こんな授業があったんだ│第43回│「特別教室」の授業〈前編〉│千葉保
「特別教室」の授業 〈前編〉
(2011年)
千葉保
(2011年)
千葉保
1 ─日本の学校の幕開け
いまはいろいろある特別教室
最初に、現在、学校にある特別教室をあげてもらいました。
──学校には、どんな特別教室がありますか? 小学校の校舎を思い出してみましょう。
「おれ、音楽室が好きだった。昼休みによくドラムたたいたな」
「わたしは糸ノコ使って工作するのが、楽しみだった。図工室が好き」
「わたし、本が好きで、休み時間はいつも図書室にいたわ」
「ぼくは理科の授業がいちばん好きだった。理科室の薬品の匂いがたまらなくよかった」(笑)
「6年のときはよくパソコン教室で調べたよ。総合の時間がおもしろかった」
「調理実習では家庭科室でサンドイッチつくったな」
「わたしも家庭科室で、ミシンでエプロンづくりしたわ」
「視聴覚教室もあったな」
──みんなからでたのは、「音楽室」「図工室」「図書室」「理科室」「パソコン教室」「家庭科室」「視聴覚室」だね。では、きょうはそのなかの「音楽室」「図書室」 「理科室」「家庭科室」の 4 つの特別教室をとりあげて、どの順番に、どんな理由でその教室ができたのか、考えていきましょう。
明治初めの校舎は西洋モダン
最初に、日本に学校ができた明治初めのようすを見ていきました。
──日本の学校制度は、明治5年から始まったのだけど、明治初めの学校はどんなようすだったのか、写真を見て考えましょう。
「わあ、かっこいい!」
「こんなにすてきだったの?」
「わたし、こんな校舎なら通いたい!」(笑)
「どこの学校ですか?」
──これは明治8年に長野県佐久市にできた中込小学校(旧中込学校)です。いまも重要文化財として保存されています。
「白い校舎でいいなあ。わたしもこんな校舎で学びたい!」
「塔があって、ほんとうにかっこいいなあ」
「校舎の窓もしゃれてるよねえ」
「バルコニーがあってモダンだね」
「なぜ、塔があったの?」
──ここには太鼓がおかれて、勉強の開始や終わりを太鼓で知らせたんだよ。
「えっ、チャイムじゃなくて太鼓の音で知らせたの?」
「なんか、いいなあ」
「ロマンチックだね」
「むかしはどこの学校も、こんなにすてきだったの?」
──松本市に残っている開智学校や宮城県の登米小学校など、各地にいまも残っているよ。
「明治政府が、こんなにすてきな学校をつくらせたの?」
──明治5年の学制発布当初、政府は、近代学校になることを象徴するような立派な建物をつくってほしいと期待したそうです。西洋式の教育をおこなうには西 洋式の学校でなければならないとして、このような洋風建築の学校をつくりあげたんだね。
「外国人につくってもらったの?」
「きっとそうだよ。日本人にはまだ無理だったかも」
──設計施工者は多くがその地方の宮大工さんで、近代的学校ってよく知らなかったから、横浜など開港した場所にある洋風建築を見て、見よう見まねでとりいれて、それに和風のデザインも加えてつくりあげたそうです。
「すごいな。明治の人もがんばってたんだね」
「尊敬しちゃう」
「建築費は政府がだしたの?」
──政府はビタ一文もださず、すべて学区の人びとが、集金をしたり寄付を集めたりしてつくったそうです。月掛け集金帳や日掛け集金帳なども残っているそうです。
「えっ、政府は声かけだけ」
「地域の人ががんばって、お金だしたんだ」
「政府はずるいなあ」
「地域の人たちはえらいなあ」
──しかし、このような洋風建築は高価だったし、台風で太鼓楼が飛ばされて修繕費がかさむことなどから、政府はすぐに、学校建築は必要な機能のみを満たせばよいとして、安上がりで丈夫な和風の校舎を奨励するように変わっていきました。明治7年から12年ごろまでのわずか6年間が洋風校舎の最盛期で、その後は急激に少なくなっていったそうです。
「わあ、残念!」
「こんな校舎で勉強したかったなあ」
どの順序でできた? 音楽室、理科室、家庭科室、図書室
──では、この校舎の見取り図を見てみよう。どんな教室があるかな? 特別教室はいくつあるかな?
