雑踏に椅子を置いてみる|第4回|夫と散歩に行くときは鍵を持たない|姫乃たま

雑踏に椅子を置いてみる 姫乃たま 「居場所」は見つけるもの? つくるもの? だれもがもっていそうなのに探し求められつづける、現代における自分の「居場所」論。

「居場所」は見つけるもの? つくるもの? だれもがもっていそうなのに探し求められつづける、現代における自分の「居場所」論。

 

第4回
夫と散歩に行くときは鍵を持たない
姫乃たま


安心できるけど、くつろげない場所

 父親が家じゅうの扉を外しました。扇風機のカバーも外して捨てていたので、風をさえぎるものが好きじゃなかったのかもしれません。開け放したすべての窓には、どれにも網戸がついていませんでした。私が生まれたのは父方の祖父母が経営している酒屋だったのですが、いままでの人生でもっとも長い時間を過ごしたのは、両親と弟と4人で暮らしていた剥き出しの扇風機が回る風通しのよすぎる家でした。

 私の家族はその家の中のように、さらさらとした人たちです。そしてそのなかで私だけが湿っぽい人間で、幼いころからずっとそのことが不思議でした。どうして私だけが、理由もわからず喉がつまるように苦しくなったり、爆発するように泣きだしたりしてしまうのでしょう。

 正確には覚えていないのですが、たぶん小学校低学年くらいのころ、学校から帰ってくると玄関の前でおしっこを漏らしてしまう癖がありました。学校にいるあいだ、明確に嫌なことがあるわけではないのですが、いつも無意識に緊張していて、それが家の前まで帰ってこられると気持ちがゆるんで漏らしてしまうのでした。家族には言えませんでした。恥ずかしいというより、何かこれは精神的なことが原因でなっているのでは(という言葉で当時は考えられませんでしたが)と思うと、そういう込み入った話はなんだかできませんでした。学校で誰かの声が大きくて怖かったとか、算数の宿題がわけわからなくて泣きそうとか、そういうことは気軽に話せるのですが、なんかその話は自分の持っている湿っぽい雰囲気を家族に持ち込んでしまうように感じていたのです。

 おしっこを漏らすほど安心できる我が家で、私が心からくつろいでいたかというとそういうわけでもなく、なんといっても家の中の見通しがよすぎて、一番端っこの部屋にいても、リビングを挟んでさらに遠く離れた部屋の中まで見えてしまうわけで、それは思春期を控えた私には完璧に落ち着ける環境ではありませんでした。私は家の中でひとりになりたかったし、同時にひとりにはなりたくありませんでした。

 一番好きなのは、冬のあいだだけ扉がついている自分の部屋で、ひとり本を読んでいる時間です。自分以外の家族がリビングで団欒している声を聞いていると、とても心が落ち着きました。部屋で黙って本を読んでいてもとくに干渉されず、それでも家にいるのを許されているとき(許されていないときがあるわけではないのですが……)、ここが私の居場所であると感じられました。

 思えば読書中にかぎらず、両親が過剰に干渉してくることはあまりありませんでした。まず子どものころから「勉強しろ」と言われたことがなくて、「結婚しろ」とも「子どもを産め」とも言われたことがありません。将来の夢や就きたい職業を聞かれた記憶もありません。そうした進路にまつわることを何ひとつ聞かれた覚えがないのです。子どもの自主性を重んじていたのかもしれません。もしくは、社会の同調圧力が嫌いだったのかも。正解はわかりませんが、それを象徴するような出来事があって、私と弟が幼稚園でつくった作品を「自主的につくったものじゃないから(幼稚園で先生につくらされただけだから)」という理由で、すべてあっさり捨てていました。

 それは本当にそのとおりで、私も弟もそれらに思い入れがあったわけではないのですが、両親のほうはそういった作品を部屋に飾ったりして、二度と戻らない私たちの幼少期に思いを馳せたりするものなんじゃないかと思っていたので、こちらが驚かされました。どこで身につけたのか、私のほうが家族というものにステレオタイプな感覚をもっていたのだと思います。

