こんな授業があったんだ│第47回│小麦栽培からパンづくりまで〈前編〉│伊東巌

こんな授業があったんだ 授業って、教科書を学ぶためだけのもの? え、まさか。1980〜90年代の授業を中心に、発見に満ちた実践記録の数々を紹介します。

授業って、教科書を学ぶためだけのもの? え、まさか。1980〜90年代の授業を中心に、発見に満ちた実践記録の数々を紹介します。

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小麦栽培からパンづくりまで 〈前編〉
(小学1-2年生・1973年)
伊東巌

転任して1年生を受け持つ

 1973年(昭和48年)春、わたしは、山の小さな小学校から、駿河湾に面した全校児童数300人の大里東小学校に転任した。市教組の組合員のタライまわし人事の一環として、ここにくることになった。この学校の組合員はわたしともう一人の2名である。いままでは、たった一人であったから、二人になったとは力強い思いであった。
 校長は、わたしにぜひ1年を担任してほしいとくり返した。どこの学校でもそうであるように、たぶん1年の担任希望者が少ないからであろう。それにもう一つ、わたしが市教組副委員長であったので、その影響力を最少限に封じ込めようという策でもあったのだろう。一般に低学年担任は、学級に専念しなければならないので、学校運営全般にわたる仕事にかかわることが少ないからである。
 わたしは、校長に3つの条件をだした。1つ、出張授業がないこと。2つ、学級経営や授業の自由を保障すること。3つ、休暇を要求どおり与えること。以上の3つである。
 現在でも小学校教師は28時間ぐらいの授業時間数を担当させられている。そのために、低学年の先生は高学年へ出張授業を3時間ぐらい(クラブ活動を入れて)もっている学校が多い。しかし、わたしは放課後を、遅れている子の個別指導や教材研究の時間に確保しておきたかった。また、いままでの経験から、教科書どおり教えることがわからない子どもをつくるのではないかと心配していたので、新しい授業を試みようと決心して、2つめの条件をだしたのである。3つめは当然であるが、1年生を受け持っていると、教室をあけることが心配になるし、補欠の先生がなにを教えてよいかわからなくて、補欠授業につくのをいやがる傾向にあったので、組合の役員として行動する自由を確保しておきたかったのである。
 この3つの条件を、校長は「けっこうです。1年をお願いします」ということで承認した。
 1年生は2学級である。わたしと、もう一人は新卒2年目の女教師で、若くて、明るくて、はりきった先生であった。二人で話しあって、ひらがな指導から国語の学習をはじめることにした。
 わたしは、国語の教科書にとくに不信があった。学校にあがるまえに、名まえが読めて書けるくらいでいい、という学校側の話を真に受けて、準備なしで入学してきた子どもは、4月・5月になんとたくさんの文字を覚えなければならないことだろう。しかも、系統のないまったくでたらめな文字の提出の仕方では、子どもたちは、暗記するしか方法がなく、準備なしで入学してきた子どもは、たちまち落ちこぼされてしまう。ろくに文字の指導をしないでおいて、「おたくの子は文字が読めないし、書けない。なかよし学級に入れたらどうですか」といったという常識では考えられない教師がいることも知っている。これではたまらない。
 ある母親は、後日、参観会のとき、「私は上の子を学校にあげたとき、学校でいわれたとおり名まえが読み書きできるだけで入学させ、ほんとうにひどいめにあいました。親子でずいぶん泣きました。それで、下の子は入学まえにひらがなを習わせました」と感想をもらしてくれた。わたしは、1年生のまずはじめに思いきって、徹底したひらがな指導をしてよかったと思った。
 さて、ひらがなの学習やタイルの算数の学習を中心に1学期を過ごしてきたのだが、2学期になって、社会科の学習にも力を入れようと計画を練っていた。
 わたしは静岡の社会科サークルで20年以上も実践をしてきていたし、教育科学研究会・社会科部会の理論や実践から多くのことを学んだ。また、仲間の近藤貞巳さんの「一粒から千粒へ」とか、西沢紀生さんの「マンモス狩り」など、いくたのすぐれた実践に刺激され、そのうえにたって低学年の社会科の授業のスタイルを決定づけようとはりきっていた。

