こんな授業があったんだ│第45回│「まかぬたねははえぬ」の授業〈前編〉│平林浩

こんな授業があったんだ 授業って、教科書を学ぶためだけのもの? え、まさか。1980〜90年代の授業を中心に、発見に満ちた実践記録の数々を紹介します。

授業って、教科書を学ぶためだけのもの? え、まさか。1980〜90年代の授業を中心に、発見に満ちた実践記録の数々を紹介します。

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「まかぬたねははえぬ」の授業 〈前編〉
カビを使って「生物観」を追究する(小学4年生・1983年)
平林浩

古いパンから、しぜんにはえる?!

 教卓の上で、もう30分以上も蒸し器が湯気をふき出していた。子どもたちの討論に区切りがついたので、ガスこんろの火をとめた。ふたをあけると、わっと湯気がふくらんで散っていった。
「みんな、まえに出てきて」
 声をかけると、子どもたちはいつものように教卓を囲んだ。
「もう、だいぶ長い時間、蒸気をあてたから、シャーレを出すよ。そっとね。ふたがあかないように」
 私は自分に念を押しながら、子どもたちにも聞こえるように言い、手に軍手をはめて、蒸し器のなかからシャーレをとりだした。
「先生、熱くないの?」
「うん、まだ熱いよ。ほんとは、蒸し器のなかでちょっと冷えてからとり出したほうがいいのだけど、時間がないから、急いで出したんだ」
 子どもたちはじっと私の手もとを見つめる。シャーレにはいっぱい水滴がついて、シャーレのなかのパンがぼんやりと見えていた。
「ほら、水蒸気があるじゃないか」
「だって、あれはシャーレの外側についているんだろう」
「シャーレにはすきまがあるのだから、なかにだってはいるよ」
 子どもたちは、まだ討論のつづきをやっている。
「このままふたはあけないで、そっとしておくんだったね」
「先生、ふたを動かしちゃだめだよ」
「はい、この引き出しに入れるんでしょう」
 教卓の前面についている引き出しをあけてくれたので、そのなかにシャーレをそっと置いた。
「さあ、このまま1週間ぐらい置いておくと、どうなっているかだよ。ああ、それからこちらのシャーレにもパンを入れて、こっちは蒸気をあてないでふたをしておくよ。くらべるためにね」
 生物の実験には、比較するための実験が必要だ。あとで、蒸気をあてなかったパンと比較してみると、ちがいがよくわかるからである。蒸気をあてたシャーレ3個と、蒸気をあてないシャーレ2個を用意して、引き出しに入れた。
「さあ、それでは、結果をおたのしみに。みんな、席にもどって」
 席にもどった子どもたちは、ノートに感想など書きくわえて、そのノートを私の机の上に置いて教室を出ていった。ノートを私に見せてくれる子どもは、多いときでクラスの2/3ぐらい、少ないときで半分ぐらいだ。
 ノートには、赤ペンで私の感想や意見を書いて、つぎの時間に返す。担当している6クラスのノートに目をとおすのは、時間的にはたいへんなことだ。あき時間はほとんどそれに使ってしまうが、そうでもしないと、専科の教師である私と子どもとの関係を密にしていくことがむずかしいからだ。
 私が教卓の上のものをかたづけはじめると、かおるさんが机の向こうがわに来て、体を私のほうにのりださせながら、話しかけてきた。
「先生、カビはパンが古くなればはえてくるんだよねえ」と、念を押すように言う。
「うん、どうだろう。薫さんはそう思うのね」
「そう」
「あのね、それじゃ、薫さんは、雑草はたねがなくてもはえてくると思うの?」
 私は授業のなかでの薫さんの発言を思い出して、きいてみた。
「そう、雑草はね。でも、花なんかはちがうよ。たねをまかなくちゃ、はえてこないよ」
 私は、「だって、<花と実>の授業で、そのへんの雑草にだって、花が咲いて実がなることを勉強したじゃないか」と口もとまで出かかったのをおしとどめ、「なるほど、そうか。じゃ、カビは胞子がなくても、パンをあたたかくてしめりけの多いところにおけば、はえてくるっていうわけ?」とたずねた。
「そうだよ」
 薫さんは、自信をもっているようだった。
 ここで正しい答えを言う必要はないと思い、「薫さん、きょうはよく考えて発言したね。すごかったな。実験の結果がどうなるか、待っていようよ」というと、薫さんは、「うん」とうなずいて、スキップしながら理科室を出ていった。
 薫さんは、「カビは、パンなどが古くなればしぜんにはえてくるものだ」という仮説をもっているのだ。