 

家族と過ごす二度とない時間

 高校生になった私が地下アイドルの道を選んだのが、自主的だったのか偶然だったのか判然としないのですが、ひとつはっきりしているのは、舞台に立って両親にめられたかったということです。子どものころに私はダンスを習っていて、発表会の舞台に立つと母親が楽しそうにしていた記憶がありました。また、父親のほうはかつてビジュアル系のはしり的なバンド(という表現で合っているのかわかりませんが)でベーシストをしていました。私が駆け出しの地下アイドルだったころはビジュアル系バンドとの親和性が高く、過去に父親が出演していたライブハウスに立たせてもらうことがよくありました。

 ただ、私が地下アイドルを始めた2009年当時は、地下アイドルカルチャー自体が世間に浸透していなかったので、両親が手放しで喜ぶことはありませんでした。どちらかというと「なんなの、それは」という感じで、明らかに母親はアイドル的な表現に興味がなかったし、父親からしてみれば、自分も知っている同じような世界を私がなぞっているだけに感じられていたのではないかと、私は推測していました。

 高校生のころはゆるめの門限があったのですが、大学に進学するといよいよ私は、ライブや編集部でのカンヅメや人づきあいなどで、家に帰ったり帰らなかったり、家に帰っても寝るだけのような生活に、あっという間になっていきました。家族が好きだから実家に住んでいるのに、両親に仕事を認めてほしいから忙しくして家に帰らないという、よくわからない状態になっていったのです。家族仲が悪かったわけではなく、朝帰りしたときに、ちょうど仕事に行く父親とすれ違って、おたがいに照れ笑いをするような場面もよくありました。もう大学生なのに、母親は気が向くとときどきお弁当をつくって、リビングのテーブルに置き手紙をしてくれていました。

 あまり私が家にいなかった理由のひとつに、いつまでもここにいてはいけないという思い込みもありました。実家は私にとって「いつか出ていかなければいけない場所」で、だから実家はいつも、楽しくも切なかったです。

 いまでも思い出すと切ない光景があります。その日の夕方、私は珍しく自分の部屋でベッドに寝転がっていて、母親はキッチンにいて、父親はリビングで仕事のスケジュール帳に何か書き込んでいて、さらに奥の部屋では弟がギターを演奏していました。すべての窓が開いていて、弟のいる部屋からギターの音色が風に乗って流れてきました。そのとき、この光景はもうそんなに何回も見られるものじゃないと不意に実感したのです。実際に、こういう日常の光景はそれから何度かくり返されたあと、弟が就職で家を出ていってギターの音は聴こえなくなり、その数年後にわけあってその家に住むことができなくなり、私はひとり暮らし、両親はふたり暮らしと、ばらばらになりました。そしていまのところ、あの光景が見られる日は二度と訪れそうにありません。

 家族で過ごしたあの時間は、たしかに私の居場所であり、同時に出なければならないと思い込んでいた限定的な居場所でもありました。私はただ両親から「生まれてきてくれてありがとう」と言われたかった。そのことを最近それとなく母親に話したら、底抜けにさらさらしている彼女は「いちいち言ってたらうざくない?」と笑いました。

 私はすでに実家を出て結婚していて、あの家にはもう別の家族が住んでいて、そんなにも時が経って愚かにもようやく私は、自分が生まれてきてよかったのだと知りました。私の仕事や肩書きなんかに関係なく、おそらく両親はずっとそう思っていた。そして本当は、何も気にせずあの場所にずっと思う存分、居たってよかったのです。

 

これからの生涯の居場所

 私は実家という「限定的な居場所」を出て、今度は私が両親と同じように家庭という居場所を築かなければと思っていました。そのためにはまず結婚だと思っていて、しかしずっとそれが叶いそうになく、母親が結婚した年齢を追いこし、父親が結婚した年齢も追いこして、私には無理なのかしらと諦めていたころ、不意にいまの夫との交際が始まりました。

