本だけ売ってメシが食えるか|第9回|町の古本屋の機能|小国貴司
第9回
町の古本屋の機能
次世代に残るような本を選り分ける
古本屋は、買取による仕入が生命線だ。もちろん必要なものを市場で買ってくることもできるのだが、店をやっているメリットはお客さんからの買取が容易であるということだし、また事実、お店を開けていると、とくにご近所さんからの買取の相談は多い。「新刊のお取り寄せから、蔵書の整理まで」というのがうちの店の特徴のひとつだと思っているが(開店当初は「本の揺り籠から墓場まで」と言っていたが、「それはダメです」と指摘されてやめました)、本好きの人にとっては「新刊をどこで買うか」以上に、「この蔵書をどうすればいいのだろうか」という悩みのほうがより切実だ。
店頭での少量の買取に加えて、大量の買取の場合は、日本全国どこにでもうかがうので(経費と仕入がバランスすれば、だけれど)、遠方から買取の問い合わせを受けることも多い。
先日もそのような問い合わせを受けたのだが、詳しく聞くと時代小説などの文庫がメインで、経費をかけてまでうちの店が出向くことは、距離的に難しそうだった。せっかく問い合わせをいただいたのだが、蔵書の一部始終を電話で確認できるわけもなく、お断りせざるをえなかった。
そのやりとりのなかで、自分が無意識のうちに発していた言葉に電話を切ったあとで気づき、「あー、そういうことか」とスッキリしたということがあった。
「ご近所に古本屋があれば、そのようなお店の仕事だと思います」と言っていたのだ。自分は古本屋の役割の違いを、やっぱりいろいろ考えてるんだな、と妙に納得した。
蔵書が一貫した専門書も含むものなら、持ち主も買い手も、それほど悩むことはない。持ち主が懇意にしている古本屋があるならば、なおさらだ。専門店を含むどこかが買取をしてくれる可能性が高い。もちろん、それぞれのお店の事情があるし、商売になりにくいものも多々ある。しかし、いわゆる「筋の通った」蔵書であればあるほど、買取の可能性は(たとえそれが遠方であっても)高くなる。問題は、そうじゃない場合だ。先ほどの時代小説の文庫のように、ごくごく普通の本。これを引き受けるには、店の物理的な距離の近さが必要になる。持ち込んでもらえるならまったく問題はないが、出張買取となると、かかる経費を店が負担できるかが分かれ道になってしまう。
そして問題は、ここからだ。
これも店をやっているとよくあることなのだが、買取のときにお客さんが「大事にしている」本と市場価値は、かならずしも一致しない。というよりは、ほぼ絶望的になるくらい、一致することは少ない。
つまり、逆にいえば、よくある文庫の買取で行ったはずの場所で、「おお!」となる1冊が出てこないとも限らないのだ。
つい先日も、ハリーポッターなどのベストセラーのあいだに、河鍋暁斎の和本が挟まっていた、なんていうことがあり、買取価格を伝えると「え? あんなの床に落ちてたのよ?」と言っていた。おそらく電話で問い合わせを受けていたら「ハリーポッターのセット」は伝えてくれたとしても、「暁斎の本」は伝えてくれなかったに違いない。そして「古い汚い本は床にある」というこの感覚は、ごくごく普通の感覚だと思う。むしろ、そうやって大量の本が淘汰されているからこその希少性なので、それは本にとってもニワトリと卵のような話でもある。
まず、ひとつのハードルとして「お客さんが言っている蔵書の後ろにどんな本がありそうか?」を読みとらなくてはならない。新刊書と違って、100冊のうち99冊は売れない本でも、1冊で経費プラス儲けが出るという商売が、古本屋の商いだ。その「嗅覚」は経験でしか磨くことができないと思う。
僕のような町の古本屋は、なんでも幅広く引き受けて、とにかく次世代に残るような本を、いま選り分けること。そして、自分の興味のないジャンルの本は、しかるべき専門店に橋渡しすること、これが商売的にも意義的にもいまの自分の目指すところではないか、と思っている。
その合間に、なにか自分が熱中できるジャンルを見つければいい。
本をとにかくたくさん「見る」
まえにもふれたように、ときどき「古本屋になるにはどうすればよいか?」と聞かれることがある。もちろん最短の道は、きちんとした古本屋で修業することである。この業界、あんがい面倒見のよい人が多く、しかも人情派である。多少の失敗は失敗に入らないし、なんかおおらかな業界だな、と思うので、べつに怖いことはない。もちろん多少は個々のお店のことは知っておいて、自分に合いそうかどうかを下調べするくらいはやったほうがいいと思うが、「古本屋になりたい!」という意思があるなら、まずは働いてみることをおすすめする。
ただ、店主のみなさん、古本屋になるくらいなので、まぁ、なんていうか、言いにくいけど、えっと、変わり者? も多い。新刊書店にも変わり者はいるけれど、古本屋の場合は、いっぽん筋が通っているというか。気に入らないと怒鳴ることも辞さない、やりたくないことはやらない、という一貫した姿勢が感じられる。本をまけろとしつこく言ってきたお客さんの前で、その本を破り捨て、「おまえに売る本はねぇ!」と言い捨てるような怖さはある(実話)。
だが、それさえ気にしなければ(いや、気にするだろ)、古本屋で働くことは、とても楽しい。