パンがさめれば、はえてくる?!

 この日の薫さんたちとの授業では、どういう問題をとりあげたのだろうか。ちょっとふりかえってみよう。1983年度4年1組のクラスで、9月末に実施した授業の記録である。

<問題5>
 新しいパンをシャーレに入れ、ふたをしたまま蒸し器に入れて、蒸気をあてて熱します。20分ぐらい熱したら、シャーレを静かにとり出し、そのまま、あたたかくて、うすぐらいところにおくことにします。
 1週間ぐらいそのままにしておいたら、シャーレの中のパンにカビがはえてくるでしょうか。

▶予想
 ㋐ カビははえる。
 ㋑ カビははえない。
 ㋒ はえるともはえないともいえない。

▶討論
 みんなの考えを出しあって討論しましょう。

▶実験
 新しいパンをべつのシャーレに入れ、それは熱しないで、そのままおいておき、結果をくらべてみましょう。

▶実験の結果

 子どもたちの予想は、
 ㋐ 25人
 ㋑ 13人
 ㋒ 1人
だった。カビがはえてくると予想した子どもが多数になったのは、私にとっては、ちょっと意外だった。それは、すでに蒸気を長時間あてたパンについていたカビは、死んでしまうということをやっていたからだ。しかし、多くの子どもたちが㋐の予想をたてた理由は、討論のなかでわかってきた。
 まず、彩子さんが、カビははえないという予想をたてた理由を言った。
「なぜ㋑にしたかというと、一度パンを熱して、シャーレにふたをしているのだから、カビははえっこない」
 ふたをすればなぜはえないのか、蒸してあればなぜはえないのか、そのわけは言わなかったが、自信をもった言い方だった。
 真吾くんは、はえてくるという㋐の予想だ。
「ふたをあけないで、1週間ぐらいおいておくうちに、つめたくなって、カビがはえてくると思う」
 蒸して熱いうちははえないけれども、やがてさめてくれば、はえてくるのだという。陽くんがすぐに応援だ。
「真吾くんの言ったことでいいけど、1週間ぐらいおいておくのだから、さめてくるし、少しははえると思う」
 この二人の意見に対し、径くんが反論した。
「もしね、先生がパンを袋からだしたときに、胞子がついたとしても、蒸してその胞子を殺してしまうから、はえてこないよ」
 小さい体からいっぱいに声を出し、自分の考えを言った。径くんは、「胞子がなければカビははえてこない」という仮説をしっかりともっているのだ。それをもとに予想をたてた。それに対し、真吾くんや陽くんは、「パンを長いあいだおいておけば、カビははえてくる」という仮説をもって予想をたてている。
 こんどは亜美さんが言った。
「まえ、先生が、胞子は空気中にいっぱいちらばっているって言ったでしょう。だから、もしパンがさめたら、一度、熱したとしても、はえてくるでしょう」
 亜美さんは、予想は㋐なのだが、もとになっている考え方は、真吾くんや陽くんとはちがう。胞子がなければカビははえないという仮説をもっていて、その胞子がパンにくっついてはえてくるというのだ。仮説は径くんとおなじだといっていい。
 最初の発言者の彩子さんが、また発言。
「ふたをあけないで、すぐ引き出しのなかに入れてしまうのだから、はえてこない」
 この発言は、亜美さんへの反論にちがいない。いくら胞子があっても、ふたをあけなければ胞子ははいらないというのである。ここで透くんが予想をかえた。
「径くんが言うように、カビをころして胞子がはいらないようにしたのだから、カビははえてこないと思う」
 径くんたちの仮説のほうが正しいと認めたわけである。

胞子がなければ、カビははえない?!

