[往復書簡]国籍のゆらぎ、たしかなわたし【第六期】|第4回|「われわれ」を揺るがせ、ひろげる「ちから」(金迅野)|金迅野+木下理仁

 

[往復書簡/第六期]第4回
「われわれ」を揺るがせ、ひろげる「ちから」
金迅野


 真摯な応答をいただき、ありがとうございました。「文章が少し硬質にすぎたかな」と思う一方で、投げかけていただいた貴重な問いに自分なりに懸命に応答しようとした結果とお考えいただければ、と思います。

 書簡のなかに出てくる「当事者」という言葉に「」がついていることに深い意味がありますね。ぼくは、この「」は、狭い意味での当事者だと読みました。便宜上、「マイノリティ」や「マジョリティ」という言葉をぼくらは使うことがありますが、それは、ある立場に立つとき(あるいは立っている/立たされていると感じるとき)に使うもので、自分がすみからすみまで「マイノリティ」であったり「マジョリティ」であったりすることは本来ないと思っています。宮地尚子さん(一橋大学、精神科医)が、「多文化主義」や「多文化共生」のプログラムは、マイノリティの権利を尊重し、マイノリティの語る権利を保証する働きである反面、挙げる「声」が形になればなるほど、「代表性」をおびることになってしまいかねない、と指摘しています(『環状島=トラウマの地政学』)。ぼくらが神奈川県国際交流協会で四苦八苦しながら仕事をした「多文化主義」や「多文化共生」にかかわる仕事にも、そういう側面が宿っていたのだと思います。そして、ぼくは、前回にも述べた「エスニックキャンプ」で聴いた「移民」の子どもたちの「声」を、「当事者」や「マイノリティ」や「●●人」の「声」に還元しないことが大事だ、と考えつづけてきました。

 だれかとだれかが出会うとき、そこには、きれいな「対称性」など見込めないことの方が少なくないように思います。生徒/先生、被支援者/支援者、子ども/おとな、障がいがある/健常者である……などもまた、その関係はむしろ非対称的であることのほうが多いのではないでしょうか。ぼくが、キャンプをとおして出会った人たちの「声」は、「マイノリティ」や「外国人」などの言葉で飼いならされることを拒否するような肌理がありました。そこには、非対称的ななにかに対する「怒り」や「荒ぶる魂」や「突然わきあがるパトス」のようなものに満ちていました(『聴くことの場』神奈川県国際交流協会)。行政の「課題」などに還元できない、「多重」で「多層」の人間の生の次元を含む、「多声」(自分の声とさまざまな存在の声とが、具体的な痛みの経験のつらなりによって必然的に響きあい重なるような声)といえるようなものでした。そして、それは、なにかを「代表する」(represent)のではなく、多重で多層な個的な経験を「再–現前させる」(re-present)ものでした。

 

 今回の木下さんの書簡には、ある事柄が「自分事」になっていく過程が詳細に描かれていて、目に浮かぶような臨場感を経験しました。そこには、「自分事」になることでだれしもが当事者になりうることが含意されていると思いました。

 とりわけ心ひかれたのは、「なぜあんなことを言ったのか?」という木下さんの自問でした。発言はふつうみずからの意志によってなされるものと認識されています。しかし、人には、木下さんがお書きになったように、「なぜあんなことを言ったのか」と思わざるをえないような経験があるように思います。それは、「意志」からずれるもの、引き出されるもの、向こうからやってくるもの、自分では完全に制御できない次元に属するもの、といえるかもしれません。木下さんの口をとおして現われた「意見」のその奥に佇むものとはなんなのでしょうか。ぼくは、ときに、そういうことにとても惹かれている自分を発見します。それはぼくが、それでも一人の「宗教家」であるからかもしれません。

 木下さんの「あんなこと」が語られた背後には、「共感」といえる心の「うごき」があり、「共感」の「核」には「痛み」があるのだと推察します。ところで、日本語で「共感」と言ってしまうと、だれかを排斥するようなナショナリズムにも「共感」を見いだせるという批判もできるでしょう。でも、「共感」と訳される “sympathy” や “compassion” は、「ともに」(ギリシャ語のsyn、ラテン語のconに由来)と「pathos」(痛み)という語からなっています。つまり、この語には、もともと「痛み」という言葉に含まれる人間の経験のつらなりが埋め込まれていると考えられます。

 ぼくは、木下さんが「あんなこと」を口にしたときに、木下さんのなかにある共感の核(痛みの経験)がうずいたのだと思います。そして、その「うずき」は、おそらく、木下さんがみずから経験したなんらかの「痛み」の経験とつながっているのではないかと想像しています。ぼくはそのような「うずき」のことを「痛みのセンサー」というアレゴリーをとおして説明したことがあります。

 だれでも「痛み」は避けて通りたいものです。しかし、人生を歩む過程では、かならずしも望んではいない事態や出来事に直面することが、まま起こりえます。ぼくたちはそのことをどちらかというとマイナスの経験としてだけとらえがちですが、ぼくは、そのようなときに、ぼくらが意識しないところで、与えられるものがあると思っています。それが、「痛み」を感受するセンサーです。そして、それは、「世界には、自分が経験した痛みとは違う痛みがある」という想像力/構想力に向かって人をうながす「ちから」のヤドリギのようなものと考えています。ですから、ぼくの眼から見れば、木下さんが「あんなこと」を口にしたのは、上述のとおり、木下さんの経験に根ざす、痛みのセンサーがそのとき生きていたからなのではないか、と感じています。

 