古本屋になりたいけれど、「そういう場所で働くのはちょっと…」という人や「事情があって古本屋では働けません」という人には、とにかく古本屋にひたすら通うことをおすすめしたい。かくいう自分も後者で修業したクチだ。
ここで大事なのは、本をとにかくたくさん「見る」こと。読むことではない。ましてや、買うことでもない。できれば買ってほしいけど。
かたっぱしから、本を見る。タイトルと背の感じ、本の質感などをたくさん見ると、自然と、どこにでもある本がわかってくる。棚の中で「掘り出し物が光って見える」という体験談をよく聞くが、これはおそらく、徹底して見ているからだと思う。よく見かける本は、興味をひかない本といっしょで、脳内で風景として処理される。言ってみればその本は、本当は見えていないのだ。でも、そこにあまり見たことのない本が混ざっていると、脳は自然とそこにフォーカスする。そして、たくさん本を見ている人ほど、それをレアな本、つまり高くて珍しい本として認識できるというわけだ。
多かれ少なかれ、古本屋はみんなもっている技術だと思うし、専門書店になればなるほど、その技術は狭く深くなっていく。私のような「雑本屋」は、どちらかというとその深さよりは、ジャンルの広さが大切になってくる。特殊な真贋の見分けが必要な買取品は、うちのような町の古本屋にはめったに入ってこないし、もしそのような本が入ってきても、組合という力強い味方がいる。
市場に行けば相談できる人もいるし、場合によってはいっしょに本を見てもらうことすらできる。ほんとうは利益を分かちあえないほかの事業者が、ただその本が市場に出てくる、自分たちが手に入れるチャンスが生まれるという1点で妥協点が生まれ、協力してくれる。これは組合のすごさだと思う。ライバルでありながら、書籍を残し、売る役割をみんなが担っているという、大袈裟だが絆のようなものはある。
だから町の古本屋でいるかぎりは、特殊な知識を急いでつけるよりは、洋装本のジャンルのなかで幅広い本に触れていたほうがよい、というのが、いまの自分の歩んでいる道だ。というより、かつてはあらゆる場所に私のような古本屋がいたからこそ、お客さんでも判断がつかないような、でもほんとうは希少な本がきちんと守られていたのだと思う。専門書店は、いわゆる町の本屋とは違うので、すべての買取を引き受けるのは不可能だし、多くのお客さんも専門書店を知っているわけではない。われわれ町の古本屋は、それを橋渡しする重要な機能をもっていると思っている。
古本屋で働いてみるとわかると思うが、ほんとうに世の中には本があふれている。戦後出版された本だけでも、恐ろしいほどの種類があり、ふだん店に持ち込んでいただくような買取はもちろんのこと、家1軒分という大きな買取でも、基本的には、すべて違う本である。もちろん、同じ本が複数冊、家の違うところから出てくることもよくあるのだが、それでも、すべて同じ本ばかり買っている人というのはいない。家1軒分の数千冊、数万冊という単位の本が、すべて違う種類なのだ。これを相手に商売をしていると思うと、なんというか、畏れのようなものはつねにある。本は「データだ、情報だ」といくら言ってみても、数万冊の本を前にしたときに感じる圧、「なんでこんなにあるんだよ!」という「モノ」としての本が放つ存在感は、凄まじい。
いったいこれ以上新しい本を作る必要があるのか? と思うこともある。が、そのような恐ろしい量の大海があるからこそ、われわれ古本屋がワクワクするのも事実である。見たことのない1冊は、毎日のように現れる。自分のような駆け出しの古本屋にとってはなおさらだが、何十年と仕事をしている老練な古本屋にとっても、そのような1冊があるからこそ、毎日商売を続けられるのだろう。
そして、知らない1冊の本を見たときに、それを売りものにどう仕立てるか、逆に売りものにしないか、この見立てが古本屋によってまったく違うこともしばしばだ。その見立ての違いこそが、古本屋の個性を生む。だれかが捨てた本が、だれかにとって商品になる、という違いが、店ごとの棚の違いになる。
ネットやスマホがある現代では、本の相場というのは、あってないようなもので、かつては圧倒的な経験で古本屋が身につけた相場感も、基本的にだれもが調べられる時代だ。われわれももちろんそれを参照するし、お客さんもそれを調べるだろう。でも、すべてを調べられるかといえば、それは不可能な話。さっきも言ったような凄まじい物量を前にして、それを1冊ずつ調べるというのは、砂粒を数える、とまでは言わないが、それなりの大きさの山の木を数えるくらいの作業ではあるだろう。
われわれ古本屋は日々、大量の本を見ている。そのなかの一部の本を手にしたときに、その先に何を見るか。それは買取のときには、ほかにどのような本があるかというあたりをつけることでもあるし、販売のときには、どのように商品に仕立て上げられるか、ということでもある。
いまの時代の相場には、現時点で売れるか売れないかの判断だけでなく、10年後にどのように商品が変化しているか、変化させられるか、という想像力も必要なのかもしれない。それこそが、フラット化した相場のなかで、いまでもなおワクワクさせる、ワクワクできる取り組みのように思えるのだ。
小国貴司(おくに・たかし)
1980年生まれ。リブロ店長、本店アシスタント・マネージャーを経て、独立。2017年1月、駒込にて古書とセレクトされた新刊を取り扱う書店「BOOKS青いカバ」を開店。