 ここで、薫さんが登場した。
「㋑の人に言うけど、ふつうのパンにはカビがはえてくるでしょう。だから、こんどのパンにもカビがはえてくる」
 薫さんは、パンは古くなれば、カビがしぜんにはえてくるという仮説をしっかりもっているにちがいない。径くんが、薫さんの意見にさっそく反論した。
「薫さんにいう。パンの袋をあけたとき、パンに胞子がつくでしょう。胞子をつけたままシャーレに入れたけど、熱するから死んでしまうでしょう。パン工場にだって、カビはあるでしょう。ビニールにだってついているかもしれないでしょう。でも、蒸したらカビは死んでしまう」
 径くんは、「胞子がなければカビがはえてこない」という仮説のもとに、いろいろな場合を想定しながら補強していった。彩子さんが応援だ。
「雑草だったら、たねがなくてもはえてくるかもしれないけど、カビは、胞子がなくてははえてこないと思う。パンについている胞子は死んでしまうのだから、カビははえてこない」
 おやおや、彩子さんは雑草のほうが自然発生すると思っているようだ。しかし、カビは胞子がなければはえてこないというのだから、おもしろい。
 薫さんはゆずらない。
「雑草なんかは、たねがなくてもはえてくるでしょう。花壇の花なんかは、たねや球根がなければはえてこないけどね。カビはパンが古くなれば、はえてくると思う。あたたかくて、水気がありさえすればはえてくる」
 径くんの意見と薫さんの意見はまったく対照的だ。二人のもっている仮説が根本的にちがっているからだ。このように仮説がはっきりくいちがっていると、聞いている者にも考えのちがいがよくわかる。発言者は少なかったが、討論は盛りあがった。結局、径くんや彩子さんの意見のほうに9人もの子どもたちが予想をかえた。
 でも、薫さんは、やはり自分の考えが正しいと思ったので、授業が終わってから、私のところにきてうったえたのだろう。
 このクラスでは、胞子がシャーレのなかにはいるかどうかについての議論がなかったので、もうひとつ焦点が定まらない感じはあった。ほかのクラスでは、シャーレのふたのすきまから胞子がはいるかどうかで議論になることが多いからだ。
 シャーレのなかのパンには、1週間たってもカビははえなかった。蒸気をあてなかったパンのほうは、もういっぱいにカビがはえていたのに。そのちがいははっきりしていた。蒸気をあてたほうは、シャーレのふたをあけると、パンのいいにおいがした。
「先生、それ、食べてもだいじょうぶ?」
「そりゃ、だいじょうぶだよ」
 私はそう言いながら、シャーレのなかのパンをちぎって口に入れた。ちょっとパサパサしていたが、ふつうのパンの味がした。残りのパンは、子どもたちがあらそって食べてしまった。

