フリチョフ・ナンセンと出会う│第5回│ナンセン、ノルウェーと平和│インガ・M・W・ニーハマル

リレー連載  フリチョフ・ナンセンと出会う 稀代の探検家にしてノーベル平和賞受賞者ナンセンとは、いかなる人物だったのか。21世紀のいまに届く、彼の伝言に耳をすませる。

稀代の探検家にしてノーベル平和賞受賞者ナンセンとは、いかなる人物だったのか。21世紀のいまに届く、彼の伝言に耳をすませる。

ナンセン、ノルウェーと平和
インガ・M・W・ニーハマル
(駐日ノルウェー大使)

*このエッセイは、2022年12月に東京の国際基督教大学で、新垣修教授のご厚意でお招きいただいた講演の内容をもとに構成されています。新垣教授は最近、フリチョフ・ナンセンに関する初の日本語の評伝を出版されました。 

科学者として、探検家として道を拓く

 フリチョフ・ナンセンは、ノルウェーが生んだもっとも興味深い人物のひとりでしょう。その影響力は、彼の生きた場所と時代を超えた絶大なものでした。

 ナンセンは1861年、ノルウェーが経済的にも文化的にも急成長を遂げていた時代の、現在のオスロに生まれました。ナポレオン戦争終結後、スウェーデンと政治同盟を結んでいたこの国は、1905年に完全な独立に向けて急速に動きだします。ナンセンはノルウェー独立のすべての過程に携わりました。

 ナンセンは、首都で弁護士として働いていた父と、貴族出身の母とのあいだに生まれました。立派な家柄に生まれながらも、彼は自分の運命をみずからの手で切り拓いていきます。まず、彼は優秀な科学者でした。生物学を学ぶためにノルウェー西海岸のベルゲンに移り住むことを決め、その後、26歳で動物学の博士号を取得し、ノルウェーで初めての神経科学者となりました。もしそのまま科学者として生きていたら、彼はいまでもその分野で名前を知られる存在になっていたかもしれません。

 しかし、顕微鏡や書物は、ナンセンの生への旺盛な好奇心を刺激するには不十分でした。むしろその逆で、ナンセンは、森や山でのハイキングやスキーを、新進気鋭の人びとの活動として早くから推奨しています。彼のこの分野における最初の功績は、冬のノルウェー南部の山々をスキーで横断したことでしょう。のちに発表された彼自身の記述によると、その計画はシンプルで、船を使わずにスキーで移動し、オスロで開催されるスキーレースに参加して、書斎のあるベルゲンの自宅へ戻るというものでした。

 つぎにナンセンは、極地探検の隊長になります。仲間とともに、広大なグリーンランド氷河を横断することに世界で初めて成功しました。人間の住んでいない東岸から、小さな集落がある西側までを横断するというこの大胆な冒険により、彼はノルウェーで名声を得るとともに、絶大な人気を博しました。またこの成功によって、さらなる探検のための資金を得ることができたのです。

 科学的な観点から見たナンセンのもっとも重要な探検は、間違いなく、北極点への大胆な挑戦でしょう。彼は、海氷に破壊されないよう船体を極端に丸く設計・建造した船で出発しました。海氷の中を漂流しながら北極海を横断する計画でしたが、極点よりも南を通過してしまうことが航海途中で判明します。そこでナンセンは信頼のおける隊員とともに下船し、スキーで氷上を横断することにしました。しかし、これがなかなかうまくいかず、彼らは生死の境を彷徨いました。生き残ることができたのは、純粋に運がよかったからでした。このようなナンセンの探検は、北極圏の海洋学研究に大きく貢献することになりました。

