないんです。それをどう実現したらよいか、ほんとうに困っています」

 2時間半の会合の末、田中さんは最初のトゲトゲした感じではなくなり、かなり理解を示してくださったように感じた。「帰ってから佐藤に伝えます。私の口から『だいじょうぶです』とは言えないが、内容もおかしなものではないし、この経緯を話したら佐藤も理解してくれると思う。すぐに岩元さんにご連絡します」。田中さんはそう言って、東京に帰っていった。

裏切られつづけた期待

「これはだいじょうぶなんじゃないか? いっしょに活動していけるんじゃないか?」という淡い期待は、みごとに裏切られた。

 翌日、ピースボートのスタッフで、友だちの会との窓口を担当しているスタッフから電話がかかってきて、1時間ほど話をした。「鈴木さんが友だちの会の担当からはずれることになったので、これまで鈴木さんと話していた内容についてはゼロにしたほうがいい」「友だちの会は蛇田・渡波以外では活動しないと言っている。ただ、いきなりだと困ると思うので、1〜2か月はこのままようすを見てもよいと言っている。でも、もしあきちゃんのほうで配りきれるのであれば、明日からPTWは蛇田・渡波以外の配布からはずしたほうがいい」「寄付してもいいという話があったと思うけれど、友だちの会は法人格のない、まだできたばかりの団体と寄付のやりとりをするのはいやだと言っているから、ピースボート経由で寄付をする」「7月に入ってから、ピースボートと友だちの会とあきちゃんの新しい団体とで、仕切りなおしのミーティングをもとう」というような話だった。

 前日に田中さんからは「帰って佐藤に伝えたら、すぐに岩元さんにご連絡します」と言われていたのに、田中さんからはなんの連絡もないまま、いきなりピースボートから連絡が来て、しかも一方的に「鈴木さんとの話はゼロで」「明日からPTWさんの配布ははずして」などと言われ、ひじょうに混乱した。これまで鈴木さん、高橋さん、そして前日ではあったけれども、初対面の田中さんとも、しっかり向きあってきたつもりなのに、いきなりピースボート経由で一方的な要望だけが伝えられて、いままでの話はいったいなんだったのだろうと思った。

 また、「佐藤さんにはPTWを解雇して人数を減らしてでも、蛇田・渡波に絞って活動していきたいという意向がある」ということばにも引っかかった。これまでの担当者、鈴木さんは、PTWの雇用を守ることをとても重視していて、なんとか月6〜7日間活動できるようにしてほしい、と要望されていた。それを「解雇してもいい」なんて、180度違っていた。

 翌週、田中さんが再度来石し、ふたりだけで話をすることになった。これまでの経緯を知り、私を擁護してくれる高橋さんがいなくて不安だったが、話せばきっとわかってくれると信じて、話し合いに臨んだ。田中さんは、先週の話し合いのあとに見せた柔和な態度とは一変し、私を極悪人のように扱かった。「これは岩元さんがやりたいことであって、われわれがやりたい活動ではない」「活動エリアやスケジュールなど、すべてにおいてひじょうに迷惑している」「PTWを私物化するのはやめていただきたい」。

 私は、これまでの鈴木さん、高橋さんとのコミュニケーションのなかで、友だちの会本部としては「これからもPTWを新聞配布にかかわらせたい。配布をとおして、訪問傾聴活動がしていきたい」「PTWの活動コーディネートに困っている。新聞配布ができたら助かる」のだと感じていたので、新しい活動にかかわってもらうことは友だちの会に対してもよいことなのだと信じてきた。まさか、そんな悪者扱いされるとは、信じられなかった。人生でもっともつらい3時間の話し合いのあと、私は顔じゅうにストレスによるじんましんが広がっていた。

 約1年いっしょに活動してきて、「これからも苦楽をともにしていこうね!」と信頼を重ねてきたPTWさんたちといっしょに活動できなくなることを想像すると、身を切られるようなつらさだったが、それでも私にはきずな新聞の活動を守る役目があるので、PTWのみなさんといっしょに活動していくことはあきらめた。

組織と組織のあいだにはさまれて

 その後、佐藤さんから「行き違いがあるようなので、会ってお話ししましょう」というメールが届いた。高橋さんから電話をもらった6月2日からずっと、私は佐藤さんと直接話し合うことを望み、それを先方にも伝えていたが、田中さんとの3時間の話し合いを経て、完全に心が折れてしまった。一度は柔和な態度を見せた田中さんが、2度目の話し合いのときにはまた攻撃的な態度にもどってしまった。そのバックにいる佐藤さんに対し、恐怖を覚えた。

「行き違いではありません。組織と組織としての約束です。約束を反故にするのであれば、謝罪してほしい。話し合いはそれからです」

 そんな返信をしたあと、ピースボートの代表理事から電話がかかってきた。「ちょっと聞いてくださいよ〜。困ってるんです〜」というつもりで電話に出たところ、電話口から聞こえてきたのは「おまえは何してくれたんだ!」という怒号だった。聞けば、私が佐藤さんとの話し合いを拒否したことによって、友だちの会からピースボートへの寄付も打ち切られるかもしれない、という話だった。