 ところが、ぼくらが生きている社会は、各自に備えられた痛みのセンサーが作動しにくい社会になっているように思います。便利さや、快適さや、高い給料や、名声や、成功を目指すことを至上命令とするような社会は、森岡正博さんが「無痛文明」と呼ぶようなものになってしまっているのかもしれません(『無痛文明論』)。「無痛文明」の本質は「奪いとること」であり、「奪いとること」を内面化した人間は、「身体の欲望が生命の喜びを奪う」ようになる、と森岡さんは述べます。細かいことは省きますが、欲望を暴発させるような「仕組まれた冒険」のなかに追い込まれた人間は、苦しみやつらさに立ち向かったときに起こる「自己解体」と「再生」、つまり「痛み」をとおして「自分のあり方が根底から変化」したときにこそ訪れる「生命のよろこび」から離れてしまう、と森岡さんは分析しています。ぼくは、なんでもかんでもすすんで「苦しみ」や「つらさ」に向かわなければならないとは思いません。しかし、自分にとって決定的な「苦しみ」や「つらさ」がやってきたとき、そのことをめぐってもがきぬいた先に、ほんとうの「喜び」が来る、と自分の経験をとおして思っています。そして、そのような経験を想い起こすときに、記憶に現われるのが、恩師や友人などの他者の「助け」です。

 「苦しみ」や「つらさ」のなかで、自分ひとりで、もがき、その「苦しみ」や「つらさ」をくぐりぬけるのは難しいことですし、自分のちからだけではどうしようもないこともたくさんあります。しかし、現代社会で流通している「自己責任」という言葉は、「失敗の落とし前は自分でつけろ」、「助けを求めるな」、という命題を個人に押しつけます。ところが、そのような社会にあっても、もがいているぼくの痛みが、だれかの「痛みのセンサー」にキャッチされるということはあるのではないでしょうか。そして、コミュニティの「共同性」とは本来、そういう「うごき」によって支えられるものなのではないでしょうか。

 

 川崎の在日コリアンの集住地域の桜本がヘイトのターゲットになったことがありましたね。2015年、いわゆる「戦争法案」が国会に提出されたとき、朝鮮半島や日本の地で戦争体験をしていた在日コリアン一世たちが、商店街で戦争反対のデモをしました。そのことが新聞に取り上げられたことがきっかけとなって、桜本がヘイトのターゲットになったあのときです。ヘイト・デモで叫ばれる「ゴキブリ朝鮮人は叩き殺せ」などの言葉もさることながら、「朝鮮に帰れ」という言葉がなによりも悲しいことだと、ある在日コリアンの一世の方が語っていました。そのような事態を耳にした琉球をルーツにもつ日系ペルー人の大城正子さん(1930–2022)の「声」こそ、「痛みのセンサー」にうながされてつむがれたものだと思うのです。

 大城正子さんは、1990年代の入管法の改正によって来日していた娘さんたちに呼ばれて2004年に来日し、やがて「トラヂの会」という在日コリアン一世の交流会に参加するようになります(『わたしもじだいのいちぶです』)。最初は奇異な目で彼女を見ていた在日コリアン一世たちも、彼女の歌う「べサメ・ムーチョ」につられていっしょに歌って踊るようになり、いつしかたがいになくてはならない友人になったのでした。ペルー生まれの大城さんは、ペルーで小学校低学年まで日本人学校に通っていましたが、戦争で敵国になったため日本人学校が閉鎖になり、日本語の読み書きが十分にできませんでした。その後も貧困のなかを生きぬくために学ぶ機会を失った大城さんが、「ウリマダン(コリア語でわたしたちの広場という意味)」の識字学級で自分史を綴る活動をしているときに、自分の友だちがヘイト・スピーチにさらされていることを耳にし、胸を痛め、おそらくはある「うずき」にうながされて、以下のような文章をしたためたのでした。

「戦争のころのこと 大城正子」
 日本人の学校がなくなったので、ペルーの学校に行ったら、「チーノ(目が小さいことをからかったことば)」「ここはおまえの国の学校じゃない」といわれた。はたけをとられてお父さんが人のはたけではたらいていたら畑のなかをとおる人がいてお父さんは「そこはみちじゃゃないよ」と言ったら「ここはお前の国じゃない。どこでもみちだ」と言われた。「あなたの国にいきなさい」と、戦争がおわってから、「日本はまけたのだからかえれ」といつも言われました。そのときさみしかった。トラヂ会やウリマダンの友だちが「ちょうせんにかえれ」「しね!ころしてやる!」といわれたらどんなにかなしいか、私はよくわかります。
(『トラヂ会ミニ文化祭 記録集』)

「われわれ」という言葉をぼくらはよく口にしますが、「われわれ」という言葉を使った瞬間、そこには「われわれ」の「内」と「外」が現われます。だからこそ、ぼくは、つねに「世界には、自分が経験した痛みとは違う痛みがある」ことを想い起こし、古くて固定されつづける「われわれ」の垣根を疑い、新たに広げていく想像力/構想力をもつ者でありたいと思います。

 ウルトラシリーズのシナリオを書いた琉球出身の金城哲夫さんも、琉球の「痛み」がだれかの「痛みのセンサー」にキャッチされることに希望を見いだそうとして、渾身のちからをもって、「新しいわれわれ」に向けて、あの一連のシナリオを書いていたのではないか、と夢想します。あの一連の作品に「祈り」のようなものを感じるのはぼくだけでしょうか。

 

金迅野(きむ・しんや)
在日コリアン2世の父と自称江戸っ子の日本人の母のあいだに東京で生まれた。東京には台湾人のいとこが、朝鮮半島の南北にもいとこがいる。出版社、神奈川県国際交流協会、川崎市ふれあい館などを経て、2012年から在日大韓基督教会横須賀教会牧師。2020年から立教大学大学院特任准教授。専門は、実践神学、多文化共生論、人権教育など。共著に『ヘイトをのりこえる教室』(大月書店、2023年)。