科学のバトン│第3回│「本があるから墓石はいらない」│田中幸(理科教員)

科学は人から人へ、どう受け継がれるのか。多彩な執筆陣が、みずからの学びとその継承をふり返る。

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「本があるから墓石はいらない」
恩師のことばに導かれ
田中幸(理科教員)

恩師略歴●武谷三男(たけたに・みつお/1911-2000):
理論物理学者、哲学者。京大理学部卒。湯川秀樹博士らと核力について研究した。また自然認識における「三段階論」を提唱して、各方面に影響をあたえた。著書に『弁証法の諸問題』『科学者の社会的責任』(勁草書房)、『思想を織る』(朝日選書)など多数。


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漠然と参加した武谷三男ゼミ

 武谷三男先生との出会いは、1980年代のはじめでした。先生は立教大学を退官後、私が在学していた上智大学に非常勤で週1回、物理学科のゼミを担当されていました。物理学科では、大学3年になると、数人の担当者がいる「ゼミナール」と称する自由な勉強会のような授業を履修することができて、ゼミごとに担当者の名をつけてよんでいました。

 武谷ゼミは、出欠はチェックせず、成績は「私はBでお願いします」と言えばそのまま成績表に記載されるという、古きよき時代の大学のゼミそのままで、卒業に必要な単位取得が危うい劣等生たちのたまり場になっていました。私が武谷ゼミに参加したのも、当時仲のよかった同級生がいたからというだけで、先生の偉大さは露ほども存じ上げていませんでした。武谷先生は、私が在学中に上智大学でも定年を迎えられたので、私は最後の武谷ゼミ生ということになります。

 当時、武谷ゼミには女子学生がいなかったせいか、先生は、私のことを「お嬢ちゃん、お嬢ちゃん」とかわいがってくださいました。ふたりの祖父が早くに亡くなり、祖父の記憶がほとんどない私には、武谷先生はすてきなおじいちゃんという印象しかありませんでした。それで、いまから思うと身が縮みあがるような無礼千万なふるまいもしました。

 経緯はまったく覚えていないのですが、教職のための教育心理という科目で「ご高齢の方にインタビューする」という課題が出されたときのこと。地方から出てきて寮住まいの私には、ご高齢と聞いて真っ先に思い浮かんだのが武谷先生でした。快くお引き受けいただけただけでもありがたいことなのですが、さらにとんでもない質問をしたのです。「先生は、どんな墓石がいいですか」とうかがったところ、先生はにこにこしながら、「墓というのは、死んだあとに思い出してもらうためのものだろ。ぼくはたくさん本を書いて、それを読んだ人が思い出してくれるから、墓石はいらないよ」とおっしゃったのです。このことばは、おまぬけな女子大生の心にも深く刻みこまれました。のちに、私のはじめて書いた本が出版されたとき、「あ〜、これで私も墓石はいらないわ」と思いました。

著作を読むことで、はじめて師の科学論にふれる

 もちろん、武谷先生の功績を知っていて、先生に教えを乞おうという志の高いゼミ生もちゃんといました。ゼミでは、おもに当時話題になった科学の啓蒙本の批評をおこなっていました。ゼミのとき、先生はかならず、「ぼくがナントカという本に書いたようにカントカだから、この考えはまちがっている」とおっしゃるので、これまで書かれたことをすべて頭のなかの引き出しにきちんと整理していらっしゃるのだなあ、と毎時間感心したのはよく覚えています。

 武谷ゼミには伝説があって、それは、原子力発電所に批判的な先生のゼミに参加していたとわかると、関連の会社の就職試験に落ちるというものでした。ほんとうにアホな大学生だった私は、この伝説の真偽を確かめてみるべく、発電所もつくっている大手電機メーカーの面接で大学時代の思い出を聞かれたさいに、「武谷ゼミに参加したことです」と答えたのです。面接官はおっという顔をして「では、武谷三段階論を説明してください」と問いました。なんのことかわからない私は、開きなおり、「すみません、私は先生に紅茶をお出ししてとなりに座っているだけで、先生のお考えはあまり覚えていません」と正直に答えたのです。それで、武谷ゼミにいたというだけならいいかと思われたのか、バブルで猫の手も借りたい人手不足だったからか、私は合格してしまい、その会社に就職しました。

 あのとき、どうして会社の面接官は武谷先生を知っていたのだろう、面接官が聞いた「武谷三段階論」ってなんだろう、と思い、ようやく先生の著作を読みはじめたのは、大学を卒業してしばらくたってからでした。まずは『弁証法の諸問題』です。この本は、いまでも折にふれ読みかえしています。