「図書室あるかな?」
「理科室はあるかもよ」
ここで校舎の配置図を配りました。
「講堂がある」
「教員室と校長室も」
「小使室や宿直室もあるね」
「教室は 4 つしかないね」
「うん、特別教室はないなあ」
──明治の初めの学校には特別教室がなかったね。「音楽室」「理科室」「家庭科室」「図書室」が、どの順番で、どんな理由でできていったのか考えてみよう。グループで相談して、この4つに順番をつけて、つくった理由も考えてごらん。
「小学校の校舎で考えるの?」
──日本で初めにできた学校が小学校だから、小学校の校舎で考えよう。当時とは教室の呼び方が違っているものもあるかもしれないけど、教室の役割で、できた順番を考えよう。
グループでの相談が始まりました。グループをのぞくと、こんな話し合いをしていました。
「わたしは、いちばん最初にできたのが図書室だと思う。子どもたちにいっぱい本を読ませて、賢くしたかったんじゃないかと思うけど」
「そうだな。ぼくもそう思えてきた」
「でも、日本で学校ができたのは明治の初めだろ。全国の学校にたくさん本をそろえるお金があったかな?」
「お金かあ、それも問題だよね」
「地域の人の寄付を、またもらったのかも」
「でも、地域の人は、校舎建築でお金をださせられてるよ」
「そうか、楽器は高いから、音楽室もあとのほうかな?」
「そうだよね。理科室もお金がかかりそうだな」
「お金で考えると、家庭科室かな?」
「家庭科室だって、ミシンなんか高いでしょ」
「でも、明治の初めにミシンなんてあった?」
「うーん……」と、生徒たちは考え込んでしまいました。
「お金だけで考えていいのかなあ」
「そうだよ。学校で何をいちばん勉強してほしいかを考えないといけないのでは?」
「その点で考えると、やっぱり図書室かなあ」
「明治政府もがんばって図書室をつくったと考えましょう」
「いちばん最初が、図書室!」
学制発布で、女子が学校に来なくなった?
こんな調子でグループで考えていきました。
その結果、各グループは、つぎのような順番を考えました。
こんな調子でグループで考えていきました。
その結果、各グループは、つぎのような順番を考えました。
──家庭科室がいちばん最初にできたと考えたグループが多いね。どんな理由かな?
「生活に直結してるし、役立つから、家庭科室が1番だと考えた」
「女の子に料理や裁縫を教えたと思うから1番にした」
──政府は学制の制定にあって、「女子教育コソ第一義トス」と重要視して、女性解放を第一に考え、男と同じ教育を与えることを目標にしました。
「じゃ、料理や裁縫はだめかなあ」(笑)
「男女同権か。なかなかいいじゃん。政府もがんばってるね」
──勇んで出発した学校制度だけど、さて、どうなったか、明治6年の神奈川県の就学のようすを見てください。どんなことがわかる?
「学齢人口の半分も就学してないね」
「男の子は半分が学校に行ってるけど、女の子は3分の1もいない」
「どうして、女の子は学校へ行く人が少なかったの?」
──そのころの女子教育というと、裁縫が主だったけど、男女平等として政府が裁縫科を認めなかったから、女子で学校にくる人が少なくなってしまったのです。
「このころの女子の教育って、裁縫だったの?」
「針で着物を縫うやつ?」
「数学なんかは勉強しないの?」
──ミシンはまだなくて、女子は針で着物が縫えれば一人前と思われていたんだ。
学制発布で、女子が学校に来なくなった?
「でも、このまま女子がこないと困るね」
「あっ、裁縫を認めたのかな」
「わたしは政府の考えがいいと思う。男女平等だもの。女子には裁縫なんて、決めつけてほしくない」
「あっ、おまえ不器用だもんね」(笑)
「うるさい!」
──そんな状況だったので、女子の就学を増やすために政府の意図を無視して、明治8年になると、裁縫科を設ける学校がでてきました。政府も民衆の強い要望に応えて、明治12年の「教育令」で裁縫科の設置を明文化して認めました。
「やっぱり認めたね」
「それで家庭科室をつくったんだね」
──当時は、裁縫は畳の上でやっていたので、畳敷の裁縫室を学校につくったのです。
「それで女子は、学校にくるようになったの?」
「親も、裁縫を教えてくれるから学校へ行け、っていったと思うな」
「先生、女子の人数、増えてるでしょ?」
──裁縫室ができて、女子の就学はだんだん増えていきました。でも、鎌倉の小学校をみると、卒業生の数の男女差がなくなるのは明治30年代になってからです。
「ほんとだ。明治 3 3 年には卒業生が男女同数だ」
「裁縫室も効果があったんだね」
──そういうわけで、裁縫室が、最初にできた特別教室でした。いまでいうと、家庭科室になりますね。
「やったあ。当たってる」
「うちのグループもだよ」
──女子の就学率が高くなり、裁縫室がその役割を果たしおえると、畳敷を利用して、修身科の礼法を教える教室へと性格を変えていきました。
[参考文献]
青木正夫「明治・大正・昭和小学校建築史」、『学校建築の冒険』(INAX)所収
横須賀薫・千葉透・油谷満夫『図説 教育の歴史』(河出書房新社)、
鎌倉市教育委員会『鎌倉教育史』、ほか
[校舎写真提供]裏辺研究所ウェブサイト http://www.uraken.net
この授業は子どもから大人まで、さまざまな場面でおこなったものです。
(つづく)
出典:千葉保『はじまりをたどる「歴史」の授業』太郎次郎社エディタス、2011年
千葉保(ちば・たもつ)
1945年生まれ。神奈川県鎌倉市の小学校教員をへて、同県三浦市の小学校校長をつとめる。のち、國學院大学講師。「カード破産の授業」「使い捨てカメラの授業」「原発の授業」など、身近な題材を斬新な切り口で社会の問題へとつなぐ授業をつくりつづける。主著に、上に紹介した『授業 日本は、どこへ行く?』のほか、『学校にさわやかな風が吹く』『はじまりをたどる「歴史」の授業』『食からみえる「現代」の授業』『コンビニ弁当16万キロの旅』など。