なにをどのように教えるか

 わたしは、かねがね、いまの子どもたちの生活やものの考え方に疑問を持っていた。
 静岡市の周辺の農村にある大里東小学校の子どもたちのまわりからも、やはり、農業の姿は確実に消えていった。団地が造成され、田んぼは埋められていった。
 米と麦の区別がつかない子どもが育っているという指摘がされてから久しい。市内の農村部の小学校での話である。2年生が麦を育てて刈りとり、土間のろうかに干しておいた。そこを4年生がとおった。
「先生、お米ができたね」といった。2年生の福田先生は、「これがお米かい。よくみろよ」といった。また、6年生が若い男の受け持ちの先生を先頭にとおりかかった。6年生もまた「先生、お米がとれたね」といった。福田先生は「おい、おい、よく見ろよ」といった。しばらくして、福田先生が職員室で仕事をしていると、6年の受け持ちの先生がそばにきて、「先生、さっきのは何ですか。お米じゃあないですか。わたしもよくわからないので、黙ってとおったのですが……」。米と麦の区別のつかない層が、すでに教師になっているのだ。
 人類の食生活の中心である米と麦の区別がつかない、ということは、麦が身近な畑から去って久しいことを物語っている。それと同時に、農業生産についての基本的知識も関心も希薄になった。毎日、食べている給食のパンをみても、農民の労働の姿は消えてしまっている。あたかも、パンがパン工場で空気と石油を合成して自動的に生産されているように受けとり、ものとしてのパンしか見えていないのではないだろうか。このような認識でよいのだろうかと思うのである。
 小学校の校舎から駿河湾がよく見える。海岸までは200メートルぐらいしかはなれていない。海岸にはテトラポッドの土手が築かれ、昔の広い砂浜はない。子どもたちは浜で遊ぶことを禁止されている。こんな海辺の学校でありながら、海は眺めるものであり、海が生産の場であることを知らない。漁船が十数隻も走りまわっていても、それは漁師が魚を追っているとは思っていない。この1年生も海についてはまったく関心がない。さしみが海を泳いでいると思っている子が4人もいたのは笑えない事実である。
 この子どもたちに、どんな社会科の授業を展開したらよいのだろうか。生産についての体験も知識もとぼしい子どもたちに、ことばで教えて、たとえ「わかった!」といったとしても、それは、絵にかいた餅を見て、餅がわかったというより、もっと表面的なわかり方であろう。やはり、ほんものの餅を食べなければ、ことばでいくら、「やわらかい」とか「焼いて熱いうちがおいしい」とかいったところで、しかたのないことであろう。食べてこそわかるのだ。五感をとおしてわからせなければ、生きてはたらく認識にはなりえないだろう。だから、「からだをとおして学ばせる」ことを第一にしたい。問いと答えとのあいだに、実験、体験、生産を入れてこそ、「そうだ。そのとおりだ」と確信をもった答えとなりうると思う。とくに低学年の子どもの認識は、そういうものではないだろうか。
 では、何をとりあげたらよいだろうか。2年の学習で、ぜひ、パンづくりをやらせたい。加工することによって、原料と製品とがまったく異なった姿になることを教えたい。だから、パンの原料である小麦をみずからの手で育て、その小麦を加工して、パンを焼き、労働の収穫を食べる。低学年の子どもたちにもこのことは可能であり、きっと喜ぶであろう。このように進めれば、ものには労働が加わっていることが体験としてわかるにちがいない。