 これらの功績から、ナンセンは国民的英雄となりました。それに加え、生物学者としての経験もあって、彼は絵を描くことが得意でした。また、その創造性と気質から、ナンセンは印象的な芸術家であると同時に、まるでジャーナリストのような、才能ある作家としても活躍しました。北極圏の旅を綴った本はベストセラーとなり、遠く離れた禁断の地が読者の好奇心をくすぐる場所として立ち現れました。フリチョフ・ナンセンは人びとの想像力をかきたて、彼の探検と冒険は真のノルウェー人の気概を示すものとなりました。また、彼の教育歴と社会的地位は、国内外を問わず、どこでも通用するものでした。

国際政治と人道支援への尽力

 つまり、フリチョフ・ナンセンは、この国でもっとも尊敬される有力な人物のひとりになったのです。このような状況で、彼が政治の世界に引き込まれたのは避けられないことのように思われました。より正確には、この時代最大の政治的課題であったスウェーデンからのノルウェーの独立を、できるだけ平和的に達成するという課題に、彼は引き込まれたのです。ノルウェー政府が彼に与えた役割は、デンマークのカール王子との仲介役でした。独立したノルウェーの君主になることを、王子に受け入れさせるという任務です。カール王子はのちにホーコン国王となり、ナンセンは、王室一家が新天地で落ち着くまで新国王の顧問を担い、また信頼のおける友ともなりました。

 その後、世界を舞台に活躍するナンセンは、ノルウェー初の駐ロンドン大使に任命されました。ノルウェーが独立国家として列強に受け入れられようとしていたこの時期、大使という役職はひじょうに重要なものでしたが、ナンセン自身は大使職をとくに好んではいませんでした。エドワード王朝時代のロンドンの過剰な華やかさが気質に合わず、ほどなく大使を辞してしまいます。

 普通なら、物語はそこで終わっていたかもしれません。しかし、ナンセンの肩書はノルウェーの英雄、科学者、外交官にとどまりませんでした。実際、ノルウェー外交の伝統への永続的で多大なるナンセンの貢献は、これらの肩書では言い表せないものとなっていきます。

 100年前、第一次世界大戦直後のヨーロッパがどのような状況であったか、今日の読者には想像するのが難しいかもしれません。戦争、革命、そして(かなり不適切な呼び方ではありますが)スペイン風邪と呼ばれる感染症の恐ろしい大流行で疲弊していたことに加え、当時のヨーロッパは類を見ないほど大規模な難民問題に直面していたのです。

 このようななかで1920年から、ナンセンは国際連合の前身である国際連盟のノルウェー代表団の一員となり、翌年から初代難民高等弁務官(現在の国連難民高等弁務官)に就任しています。

 ヨーロッパにいる何十万人もの戦争捕虜や何百万人もの難民の人権を守り、もっとも不安定な政治情勢のなかで彼らが政治の駒とならないようにすることは、当然の人道的責任であるとナンセンは考えました。つまり、この任務を受け入れる義務があると思ったのです。さらに1922年、ソ連当局はロシア難民の国籍剥奪を決定し、多くの難民が有効なパスポートを持たず、国境を越えることができなくなりました。そこで、旅券を必要としているにもかかわらず国の機関から旅券を取得できない無国籍者や難民のために、ナンセン国際難民事務所は「ナンセン・パスポート」を発行します。戦間期のナンセン・パスポート所持者の多くは、ソ連とトルコ共和国の国民として認められていないロシア人とアルメニア人の難民でした。ナンセン・パスポートは合計で約45万人の難民や無国籍者に発行されました。

 第一次世界大戦後の捕虜送還を主導し、国際連盟難民高等弁務官として国際救援活動に多大な貢献をしたことが評価され、フリチョフ・ナンセンは1922年にノーベル平和賞を受賞しました。

 しかし、その挑戦はさらに広範囲に及ぶことになります。ナンセンは1921年から1923年にかけて、ロシア中部、ウクライナ、北コーカサスで3000万人が苦しんだ大飢饉への支援活動を統括しました。彼は交渉や調停をおこない、効果的な行政組織を構築するとともに、大規模な人道支援組織の運営を調整します。そうして、人道的な予算枠が存在しない時代においても、必要な資金と信用を獲得することができたのです。また同時に、食料・衣類・医薬品の収集・輸送・配布や、船・列車・荷車・荷馬車の指揮など、数えきれないほどの役割を担いました。