 なぜ、ゼミのとき、もっと真剣に話を聞かなかったのか、せめてご存命中に教えを乞わなかったのか、後悔の念でいっぱいです。けれども、武谷先生に墓石のことをうかがったのは無駄ではありませんでした。何か問題にぶち当たったとき、武谷先生の著作は、先生が生きていらっしゃったときと変わりなく、私に行くべき道を教えてくださっていると感じます。

物理を教えることと武谷三段階論がつながった

 就職した会社は出産を機に退職し、子育てがひと段落したところで教職につきました。

 現在勤務している中高一貫の女子校に職を得たとき、それまで高校でしか教えたことがなかったので、中学で教える物理と高校で教える物理の違いがよくわからず、思い悩んだ時期がありました。そのとき、武谷三段階論によって教え方の道すじが見えたのです。

 武谷三段階論とは、物理の理論の発展においては、「現象論的段階」「実体論的段階」をへて「本質論的段階」に至るというとらえ方です。たとえば、詳細な天体の観測記録を残したティコ・ブラーエは現象論的段階、そこから3法則を見出したケプラーは実体論的段階、そしてニュートンによって万有引力の法則という本質論的段階に到達したと考えるのです。私は、物理を教えることも「三段階論」で考えればよいのではないかと思いつきました。

〝光〟はわかりやすい例です。光について、中学1年では直進すること、反射、屈折することを学びます。ここは現象論的段階です。高校に入ると波動現象として扱い、ホイヘンスの原理をもとに、反射、屈折に加え、回折、干渉も説明できるようになり、実体論的段階に入ります。そして、高校物理の終盤では、光電効果から光の粒子説、さらには二面性を学び、本質論的段階に至ります。やみくもに知識をあたえるのではなく、いま、生徒はどの段階にいるのかを意識することが重要であると気づくことができました。

 武谷先生の三段階論については、物理の発展は試行錯誤のくり返しであり、現象、実体、本質と、着々と発展するものではないという批判もあります。その試行錯誤を詳細に記述し、熱烈なファンがいるのが山本義隆氏です。残念ながら、私は山本義隆氏の世代でもないので、そのカリスマ性はわからないのですが、『磁力と重力の発見』や『熱学思想の史的展開』はたいへんおもしろく拝読しました。しかしながら、山本氏の著作を読んでも、「はあ〜、そうだったんだ」と感心するだけで、いわば生徒のよくできた調べ学習のレポートを見るのと同じで、私にとっては、知識や教養は深まるものの、「明日は、どっちだ」と思い悩んだときに行く手を示唆してくれるものではありませんでした。「これは、あくまでも個人の感想です」が。

 三段階論がたんなる物理学史の分析ではないことは、武谷先生が湯川秀樹先生の中間子論におおいにかかわったという有名なエピソードからも明白です。

明日へ導き、励ましてくれることば

 武谷先生のことばは、明日へ導いてくれるだけではありませんでした。気弱になるとき、力強く励ましてもらえることばも多くありました。私がとくに好きな一文は、多くの方と同じように『弁証法の諸問題』(勁草書房)の扉文です。以下に引用します。

(太平洋戦の渦中にて)
人間の理性わ、
如何なる困難に面しても、必ずそれを貫ぬく道を見出すものです。
いま現実わ、
私の心を悲しましていますが、
人間の人間に対する愛が、
人間のすぐれた理性を勇気づけて、
必ずすばらしい道を、切り拓くでしよを。(原文ママ)

 私の生涯で、武谷先生と出会えたことは、大きな大きな神様からのお恵みと日々思うのですが、ほんの一瞬、武谷先生に憤慨したことがあります。それは、亡くなられたあと開催された「武谷さんを語る会」で、登壇され語られた女性の方々がみなさん、「武谷先生はおやさしく、かわいがってくださって⋯⋯」と口々におっしゃったからです。私は「お嬢ちゃん、お嬢ちゃん」と目にかけてくださったのは私だけと自負していたので、「あらまっ、武谷先生っておモテになったのね」とムッとしたのです。

 天国でお目にかかったときには、ぜひこの一件を申し上げたいと思います。いつものように「そうかな? ふおっ、ふおっ、ふおっ」と高らかに笑われることでしょう。

(次回に続く)

田中幸(たなか・みゆき)

私立女子中高一貫校理科教員。岐阜県生まれ。結城千代子とのコンビで15年にわたり、子どもたちが口にする「ふしぎ」を集め、それに答えていく「ふしぎしんぶん」を毎月発行、運営するHP「ママとサイエンス」でも公開している。結城との共著に、「ワンダー・ラボラトリ」シリーズ(太郎次郎社エディタス)、『みいちゃん、どこまではやくはしれるの?』(フレーベル館)、『新しい科学の話』(東京書籍)、『くっつくふしぎ』(福音館書店)など多数。