 そしてちょうど結婚する少しまえに、大変な話を聞きました。恋人が急逝してしまった人の体験談で、結婚していない(法律上の家族じゃない)という理由で病院では手術に立ち会えず、恋人の死後も警察から家への立ち入りを許可されなくて、恋人の家で飼っていた猫ともしばらく離ればなれになってしまったというのです。

 私が結婚したのは、両親と同じように自分も夫と婚姻関係を結びたかったからです。理由はそれだけだったので、その話を聞くまで、婚姻制度がそこまで多くのことを保証してくれるものだと考えていませんでした。そんなにいろんなことを保証する大事な制度なら、もっとあらゆる人に開かれていてほしいです。私は自分が両親と同じようになりたいという思いで、旧態依然とした制度を使ってしまったことに未だ葛藤があります。この平和な幸せが葛藤の上に成り立っているのは心苦しいことです。

 そして、そのこととは別に、私には結婚生活もまた切ないものです。日々を積み重ねるほど、愛が積み重なるほど、やがて必ずやってくる死別がつらいのです。

 そういう人生の不安や悲しみを常に先取りしては絶望している私を「もったいない」と笑って一蹴してくれるのが夫でした。私はいまの生活に、毎日静かに感動しつづけています。

 たとえば夫と一緒に散歩へ出るとき、私は鍵を持ちません。それは必ず一緒に家に帰ってこられると確信しているからです。当然のことに思われるかもしれませんが、これが私にとってはすごく重大なことなのです。道すがら言い合いになって家を追い出されてしまうかもしれない、突然夫の気が変わってどこかへ行ってしまうかもしれない、なんらかのアクシデントがふたりを離ればなれにしてしまうかもしれない、夫と散歩に出るときの私はそういったことを考えません。翻って、私はいつもそういうような不安を抱えて他者と過ごしてきました。

 私は愛されていて、この家に居たり、帰ってきていいのだと確信できる。それが夫との暮らしです。

 そもそも私はある日突然、夫の住んでいる家に転がり込んで、それから今日までずっと住んでいます。

 いまふたりで暮らしている家には、じつは住みはじめるまえに二度、友人に誘われて遊びにきたことがありました。そのときは夫と交際していなかったどころか、そんなに親しくもなかったので、「他人の家にいる!」という緊張感から、お開きになった瞬間そそくさと帰った記憶があります。でも人生にはタイミングがあるようで、転がり込んだ日は「そうだ、あの家でこの人と暮らそう」と思い立って、なんの約束もなく家にお邪魔しました。

 そんなことをするなんて頭が変になってしまったのかと思いますが、それから数年経っても「あの衝動はなんだったんだ」となることはありません(いまのところ)。

 午前中、夫と長めの散歩に出ます。お日さまがのぼっているあいだ、私たちは同じ仕事部屋にいて、夫は絵を描き、私は文章を書きます。夕飯を一緒につくったり、どこかへ食べに出かけたり。夜、夫が眠るとき、私は先に眠られるのが怖くて(夫が死んだあとの生活を想像してしまうから)、眠たくなくてもとりあえずベッドに入って目を閉じます。常に夫のどんな表情も輝いて見え、喋ることがいちいち芸人より面白く、哲学者より深く、科学者より正しいことを言っているように聞こえます。それがずっと続いているのです。やはり頭がおかしくなったままなのでしょう。でも私のこれからの生涯の居場所はそのようにして成り立っているのです。

 

姫乃たま(ひめの・たま)
1993年、東京都生まれ。10年間の地下アイドル活動を経て、2019年にメジャーデビュー。2015年、現役地下アイドルとして地下アイドルの生態をまとめた『潜行~地下アイドルの人に言えない生活』(サイゾー社)を出版。以降、ライブイベントへの出演を中心に文筆業を営んでいる。
著書に『永遠なるものたち』(晶文社)、『職業としての地下アイドル』(朝日新聞出版)、『周縁漫画界 漫画の世界で生きる14人のインタビュー集』(KADOKAWA)などがある。