 1930年のナンセンの死後も、ナンセン国際難民事務所は、1938年に解散するまでナンセン・パスポートを発行しつづけ、同年に事務所自体がノーベル平和賞を受賞しています。このように、絶望的な国際的人道状況から生まれたナンセンの革新的な取り決めは、現在でもすべての国際難民法の基礎となっています。

癖の強い、しかし偉大なファリシリテーター

 これらの功績によって、ナンセンは当然ながら尊敬を集めています。スキーヤー、英雄的探検家、作家、科学者、そして偉大な政治家、外交官、先駆的な国際人道主義者として、当時もいまもノルウェー人はナンセンを誇りに思い、その功績を讃えています。

 しかし、ナンセンの伝記を読むと、ナンセンがかなり癖のある人物であったこともわかります。彼は既婚・未婚を問わず多くの女性と親密な交友関係をもった一方、子育てにはかかわりませんでした。また、19世紀の格式ばったリーダーシップ・スタイルをかたくなに貫きつづけました。ナンセンのような偉人について研究するさい、その人物の人間性や人格の難点に関心を向ける研究者であれば、掘り下げられることはたくさんあるのです。

 この「19世紀の格式ばったリーダーシップ・スタイルをかたくなに貫きつづけた」ということに関して、ノルウェー人のあいだでよく知られている逸話があります。それは、1895年の大晦日おおみそかに、彼は熟考のすえ、もっとも親しい協力者であったヒャルマル・ヨハンセンと話すさいに、ノルウェー式の敬語から口語に切り替える決意をしたというものです【*】。この逸話において重要なのは、そのタイミングです。それまでナンセンとヨハンセンは、長くともに時間を過ごしてきました。にもかかわらず、ナンセンが口語に切り替える決意をしたのは、スキーでの極点到達に失敗し、生きて帰れるかもわからないなか、ロシア沿岸の荒涼としたセントジョセフで数か月間寝袋を共有してふたりきりで過ごした、ひじょうに寒くて暗い冬のまっただなかでのことだったのですから。

 つまり、フリチョフ・ナンセンは、間違いなく魅力的な人物であるにもかかわらず、かたくなで少々自惚うぬぼれの強い人物でもあったのです。しかし、ナンセンが自慢とカリスマ性ばかりの人物ではなかったことは確かでしょう。彼は、天性のファシリテーターだったのです。あらゆる場所で信頼を得て、政府をはじめ膨大な数の組織や個人のあいだで交渉し、協力することにひじょうに長けていたに違いありません。この点で、彼のもっとも重要な取り組みは、孤立した新生ソビエト連邦政府と西側諸国とのあいだに協力関係を構築しようとしたことでした。それは長続きしませんでしたが、1920年代初頭、ナンセンが助けようとした何百万人もの人びとの援助に必要な人道的空間をつくりだすには、この必要最低限の確立した信頼が不可欠でした。

 文字どおり、そして思想的にも、ナンセンはノルウェー外交の先駆者でもありました。実際、1900年代初頭にナンセンが取った手法の数々は、今日でもノルウェーの外交政策に反映されています。特筆すべきは、人道主義を「あったらいいな」程度の政治的素養としてではなく、効率的な成果を上げるための基礎とみなしていたことでしょう。

【*】訳者注……このノルウェー式の敬語は、現在ではほとんど使われていません。当時においても、この敬語を使えば、相手とのあいだに一定の距離を感じさせる口調でした。

ノルウェーの国際平和への取り組み

 ノルウェーの外交政策はいまも、民主主義と人権が平和・安定・発展のための前提条件であるという信念に基づいています。ノルウェーは今日、国際的な平和調停・和解活動において、独自の地位を占めています。これは、小国であり、植民地時代の歴史がないという特徴ゆえであるといえます。しかし、強烈な過去の経験をもたないということは、過去の経験から得られる特別な強みがないともとれるでしょう。