「生物が自然発生しない」ことを教える重要性

 授業の討論のなかで、「胞子がなければカビははえない」と考える子どもと、「パンが古くなれば、カビはしぜんにはえてくる」と考えている子どもがいるのがわかった。カビは胞子をつくって、それが芽を出してふえていくのだと学習をしてきたにもかかわらずである。顕微鏡のレンズをとおして、たしかに胞子が芽を出し、菌糸を伸ばしていく姿を、感動しながら見た子どもたちである。カビはどういう一生をすごすのかも勉強している。実際に観察したからといって、個別の知識を得たからといって、「カビは胞子がなければはえてくることはないのだ」という考え方ができるようになるとは言えないのだ。
 科学の歴史をみると、「生物の自然発生説」が否定されるまでにはたいへん長い年月が必要であったことがわかる。自然発生説はギリシアに発し、2000年もの年月、生きつづけた。
 子どもたちと授業をやってみて、なぜそうであったかがよくわかる。2000年の歴史のなかで現われた科学者たちも、みんなよい観察者であったけれども、個々の事実の観察や知識を得ただけでは、広く自然を統一的にみることができる「観」とただちにはつながらなかったのである。
「すべての生物は自然発生しない」という生物界の大法則は、そういう自然観の形成といっしょにわかり、身についていくものにちがいない。
 大田堯さんは、「日本ではいまだかつて、ほんものの知育はやられたことがない」と言われたが、私も、ほんとうにそうだなと思う。「カビは胞子でふえる」ということは教わり、おぼえるが、それが「胞子がなければカビははえない」という認識になり、さらに「すべての生物は自然発生しない」という自然観にまで広がっていくような教育が、ほんとうの知育なのではないかと思う。そのような教育が広く日本の学校でなされたことは、いまだかつてないのだ。
 ところで、「すべての生物は自然発生しない」ということを教える価値があるかどうかという問題もある。そんな自然観は、人間にとってどうでもよいようなものなのかどうか、ということだ。
 私がこういうのは、もちろん、そのような自然観が基本的に重要だと思うからである。その重要さは、大きくふたつの点にまとめられる。
 ひとつは、生物が、ひとりでにそのへんのものから生まれてくるものではなく、かならず親があって生まれるものだという自然の法則は、生物の進化を考えるうえでの基礎になるものだからである。
 もうひとつは、もっと実用的な側面でのことだ。生物が自然発生しないことがわかることによって、人類は大きな利益を得ることができた。それは、伝染病からの解放である。私たちはペストやコレラの恐怖から解放された。細菌によってひきおこされる病気のほとんどは、殺菌とかワクチンとかいうような、細菌を殺してしまったり、無力化してしまったりする方法によって予防できるようになった。
 また、食物の保存とか加工にもおおいに役立った。食物が腐敗してしまうのは、細菌の働きによることがわかり、殺菌して保存する工夫がなされた。いっぽうでは、細菌を積極的に育てることによって食物を加工したり、汚水の処理をしたりすることもできるようになった。
 このようなことを考えると、「すべての生物は自然発生しない」ことを教える重要性は、あらためて言う必要もないことである。
 このような授業書を作ろうという意図は、仮説実験授業の研究がはじまったときからあった。それだけ重要な内容だということでもある。その授業書の名は、とりあえず「まかぬたねははえぬ」と呼んでいた。
 私はこの名が気に入ったし、こういう大きな法則を教えるような授業書づくりもやってみたかった。1965年に「カビ」についての授業書をもとにした「まかぬたねははえぬ」の構想を発表した。その後、1968年・1969年に小学校4年生で「カビ」の授業をし、その授業書と授業記録を発表した。(『科学教育研究』1号・1970年・国土社)
 この「カビ」の授業書を使って、すぐに何人かの人が授業を実施し、子どもたちもこの授業をたいへん歓迎してくれることがわかった。
 しかし、その後、私がべつの分野の授業書づくりのほうに力を入れてしまったことなどもあって、「まかぬたねははえぬ」の授業書は、「カビ」の部分以外はまだできあがっていない。その間、ずいぶん多くの人から、「あの授業書、どうなってるの。はやく完成させて」と言われながら、いまにいたってしまった。そろそろ本気になろうと思い、この文を書いているところである。

(〈後編〉へつづく)

出典:『ひと』1986年5月号、太郎次郎社

平林 浩(ひらばやし・ひろし)
1934年、長野県生まれ。1988年まで東京都で小学校教諭。退職後は「出前教師」として、科学を楽しむ教室を各地で開く。仮説実験授業研究会、障害者の教育権を実現する会会員。著書に『仮説実験授業と障害児統合教育』(現代ジャーナリズム出版会)、『平林さん、自然を観る』『作って遊んで大発見! 不思議おもちゃ工作』『キミにも作れる! 伝承おもちゃ&おしゃれ手工芸』『しのぶちゃん日記』(以上、太郎次郎社エディタス)など。津田道夫との共著に『イメージと科学教育』(績文堂)がある。