〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす│第1回│正しいことばの使い方│朱喜哲
そのことばの使いこなし方をプラグマティズム言語哲学からさぐります。
第1回
正しいことばの使い方
「正しいことば」はややこしい?
わたしたちの身のまわりには、「正しさ」について表現したことばがたくさんあります。ごく日常的に使う「よい(わるい)」ということばから、いくぶんかしこまって使われる「正義」のような熟語まで、いろいろな表現が、それぞれの文脈で用いられます。
とくに後者の熟語は、たいていの場合はいわゆる外来語、もともと欧米で用いられていた概念が輸入されて漢字があてがわれた経緯をもつものが多いです。外来語だからという理由ばかりでもないでしょうが、こうしたことばの「意味」について説明するのは、日本語にずっと親しんでいるひとにとっても容易ではないと思います。
たとえば「『正義』ってどんな意味?」と、このことばを初めて聞いたひと(たとえば子ども)に訊ねられたとき、いったいどれくらいのひとがうまく説明できるでしょうか。おそらく、このような概念に専門的に職業的に親しんでいる学者や法曹関係者であっても、「そもそも『ジャスティス(Justice)』という英語なんだけど、それはつまり……」などと話をややこしくしてしまいそうです。
「正義」のほかにも、メディア報道に関して用いられる「不偏不党」とか、最近はプライバシーポリシーのような文章でも登場する「公正公平(な取り扱い)」とか、こうしたそれぞれに関連する「正しさ」にまつわることばについて、「ほんとうの意味」をうまく説明できるひとは、じつはほとんどいないかもしれません。
こういった実感も背景として、わたしたちは少なからず「やっぱりこんな説明の難しい、ややこしいことばを使うのはやめておこう」と思ったり、あるいはこの口ごもってしまう感覚のゆえに、「こういうことばは、ひとを黙らせるためにインテリや運動家が使うもので、<正しさ>が振りかざされる社会は息苦しい」というような反感を募らせるということが、実際にありそうです。
ほんとうの意味を理解できなくても、正しく使うことはできる
さて、この連載では、こうした一連のことばとならぶ「公正/フェアネス(Fairness)」とはなんだろう、ということを主題にします。といっても、このことばを扱おう、と決めたわたし自身にしても事情は似たようなもので、わたしがこのことばがほんとうはどんな意味なのかを知っており、それを説明しようとするものではありません。
わたしが研究者として専門性を保持しているのは、広く「ことばの意味」に関する哲学である言語哲学という分野です。この分野にもさまざまな立場があり、「ことばの意味とはなにか?」「あることばを知っているとはどういうことか?」といった問いに対して現在進行形で議論をしています。
わたし自身は、前者の問いに対しては「そのことばが、ほかのことばとのあいだにもつ関係である」と答え、後者の問いには「そのことばを適切に使用することができることである」と答える立場をとっています。(哲学用語としては、前者を「推論主義」、後者を「意味の使用説」と呼んだりします。)
この連載では、わたしの哲学上の立場がほかの立場とどう対立しているか、またどのような議論が展開されているのか、といったテクニカルなことには(できるだけ)触れないつもりです。ここで強調しておきたいのは、もしこうした言語哲学の立場を採用したならば、「正義」や「公正」といった使いづらい(と思われるかもしれない)ことばについて、つぎのように考えることができるということです。すなわち、こうした「ややこしい」ことばの「ほんとうの意味」を理解せずとも、それが実際にはどのように使われていたのかを見ることによって、いわば見よう見まねで、それらの「正しい使い方」を体得するヒントがつかめるのです。
それはたとえば自転車の乗り方について、それを説明した文を理解できること(知識/ノウザット〈know-that〉)と実際に自転車に乗れること(実践知/ノウハウ〈know-how〉)とは違っており、前者を獲得することは後者を習得するためにとくに必要ではない、ということと類比的に考えられます。
つまり、「本当の意味」についての知識を求めなくても、とりあえずそろりそろりと難しいことばを正しく使いはじめてみることはできるのです。
ことばを乗りこなすために