 この点において、私たちは、人道法と国際法の基本原則を一貫して守ることが信頼につながり、政治的な強みになると確信しています。こうした信念が、ノルウェーの紛争解決への関与や、強力な国際法・国際組織構築のための継続的な取り組みを後押ししています。

 ノルウェーは数十年にわたり、当事者間に解決策を見出そうとする意志があれば、紛争解決に積極的に取り組んできました。世界でもっとも長期化している紛争に私たちの取り組みを適用するさいは、たとえ成功の可能性が低くても挑戦することをいといません。これこそ、ナンセンの精神そのものであるといえるのです。彼は、関与を求められた紛争について、何の幻想も抱いていませんでした。実際、そのうちのいくつかは今日まで続いています。しかし、彼はこれらの紛争の犠牲となった民間人を助けようとする信念をもち、可能なかぎり政治的関係を改善しようと努めつづけました。

 ノルウェーの平和外交のもうひとつの基本的な特徴は、どのような相手であっても、政治的解決を求めるすべての当事者と対話することです。これは、信頼を築くためだけでなく、根本的な利害に対する理解を深めるためにもおこなっていることです。また、交渉過程とその結果としての和平調停を支援するために、必要な資源を提供することもいといません。ノルウェーは長年にわたり紛争解決について貴重な経験と知識を蓄えてきました。なかでも、これが重要な一部であることは確かでしょう。同時に、すべての紛争は固有のものであり、特定の紛争と当該地域に関する知識が不可欠であることを認識することも重要です。

 公平であるということは、価値観に関して中立であるということではありません。ノルウェーが関与する和平プロセスでは、たとえ当事者から抵抗があったとしても、国際法と人権の原則を推進することに積極的に取り組んでいます。また、私たちがつねに「包括的な」平和プロセスの設計を目指していることも特筆すべき点です。とくに、私たちの過去の経験から、平和プロセスに早期から女性を参加させることで、平和協定が当該文民の認識するニーズによりよく適合し、実際に実施される可能性が高くなることが明らかになっています。

 ノルウェーの外交政策において、ナンセンの生涯とその業績から見てとれるもうひとつの顕著な特徴は、国際法秩序の着実な改善とその弱体化への抵抗に尽力している点です。多国間の意思決定機関への参加を促進すること、そしてその意思決定機関に、いかなる紛争にも適用でき、時の経過にともなう変化に耐えうる規則と原則を備えることが重要なのです。

 もちろんナンセンは、1920年代の既存の国際法や、国際連盟という設立したての多国間機構がもたらす制限のなかで活動しました。しかし、これらは当時基盤が整っておらず、それほど重要な役割を果たしてはいませんでした。実際、前述の「ナンセン・パスポート」には、基盤が整った機関が存在しなかったためナンセンは、自分の名前で署名しています。以来、国際組織と国際法は大きく進歩しました。たとえ多国間機構の欠点があいかわらず明らかで、それを強化しようとするさいに課題に直面しても、発展を続けてきたのです。

 国際機関や多国籍機関は、貧困を削減し、必要とする人びとに人道的支援や保護を提供します。各国が則るべき法的規範を設定する取り組みにおいて、このような機関がじつはしばしばもっとも有効な手段であることは見落とされがちです。マスコミは、失敗した取り組みにばかり目を向けがちですが。しかし実際には、国連と国連が維持する法秩序は、人類を進歩させるためにきわめて重要なものです。それは、世界のあちこちで安全保障上の重大な問題が発生している時代であっても同じことです。ノルウェーは創設メンバーとして、1945年の国連創設以来、国連とルールに基づく国際システムを揺るぎない姿勢で一貫して支持しています。

