本だけ売ってメシが食えるか|第15回|だれが店主でもいい店|小国貴司

本だけ売ってメシが食えるか 小国貴司 新刊書店員から独立して古書店「BOOKS青いカバ」を開店して5年。「本」という商品を売る仕事の持続可能性を考える。

新刊書店員から独立して古書店「BOOKS青いカバ」を開店して6年。「本」という商品を売る仕事の持続可能性を考える。

第15回
だれが店主でもいい店

いい本だけでは売上はつくれない

 

 ぼくが新刊の本屋で働きはじめたのは2003年のことだけれど、古本屋でバイトを始めたのは2000年のことだ。

 当時大学生だったぼくは、授業で千石英世先生の基礎ゼミみたいなものを取り、そのときに小島信夫を読まされた。「読まされた」という表現は、あまり勉強熱心ではなかった学生にとっての感想だが、人生はこのように、最初はイヤイヤやったことによっても大きくかたちを変えるものだから、強制もときには役に立つ。当時、小島信夫の作品を手に入れるために、古本屋を見つけると入っていたのが、古本屋人生の原点ともいえる。

 ほかにも週1回、いろんな作家の短編小説を「読まされた」のだけれど、小島信夫の『微笑』『小銃』に衝撃を受けて、小島信夫を読んだ記憶しか残っていない。テキストになった文芸文庫を、池袋のジュンク堂に買いにいった覚えがある。「文芸文庫? うわ! なんじゃこりゃ! 文庫なのに1000円超えてるじゃん!」という、いまでは牧歌的な感想をつぶやきつつも、お昼ごはんを何日か抜いて買った記憶がある。

 当時はデフレのまっただなか。ハンバーガーが65円とか、そんな時代だ。お昼は松屋によく行っていた。野間さんというおじさんが働いていた松屋を「のまつや」と呼んで通っていた。300円で牛丼が食べられた。

 池袋の本屋についていえば、西口には芳林堂があった。東武百貨店には旭屋が、西武にはもちろんリブロがあった。そしてジュンク堂があり、新栄堂があり、パルコにはパルコブックセンターがあった。学生たちは、本気で本を探すときにはまっすぐジュンク堂に行っていたと思う。リブロに寄ってからジュンク堂に行くというような、まどろっこしい過程はたどらなかった。

 本の街だった池袋。そこでは、のちにたくさんお世話になる、または顔見知りになる書店員が働いていた。ここに書いた以外でも、文庫の大地屋書店、古本屋は夏目書房、八勝堂、光芳書店、まだまだたくさんあったはず。いまも変わらず存在する書店もあるが、そのほとんどがなくなった。池袋にかぎらず、この20年で本屋は「過去の景色」となった業態であると実感する。

 1990年代後半から2000年代初頭は、言ってみれば、大衆にとって本のパワーがまだまだ存在していた最後の時代であるのかもしれない。そういえば、『ハリーポッター』が最後にして最大のメガヒット商品だったのもこの時期である。それ以降、本は急速に「おたく」化していき、いまや大多数の人にとって、本という存在は「ときどき読むもの」あるいは「だれかが読んでいるもの」になっているはず。なんてったって、人ひとりが人生で買う本の金額が100万円程度なのだから。

 スマホと同じような意味で、娯楽のための本。べつに意識的にではなく、ただただ時間を潰すためだけに読む本。読んでいても偉くないし、賢くないし、ただ読むためだけに存在する読書時間。そんなものは絶滅危惧種となっている。

 本当にこのまま絶滅していいのだろうか?

 そんな問いかけが昨今の「町の本屋をつぶすな」という活動だとするならば、本屋をほそぼそと商っている身として、その声は心強い。でも、その道は簡単ではないと思う。

 いまや絶滅危惧種になった人びとの時間を支えていた雑誌、コミック、文庫(これはほとんどの本屋の売上上位3ジャンルだ)が減りつづける未来に、本屋があらためて考えなくてはならないことはなんなのか。いまよりももう少しだけでいいから、本を振り向いてもらうためにしなくてはならないことはなんなのか。

 それを考えたときに、かつて教えられ、自分もスタッフに伝えていた、本屋の棚づくりを思い出す。

「いい本だけでは売上はつくれない」ということだ。

 たとえば「おべんとうレシピ」の本がいくつかあったとしよう。Aは売上もよくて、ビジュアルも内容も申し分ない。1冊勧めるならこの本だし、これで十分。じゃあ、棚にはこの本だけを入れておけばいいのだろうか?