「公正」や「正義」の使われ方をみていくためには、実際に使用されることが多く、日本語がそれに倣ってきたところの欧米、とくに英語圏の用法を参照することが有効そうです。日本語において、これらのことばが「使いづらい」(息苦しい、居心地がわるい)ものになっているのだとしたら、なおさらのこと、こうした「正しさ」にまつわることばがよりカジュアルに行き交っているところで、どんなふうにこれらのことばを交えた会話が営まれているのかを知り、あるいはその危うい場面(「失敗」してそうなケース)もみることは有益でしょう。
先の自転車の比喩に戻れば、どれだけ説明書を読んでも自転車に乗れるようにはなりません。むしろ、実際に乗ってみて、ときには転んでみたり、事故につながる数々の「ヒヤリハット」を経験することで、乗りこなせるようになっていくものでしょう。
この意味において、「公正」や「正義」を敬して遠ざけたり、(日本語ならではの比喩ですが)「神棚にしまっておく」ことにして日常では使わないのだとすれば、これらのことばを「知っている」とはいえないわけです。そしてまた、見本とまったく同じ使い方しか知らず、とっさのときアドリブ対応することができないのだとしたら、それもやはり「使いこなしている」とはいえないでしょう。
ことばについてもう少し具体的に考えてみると、「定型句・常套句」の問題を指摘できます。インターネット以降のことばづかいではよく「テンプレ」とか「コピペ」といったりするものがそうです。例えば「正義の暴走」とか、「正義の敵は悪ではなく、別の正義」とか「ポリコレ棒」といった——あえて言いますが陳腐で使い古された——よくある表現を、みんなが使っているからと安易に使うことについて考えてみましょう。これはいわば「事故」の可能性をみじんも想定せず、責任がともなう自分の判断をしていないわけですから、そうしたことばをうまく使えているとはいえないでしょう。(ふたたび交通で例えるなら、信号が青だから進むのではなく、周囲が進んでいるから一緒に進んでいるのだとすれば、それは「交通ルールを知っている」とはいえないはずです。)
そういうわけで本連載では、わたしたちの日本語においては日常的なレベルで「乗りこなす」ことが難しそうな「公正/フェアネス」「正義/ジャスティス」などのことばについて、自分自身でハンドルを握って公道に出てもよさそうだというところのいわば「免許」の取得をめざしたいと思います。もちろん、ここで提供できることは一種の座学——教材となるテキストやVTRを見せたり、それを解説すること——に留まりますから、実地での演習はおのおのでやってみてください。
ルールはあってもルールブックはない
ここからは、まず模範になるだろうプロによる用法をみつつ、その使いこなし方についていくらか解説を加えます。ただし当然ですが、プロのような超絶ドライビングテクニックを身につけることが目的ではありませんし、それははなはだ困難です。安全運転をめざすうえで学びが多いのはむしろ「事故」のほうでしょう。でも、ことばの使用における「事故」とはなんでしょうか。今回はこの話までして、いったん稿を閉じたいと思います。
ここまで、随所に交通の比喩を使いながら、「ことばの意味は、その使用である」という言語哲学の立場を紹介してきました。たしかにことばと交通には、いくらか共通点はあります。最たるものは、どちらもなんらかのルールによって「正しい」とか「間違っている」と評されることがある、一種のゲームだということでしょう。(ここでの「ゲーム」は「お遊び」というような揶揄の意味ではなく、特定のルールに統べられており、それを守っていなければそのゲームをプレイしているとはみなされないようなタイプの営みだ、ということです。)
とはいえ比喩は比喩であり、限界もあれば違いもあります。
最たる違いは、交通にはルールが明示的に存在する(「道路交通法」という立派なものがあります)が、ことばを用いるゲーム、すなわちコミュニケーションにおいて、そうした「ルール」は少なくともルールブックのような具体的なかたちで提示されるものではありません。もちろん、辞書や文法書はあり、その都度に「そのことばの使い方は違うよ」と指摘することはできます。しかし、どれだけ分厚い辞書でも、あらゆる用法・用例が網羅されることはありえないでしょう。
さらに、わたしたちはことばを新しく創り出すことができ、元来はなかった用法が、あるときから定着したりすることがあります。ルールを破ることが、かならずしもたんに「違反」なのではなく、ときにあたらしいルールを制定することでもあるわけです。