小麦を栽培する

父母の応援で実現する

 小麦をつくろう、という決心とは反対に、わたしは不安であった。畑はどうしよう。校庭に申しわけ程度につくったところで、子どもが食べるわけにはいくまい。畑がほしい。小麦の種はどこから手に入れたらよいのだろう。この地方の小麦の生産は、かなりまえに絶えている。小麦のつくり方はどうしたらよいのだろう。ゼロからの出発なのだ。
 わたしは、活路を父母に求めた。大里東小学校区はもともと農村なのだから、きっと小麦のつくり方を知っている人がいるにちがいない。道具だってあるだろう。栽培した経験のある祖父母がいることだろう。
 わたしは参観会のとき、子どもに小麦をつくらせ、それを粉にして、パンを焼いて食べさせたい、ということを率直に訴えた。なぜ、そうすることが必要かということも話した。母親たちには、ほんとうに幼い子どもたちにできるかと危惧の念があったが、趣旨は理解してもらうことができた。できるだけ、協力しようと励ましてくれた。なかでも、わがクラスでたった一軒の専業農家である望月さんがもっとも乗り気であった。望月さんは、すぐ、学校のプールの横にある、いまは耕作されていない砂地の畑を実家から借りてくれた。また、小麦の種をどこからかとりよせて持ってきてくれた。そして、いつから耕作をはじめるか、積極的に応援すると約束してくれた。
 このように父母が協力してくれるのは、これまでの日常の活動があったからである。参観会のときにも率直に意見の交換をしたし、それにもまして、学級だよりの発行が父母を動かしたのだと思っている。そのころ、学級だよりを日刊のように発行する学級は、わがクラスだけであった。学級だよりをとおして、わたしの考えや子どものようす、学習のことなど、父母に伝えていた。民間教育運動の成果に学んで、わたしなりにすすめている学習方法、ひらがなの勉強、タイルをつかって筆算をはじめからやる算数、遊びをとり入れた体育や生活指導など、父母は学級だよりをとおして知っていたし、また、子どもの口から学習の楽しさを聞いていて、支持してくれていた。そんな日常活動が下地になって、この小麦づくりを応援してくれたのだと思う。

すすめ、1年生!

 また、用務員の山河さんもいろいろ教えてくれた。彼の家は農家で、農業のことは専門家である。教頭の栗山先生も、「おまえ、こんどはなにを始めるのだ」「あまりへんなことをするな」と口ではいうのだが、わたしの考え方に同調してくれ、なにかとアドバイスしてくれた。
 学校の農具といえば、鍬とスコップが何丁かあるだけで、1年生がなかば荒れている畑を耕せるかと疑問であったが、ここまでくれば、もうやるのみである。「すすめ、1年生」である。
 11月末の冷たい西風が吹く畑で作業開始。枯れ草をみんなでむしりとり、山のように積みあげ、火をつけて焼いた。望月さんや山河さんも手伝いにきてくれた。1年生の力で耕すことはなかなかむずかしく、作業ははかどらなかった。しかし、子どもたちは、汗を流して交代でやった。からだをつかうことはとても好きで、いっしょうけんめい働いた。望月さんは、どんどん鍬をふるって耕してくれた。わたしも働いた。ようやく畑らしくなった。
 溝を掘って、肥料と種をまいた。班ごとに小さな小麦の種を行儀よく並べていった。
 まいた種がいつ芽を出すのか知らないわたしは、毎日のように見にいった。水もやった。2学期の終業式が近づいたころ、ちょぼちょぼと芽がでてきたが、ほとんどの種はだめであった。わたしはあわてた。こまってしまった。
 もう一人、こまったのは校長であった。PTAの席で、今年の1年生は小麦を育てるという新しい勉強をはじめたと、校長が話し、その成果を注目してほしいといっておいたのに、小麦が全滅とは。

早く芽をだせ、小麦の種

 救いの神が現われた。それは養護教諭の栗田そえ先生であった。栗田先生が小麦の種をほかからもらってきてくれた。そのうえ、肥料も実家からもらってくれた。子どもたちには、小麦が生えてこないことはいわないで、新しくまいた。はやく芽をだせ、小麦の種であった。
 3学期になって、麦は芽をだした。子どもは大喜び。小麦を眺めて、どんな花が咲くか予想させた。スミレのような花、ヒマワリのような花、スズランのような花、空想は広がる。
 肥料のよくきいたところの麦は元気に育ち、その反対はやせていた。草取りをした。子どもたちは一本の麦もたいせつに思い、草かどうかいちいち聞きにきた。麦が目のまえにありながら、それでも、草と麦の区別がなかなかつかないのだ。比較するということは容易なことではないのだと思い、麦の葉や形の特徴を畑で教えた。
 春になって、子どもたちは2年生に進級した。麦はぐんぐん育ち、やがて、穂がでてきた。麦の穂のスケッチを何回もした。みごとなスケッチが何枚もできた。その絵を学級だより『むぎ』に写して、父母に知らせた。2年生になって、学級だよりの名まえを「むぎ」とつけた。麦のように、ふまれればふまれるほど、たくましく育つ元気な2年生になるように、という思いをこめて、「むぎ」と名づけたのだ。もちろん、麦とともに1年間、学ぶことを父母に知らせるためでもあった。
 麦の花が咲いた。ある子はつぎのように麦のことを日記に書いた。