 国際システム、国連、多国間機関の重要性は、信頼できる国防を確保するための取り組みに反映されています。ここに矛盾を感じる人も多いでしょう。しかし、危険な時代に生きたナンセン自身は、強力な防衛力をもつことによってのみ、どの国も大国の領土侵犯を防ぐことができると考えていました。ノルウェーの防衛・安全保障政策は、当時と同様、今日もわが国周辺地域の平和・安定・予測可能性を確保することを目的としています。

 ナンセンの時代には存在しなかった軍事同盟NATO(北大西洋条約機構)の一員であることは、今日のノルウェーの防衛戦略の背骨のような役割を果たしています。ノルウェーは、ナチス・ドイツの侵略と占領を5年間経験したあと、1949年にNATOの創設メンバーとして加盟しました。現在、NATOは30か国からなり、ここ東アジア・オセアニアに属する日本、オーストラリア、ニュージーランド、韓国など、同盟そのものには加盟してはいなくとも、志の高い国々と幅広く協力しています。この同盟に参加することは、わが国の平和と安全の保障を確実なものとしています。また、これに加え、平和維持、軍縮、軍備管理を促進するために国際機関を積極的に利用するというわれわれの方針をまさに体現しているのです。

 第二次世界大戦後まもなく国連が最初の平和維持活動を開始して以来、ノルウェーは国際活動にも積極的に貢献してきました。非武装の監視員から強力な戦闘部隊に至るまで、これまでに合計102の国際活動に貢献してきました。また、現在、約50人のノルウェー人軍人が3つの国連ミッションに参加しています。マリのMINUSMA、南スーダンのUNMISS、中東のUNTSOです。

 2021年から2022年にかけて、ノルウェーは国連安全保障理事会(UNSC)のメンバーとして活動しました。世界の当面の課題に対処するだけでなく、この安全保障理事会での2年間をとおして、平和外交、女性の参加と権利、民間人の保護などを体系的に推進しました。また、気候変動に関連する安全保障上の懸念など、安全保障と持続可能な開発との関連性を強調しました。国連安保理への取り組みは、ノルウェーの外交政策において長年にわたり確立された原則である政策路線に基づいたものです。

 ナンセンが先駆的な人道的活動をおこなったウクライナは、今日、ロシアの侵略戦争に苦しみ、無数の民間人が暴力と破壊の犠牲になっています。ウクライナを支援するために官民の資源を大規模に動員した1年後、ノルウェー政府は今週(2023年2月12日の週──訳者注)、ウクライナに対する総額750億ノルウェークローネ(74億米ドル)規模の5年間の支援プログラムを提示しました。このプログラムは、ウクライナの正当な自衛のための武器や装備の軍事支援、人道支援、復興のための長期支援で構成されており、ウクライナ政府が特定するニーズの変化に応じて柔軟に変更していく予定です。また、このプログラムは「ナンセン・プログラム」と名づけられています。

 ノルウェーは、ナンセンがそうしたように今後も世界を注意深く分析し、明確で一貫した原則をもち、積極的に関与していくことを基礎として行動と政策をとっていきます。それは努力に値することなのです。

(翻訳:山㟢 楓)

*この記事の英語版(原文)は、こちらからご覧いただけます。

著者
インガ・マリーエ・ヴァイデマン・ニーハマル(Inga M. W. Nyhamar)
駐日ノルウェー大使。1964年、ノルウェーのトロンハイム生まれ。オスロ大学卒業(政治学専攻)。
1991年 ノルウェー外務省入省
1993─96年 在プラハ ノルウェー大使館
1996─99年 在ワシントン ノルウェー大使館
2001─04年 ノルウェー外務省安全保障政策・北米部次長
2004─08年 駐日ノルウェー大使館公使参事官
2008─09年 外務省国連局世界保健問題上級アドバイザー
2009─13年 外務省安全保障政策・極北局 軍縮・不拡散担当部長
2013─17年 在パリ ノルウェー大使館公使参事官
2017─19年 ノルウェー外務省東アジア・オセアニア部部長
2019年8月より現職

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