交通のケースとなにより異なっているのは、コミュニケーションにおいてわたしたちはルールを学び、それに従うばかりでなく、ルールを創造するものでもあるという点なのです。
「会話を止めるな」
ことばをめぐる実践(ここからは「会話」としましょう)において、こうした「創造的なルール逸脱(あたらしい用法の誕生)」と「とり締まられるべきルール違反」はどう区別されうるのでしょうか。
それにはやはり、先述した「事故」の会話バージョンがなんであるのかを考えなければなりません。それは、発生するともはや会話というゲームが中断され、少なくともその場では存続できなくなるようなアクシデントでしょう。言い間違いとか新奇な比喩とかいう程度の「ルール逸脱」では、問題なく会話を営みつづけることができます。
会話が途絶えてしまうのは、たとえば暴力的な言動によって黙らせられたり、一方的に「論破」を通達されて会話が打ち切られたりするときです。日本語でも「会話が成り立たない」という言い方をしますが、わたしたちはこう評したくなる状況を体験したことがあるでしょうし、それはたとえば2020年11月に投票日を迎えたアメリカ大統領選のテレビ討論会でも見ることができました。
「会話の根本的ルールは、それを打ち切らないことである」——そういう趣旨のことを主張した哲学者が、リチャード・ローティ(1931-2007)です。
この主張を学術的に擁護するためには、それこそプロの腕前が必要になりますが、さしあたりここでは先述の「事故」の比喩から説明できそうです。つまり、会話を打ち切り、それ以降はもうことばを交わすことができないようなこと——「二の句が継げなくなる」という日本語が当てはまるようなとき——を起こすことが「事故」なのです。
もちろん、わたしたちは個別の会話をいつからでも始め、また切り上げることができます。そして、ほとんどの場合は「いつでも再開できる」はずですが、時々「もうあいつと話すことなどない」と思うことは誰しも経験があるでしょう。あるいは「それを言われたら、もうおしまいだ」というような体験をしたことがあると思います。(ネットスラングでいう「はい論破」というのは、その典型かもしれません。)
この連載では、こうした事態を会話における「事故」、すなわち根本的なルール違反であるとみなす立場を(ひとまず)採用したいと思います。*ここから「公正」や「正義」といった、いくらか「事故りやすい」であろうことばを、うまく乗りこなすためのヒントを考えていきましょう。次回は、このことばを現代によみがえらせたと言ってよいジョン・ロールズ(1921-2002)の圧倒的なドライビングテクニックをご紹介したいと思います。
* ローティと「会話」をめぐる論考は、そう遠くないタイミングでまた別の形で世に出せるはずです。学術的な議論は、わたしの博士論文「『文化政治』としての哲学——リチャード・ローティの哲学史的評価をめぐって」(大阪大学、2019年)で詳しく論じました。
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■この連載が本になります(2023年8月29日発売、定価2200円+税)
2020年12月から全12回にわたって、著者が「公正」とはなにか、「正義」とはなにか、そのことばの使いこなし方をプラグマティズム言語哲学からさぐってきた本連載を、2023年8月、『〈公正〉を乗りこなす──正義の反対は別の正義か』として、書籍化しました。全編にわたり大幅に加筆修正を加え、「正しさ」とはなにかを考えるうえで、わたしたち自身の〝ことばづかい〞を通して「正しいことば」をとらえなおす画期的論考となっています。ぜひご一読ください。
朱喜哲(ちゅ・ひちょる)
1985年大阪生まれ。大阪大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。大阪大学社会技術共創研究センター招へい教員ほか。専門はプラグマティズム言語哲学とその思想史。前者ではヘイトスピーチやデータを用いた推論を研究対象として扱っている。共著に『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる』(さくら舎)、『世界最先端の研究が教える すごい哲学』(総合法令出版)、『在野研究ビギナーズ』(明石書店)、『信頼を考える』(勁草書房)など。共訳に『プラグマティズムはどこから来て、どこへ行くのか』(ブランダム著、勁草書房)などがある。