「友だちの会は自分たちが雇用しているスタッフをこちらの活動にも派遣してくれて、多額の寄付もしてくれてんやぞ。その相手に向かって、なんていう態度や」

「おれはこれから友だちの会本部に行って土下座してくる」

「おまえがそんな大バカ者だったなんて思わなかった。そんな大バカ者のやってる団体と縁があると思われると困るから、『元スタッフが設立した石巻復興きずな新聞舎とピースボートはなんの縁もゆかりもありません』とホームページに書く」

 25分間にわたり、私は反論のひまもないほど罵声を浴びせられ、完全に放心状態になった。つらすぎると涙も出てこないんだということを知った。

仲間と活動ができなくなることの重み

 その後、私は東京に行ったとき、ピースボートの代表理事と私の元上司と会って、これまでの経緯をていねいに説明した。私の説明を聞いた代表理事は「リーズナブルやん」と言い、「いま話した内容を文章で書けるか?」と聞いてきた。「いま聞いた話で、おまえのやり方や行動にはそんなに問題がないことがわかった。どちらかというと、友だちの会内部でのコミュニケーションの問題だったんだろう。文章にしてくれたら、それを佐藤さんに見せて説明するから」と言われ、私は約2万字のレポートを書いた。

 代表理事は約束どおり、レポートを佐藤さんに渡してくれ、佐藤さんは「そうだったんですね、それは岩元さんに申し訳ないことをしました」と言ってくれたらしい。「謝罪の場を設けて寄付をくださる」という話だったが、結局、ピースボートも友だちの会も忙しかったのか、どちらもバツが悪くて私と会いたくなかったのか、話は進展しないまま、佐藤さんからの直接の謝罪のことばも、寄付も、もらうことはなかった。

 謝罪も寄付も、けじめのためにはほしかったが、「PTWの4人ともういっしょに活動できない」ということとくらべれば、どうでもよかった。6月最後の活動日、創刊号を配りおえて、「私たち、はじめての団地の配布もよくがんばったね!」「来月もがんばろうね!」と笑顔で話すPTWの4人に、私は「じつは、もうみんなで活動することはできないの」と伝え、この1か月のあいだに起きたことをすべて話した。5人で涙を流して、これまでの感謝やねぎらいを伝えあった。

 数か月後、PTWは解散になったと聞いた。ボランティアとして、月に1日でも参加してくれたら助かるな⋯⋯と思って一人ひとりに連絡してみたが、トップダウンの組織の意向に逆らうことはできなかったのか、ひとりをのぞいて、活動にもどってきてくれることはなかった。

この経験がもたらした「よいこと」

 人生のなかでもトップレベルにつらい経験だったが、ふたつだけ、よいこともあったと思っている。

 ひとつは、私には覚悟が足りていない、ということが自覚できたこと。

「だれだれがやると言ったから」「ほんとうは就職するつもりだったのに」。そんな言い訳がじつは根底にあったことを自覚させられた。「だれがなんと言おうと、私自身はやりきるんだ!」という強い気持ちがなければ、最後のひとりが仮設住宅を出るまで活動を続けるなんて、とても叶わない。「だれかのためでも、だれかのせいでもなく、私自身がこの活動をやりとげたいんだ!」。そのマインドセットへの転換がこのタイミングでできたからこそ、結果として、最後のひとりが仮設住宅を出るまで活動を続けることができたのではないかと思う。

 もうひとつは、PTWの4人を失ったことで、地元のボランティア集めをがんばったこと。これまで以上にボランティアさんたちに感謝の気持ちがもてるようになったこと。結果として、石巻復興きずな新聞を支える「仲間」が増えたこと。月6〜7日の活動参加が保証されている4人分の穴を埋めるのは容易ではなかったが、そのぶん、この活動に興味をもってくれた一人ひとりと向きあい、この活動の意義や価値を伝え、ほんとうの意味で活動を支えてくれるかけがえのない仲間を得ることができたと思う。これも、最後まで活動を続けることができた要因のひとつだ。

 こんなふうに考えられるようになるまでには、長い時間がかかった。2、3年たったあとも、あのときに言われたことを思い出しては泣いたり、怒ったりして、自分の未熟さや未練たらしさに凹むこともあった。それでも6年たったいまは少しだけ、あの経験に感謝している自分がいる。

※なお、団体・個人の特定を避けるため、一部をのぞき、名前と肩書きを変更しています。

 

岩元暁子(いわもと・あきこ)
日本ファンドレイジング協会 プログラム・ディレクター/石巻復興きずな新聞舎代表。1983年、神奈川県生まれ。2011年4月、東日本大震災の被災地・宮城県石巻市にボランティアとして入る。ピースボート災害ボランティアセンター職員としての「仮設きずな新聞」の活動を経て、支援者らと「石巻復興きずな新聞舎」を設立し、代表に就任。「最後のひとりが仮設住宅を出るまで」を目標に、被災者の自立支援・コミュニティづくり支援に従事。2020年5月、石巻市内の仮設住宅解消を機に、新聞舎の活動を縮小し、日本ファンドレイジング協会に入局。現在は、同会で勤務しながら、個人として石巻での活動を継続している。石巻復興きずな新聞舎HP:http://www.kizuna-shinbun.org/