 残念ながら、それでは売上がつくれないのだ。

 ほかにB、C、Dの類書を入れておかなくてはいけない。そのなかでそっと、「この本がおすすめですよ」とわかるようになっている棚が、本当に買いやすい棚なのだ。

 なぜか? それは少数派でもB、C、Dのほうがよいと思う人がいるからだ。本を選んで自分で決めたいというお客さんがいるからだ。お客さんの最終決定権を排除してできた棚と、そうじゃない棚では売上が変わる。でも不思議なことに、類書がたくさんありすぎても売上は上がらない。最適な本の種類と店のサイズが必要なのだ。

 本屋もきっと同じで、選書の行き届いたAという本屋が存続するためには、選書をしていない(ように見える)B、C、Dという無数の本屋が必要なはずだ。B、C、Dが生き残るためには、もっとたくさんのお客さんが、いまより月1冊でいいから本を買う、本を読む習慣を復活させなくてはならない。

 なりふりをかまってはいられない。使えるものはなにを使ってでも、B、C、Dを残せなければ、新刊書店の未来は危ういと思う。

ちょっとだけ気の利いたBOOKOFFを

 新刊書店の大きな利点は、「注文すれば本が入荷する」ということだ。

「いや、注文しても入ってこないんですけど!」というのはごく一部の商品であって、ほとんどの本は、注文すれば(いずれ)入ってくる。発売されるまえから大ベストセラーというのは、ほんのひと握りの本であって、ほとんどの商品は初版が1万部に満たない(これでもかなり大きい数字)スロースタートの本ばかりだ。それがじょじょに売れていき、重版をくり返し、書店の裾野に行きわたっていく。

 もし、全国売上上位50点の本が1冊も並んでいない本屋があったら、それはもう立派なセレクト書店で、普通の本屋とは呼べない。逆に言うと、売上上位50アイテムすべてをつねにそろえられないまでも、その8割をそろえていれば書店として生けていけたのがこれまでの本屋で、おそらくここから先の本屋では「なにをそろえるか」に力点がおかれるのだろう。

 ただし、年間1回転もしない本を1冊売っても、ベストセラーを1冊売っても、書店がもうかる額は同じ、というのが、これからはより問題となると思う。いずれにせよ、「注文できる」「ほとんどの本が1年を通じてそろえられる」というのは、ほかの業種ではちょっと考えられないくらい便利な制度だと思う。

 いっぽう、古本屋はそうはいかない。ほしいと思う本があっても、まず偶然に頼るしかない。ほかの本屋から買うという選択肢もあるけれど、それでさえ、ほかの本屋が持っているという偶然に頼らねばならない。そうして、そのような本は基本的に1冊売れば、いつ再入荷するかわからない。いや、むしろ再入荷するとわかっている本なんて意味がなくて、再入荷がいつかわからないからこそ、古本屋は高値をつけることができる。つまり利幅をコントロールできる。(いちおう言っておくけれど、高値をつける本の仕入れ値は、やはり高いのが通常だ。)

 そうすると、どんどん「まだ見ぬ1冊」、つまり「だれもが売り物になると思わない1冊」に先鋭化していくわけだが、そうじゃない場合もある。

 それが、私のやりたい店の姿だ。ネット販売や目録は除外しても、店で売るものは、できるだけ定価以下で、雑多で、本読みの通でなくても買える本を並べておきたい。それはどちらかといえばマスへの勝負である。20年前、30年前の本屋の姿をあきらめきれなかった本屋の人たちがやりたいであろう本屋をやってみたいと思うのだ。自分が必要と思う本だけ並んでいればよいというのでは物足りず、できるだけフラットに本を売りたい。

 むかし、「古書現世」の向井さんのこんな話が印象に残っている。BOOKOFFが出始めのとき、「あんなの続かないよ」とほかの古書店が言うなかで、向井さんは、当時は見向きもされていなかった白い本(新しい本をさす古書業界の隠語)の需要は感じていて、「あながちダメとは言えない」と思っていたという話だ。これを聞いて僕はなるほどと思った。

 結局、ぼくがやりたいのはBOOKOFFの棚なのだ。ちょっとだけ気の利いたBOOKOFFの棚が理想なのだ。

 この「ちょっとだけ気の利いた」部分が大事で、やりたいのはけっしてBOOKOFFではない。ときどきある、あのとがったBOOKOFFでもない。なんだろう。そこは自分でもまだよくわからないが、ぼくはこの「ちょっとだけ気の利いた」部分がなんなのかを探して、試行錯誤しながら店を開けている気がする。

 そこでは店主がぼくである必要もない。「店主いますか?」といわれるような本屋ではまだまだ道半ばで、正直、だれが店にいて、だれが売り子でもかまわない、もしくは、ぼくが売り子じゃないときにいるスタッフが、そのスタッフの力量でお客さんをつかんでいるほうがうれしい。そのお客さんにとっては、目の前にいるスタッフが店主であるほうが100倍よくて、それが本当の意味で「お店」なのだと思う。

 だからたまに、「毎週来るお客さんで~」とスタッフが話すお客さんの特徴を聞いて、まったく自分がわからない人だと、なんだか新鮮な気分になるし、「自分がいなくても世界は回っている」という当たりまえのことがわかって、数パーセントの寂しさとともに、うれしい気分になる。この数パーセントの寂しさは、「だれが店にいてもいい」という思いとは矛盾するし、それは隠す必要もないと思うけれど、「それって矛盾ですよね!?」って言ってくる人とは、たぶん友だちになれないと思う。

 

小国貴司(おくに・たかし)
1980年生まれ。リブロ店長、本店アシスタント・マネージャーを経て、独立。2017年1月、駒込にて古書とセレクトされた新刊を取り扱う書店「BOOKS青いカバ」を開店。

BOOKS青いカバ