   けがいっぱいでて、
   花がさいていて、
   白い花だ。
   小さいので、
   わたしはびっくり……。
   小さい花、
   はっぱがならんでいた。
   ささのはっぱみたい、
   毛がくすぐったい。

麦刈りと脱穀

 6月にはいって、梅雨のまえに麦刈りをした。かまで根刈りにし、子どもたちは学校に運んだ。脱穀しやすいように、穂をはさみで切り取った。はじめから穂刈りにすればよいものを、と思ったが、あとの祭りである。穂をきるとき、小麦のなかに大麦のあることを発見した。毛の長い、しっかりした麦が大麦である。麦にもいろいろ種類があるのだな、と子どもたちは思ったであろう。切り取った麦わらは、あとで、麦藁細工にしようと集めておいた。麦の実をとるだけでなく、藁もまた利用できるのだ。藁は、細工をしたり、いらない部分はさつまいもの日除けにしたりして、捨ててはいけないのだ。
 脱穀。母親が「鬼歯」でたたけばよいと教えてくれた。しかし、34人の子どもが脱穀するのだから、手だってできるだろう。荒むしろに干して乾燥した小麦は、たたけば、ぱらぱらと落ちた。むしろを取り囲むようにして、いっせいに脱穀にかかった。手でもむと、小麦色の粒がはじけるようにとれた。手に持ったカンのなかに小麦をすくって入れた。男の子はカンでたたいたり、足で踏んだりして大騒ぎをして、脱穀した。
「きょうは3じかんめから、むぎのだっこくをしました。やったじゅんじょは、さきにむぎのところを手でこすり、それから、むぎを少しずつとっていきました。くふうもしました。どんなくふうをしたかというと、小むぎを足でふんでからむぎをとりました。小むぎを手でこすると、パンやうどんができる小むぎがらくにとれました。だっこくしてごみをとるとき、あみみたいので、むぎをいれてからゆすると、からがとれるのでべんりです。これがだっこくのしかたです。小むぎのつぶは、ありのように小さくて、ありのせなかにのせられるぐらいの大きさです。色はちゃいろのと、うすみどりがはいったのとありました。かたちはレモンがたでした……」(山崎みほ)
と子どもは、そのときのことを作文に書いている。「あみみたいの」というのは、「ふるい」のことである。「ふるい」には、子どもたちが驚いた。というのは、カンのなかにとった小麦の粒といっしょにごみがたくさん混じっていて、とり除くのに苦労していたからである。はじめは指でつまんでいたが、面倒になって、カンをたたくとごみが浮いてくるので、そうして、口で、ぷっと吹きとばしていたが、この方法をつづけると頭が痛くなってしまうからだ。
 そのとき、手伝ってくれていた栗田先生が、近所の農家から「ふるい」を借りてきて、手ぎわよく、ごみを除去したからである。子どもたちは、栗田先生が魔術師のように見えたであろう。栗田先生がふるいはじめると、ごみは、ふるいの中央に集まってくるのだ。まるで生きているみたいに。なんど見てもあきない。やがて、ぼくにもやらせてといって、自分でやっても、ごみは集まってこない。かれらは、道具の偉力と技術について体験した。道具がこのときほど身近に感じられたことはなかったであろう。そして、それをあやつる人間と技術に敬服したことであろう。このような体験や驚きをだいじにしていきたい。

(後編へつづく)

出典:『われら生涯ヒラ教員』所収、1979年、太郎次郎社

伊東 巌(いとう・いわお)
1931年、生まれ。静岡県小学校教員。静岡市の教員の同人誌『野火』に所属。