本だけ売ってメシが食えるか|第13回|平台と棚|小国貴司
第13回
平台と棚
本屋は「平台化」している
本屋にとって大切なのは平台か棚か、という議論はいつでもある。どっちも大事、という正論は横に置いておいて、どっちをいじるのが好きか、というのはそのまま本屋の個性だろう。
ひとつのアイテムをたくさん仕入れて、多くの人に買ってもらう。それをまずは第一だと考える人もいるし、いや、棚の本のどれとどれを横に並べて、その並びをお客さんに提示することで買ってもらうことが大事だと考える人もいる。
大きな流れでいえば、世の中の本屋はすべて「平台化」していると思う。
最近興隆している貸棚型の本屋(シェア型書店とも。書店が有料で棚を貸し、借主が店主として好きな本を販売できる)も、棚と銘打ってはいるが、あれは平台の考え方だ。つまり平台では、1点1点の本の価値が一目でわかるように並べられている。貸棚はあの狭い区画のなかに、それぞれの棚の主が強い思い入れのある本を並べる。それは書店でいえば、何を平積みにするか、という考え方とほぼ同じだろう。棚でありながら、選書した人にとっては平台の思い、それがシェア型本屋の強みのひとつなのだと思う。
では、普通の本屋にとって(何が普通かの定義はむずかしいが……)、棚と平台の違いはなんなのだろうか。
うちのお店にも平台がある。平台に乗るのは、思い入れのある本か新刊である。この台はうちの店でいちばん新刊書店に近い考え方だろう。お客さんがここだけ見れば、「あれ? 新しい本しかないのかな」と思うにちがいない。
いっぽう、棚はもう少し雑多である。ゆるいつながりで「ここかな?」という程度に場所をきめた本が並ぶ。たいていの本屋の棚はジャンルで区切られている。これは「文芸」「人文書」のような一般書店で採用されているジャンルのときもあれば、なんとなくこの本はこの隣かな、というようなゆるさで並べられることもある。書店のキモは、どの本がどこに並んでいるか、つまりどういった「ジャンル」分けがされているか、であることを思うと、並べる人のそのジャンルへの興味関心の強さが必然的に問われるわけだが、自分としてはそのこだわりをすべての書店に求めるのは酷だとおもう。
あえて言うとしたら、棚づくりをするうえで、担当しているジャンルのエキスパートになる必要はないと思う。
ジャンルのエキスパートがつくる棚は、たしかに素晴らしい。ロングセラーの知識と新しく出た本が組み合わさり、発見がある。しかし今日から仕事を始めた人が、入荷した本を試行錯誤しながら並べる。それを許容するのが、書店にとっての棚という存在ではなかろうか? 完璧な並びでなくてもよい。少し変なものが棚に入っていても、いつかだれかが(本人が?)直す。いや、べつに直さなくても、棚の中ならそれほど目立たない。むしろ何か新しい発見があるかもしれない。そうやって本屋ができていく。
完璧な棚より、自分が長いあいだ売れると思う本を、お客さんが買ってくれるかなと考えながら、自分が思うように並べたほうが、ずっと魅力的だと思う。
むしろ世の中が平台的な本屋を求めれば求めるほど、書店経営のハードルは上がっていくのではないか? 思い入れのある本しか自分の棚に並べられないのなら、それは少し窮屈だし、売れないときのダメージは深い。なぜこんないい本が売れないんだ! と、だれしもが思ってしまうだろう。
自分としては本屋が1軒でも多くできてほしいと思っているから、まずはもう少し軽い気持ちで棚なんてつくっていいんだよ、と思う。平台は目立つぶん、気合を入れて商品を絞り込まないといけないけれど、棚はもう少しひらかれている。本を放り込むようにしてできた棚であっても、ビシッとつくりこまれた棚であっても、お客さんは結局、ほしい本しか買わない。買ってもらうゴールに向けて、エキスパートも新人も、結局は試行錯誤するしかないのだ。
試行錯誤の余白が多い本屋ほど、ぼくは強いと思う。
棚はすべてを飲み込んでくれる
先日、ある本を並べたことにより、SNS上で「こんな本を売るなんて!」と書店が大批判をされ、謝罪をするという騒動があった。批判する側を「焚書じゃないか!」と批判する人もいたが、これこそが、現代の書店がおかれている状況のむずかしさの象徴なのだよな、と感じた。
むかし新刊書店で働いていたときも、同様のことは何度か起きた。SNSが普及したあとは、やはり「炎上」が起きたこともあった。
ある本を店の顔である新刊台に並べたことで、大炎上したのだ。当時その場所を管理していた担当者のひとりがぼくだったのだから、その商品選定はしていないにせよ、管理者としての責任はある。だが、その商品選定と大々的な陳列は会社のヒエラルキーのうえで決められたこと。われわれ新刊台の管理をしていた部門であっても拒否はできなかった。正直、「こんな本、大問題になるだろ。やべーな」と思って、できるかぎり目立たないような場所で並べたのだが(それももちろん文句を言われたわけだが、現場のささやかな抵抗である)、案の定、大炎上。そんなものを平台に置くほうが悪いのである。
ただ、そのような本を売ることまでやめよと言うのはむずかしい。
会社としてある程度の人数で書店をつくっているのなら、個人的な思いが組織に潰されて商品選択の自由が制限されることもあるし、個人でやっていても、すべてに厳密なチェックができるかと言えば、ほぼ不可能だろう。もちろんある程度の判断はできると思うが、それでもどうしても間違いが起きることはある。
SNSというのは、小売業にとって大きな武器でもあるが、同時に苦しさを生みだすものでもある。何を扱っているのか、どんな本をどうやって取り上げるのかが可視化され、それが何万、何十万、何百万の人に開示されてしまう。ひとつの投稿が、その店の、その人の命を削ることもある。
やはりここでも書店の「平台化」は起きていて、書店が何をフックアップするのか、何に注目しているのかは情報としてとても強い。単品を何百冊、何千冊売ったという正の側面がある一方で、炎上という負の側面もある(炎上に乗っかって本を売れるほど、書店員はメンタルが強くない気がする
じゃあ、どうすればいいのか? ぼくとしてはそのためにも棚があると思う。
棚はすべてを飲み込んでくれる。ときに配本(古本なら買取)で「?」という本が入ってきても、棚にとりあえず並べることはできる。平台にする必要はない。それが担当者の力量である。1冊だけ棚に差して、残りは返品するか、できないならストックしておけばいい。棚はすべてを飲み込んで、でも必要なものは見せてくれる。
あるジャンルの担当者として勉強するにこしたことはないが、勉強していないからといって書店の仕事ができないわけじゃない。わからないなら、わからないなりの棚をつくればいいし、本屋をつくればいいと思う。すべてを平台のように考える必要はないのだ。すべての本に思い入れがある必要はない。自分だってそうだから、こんなんでも棚はつくれるし、書店はできるはずなのだ。
まあ、どうかと思う本しかない本屋はどうかと思うが、逆にいえば、うちの店だって「どうかと思う」と思われることもあるだろう。それはそっと、自分の地図から削除すればいいのだ。
小国貴司(おくに・たかし)
1980年生まれ。リブロ店長、本店アシスタント・マネージャーを経て、独立。2017年1月、駒込にて古書とセレクトされた新刊を取り扱う書店「BOOKS青いカバ」を開店。