アイドルとのつきあいかた│第1回│アイドルとオタクの奇妙な関係│ロマン優光
第1回
アイドルとオタクの奇妙な関係
一言でオタクといっても、いろんなオタクが存在する。アニメオタク。鉄道オタク。プロレスオタク。あらゆる対象に対してオタクといわれるコアなファン層がついているわけだが、ここで筆者が言及していこうと思っているのがアイドルオタクについてである。さらにいうなら、女性アイドルのオタクであり、所謂「地下アイドル」のオタクについてである。
変化し続けている
アイドルシーン
筆者はミュージシャンとして「ロマンポルシェ。」や「プンクボイ」というユニットで活動する傍ら、文筆業者としてコラムなどを書いている人間である。1972年生まれである私が最初に「アイドル歌手」として意識したのは松田聖子や中森明菜だったわけだが、それは子どもがテレビのなかの人気者を好きになっただけのことだ。それが明確にアイドルという存在について執着しだしたのは、おニャン子クラブの登場以降になる。
思春期にパンクロックやニューウェーブ、ノイズのようなマニアックな音楽を、洋楽を中心に聴くようになるわけだが、そのいっぽうで女性アイドルファンであることも卒業することなく現在にいたる。そのなかでのポジションの変化というものは、当然のことながら生じてくる。それは、自分自身の変化というものも関係しているわけだが、「アイドル」というものをとり巻く状況の変化、「アイドル」というものじたいのあり方の変化というものが密接にかかわっている。
テレビ芸能人の一形態であったアイドル歌手が、オールナイターズ~おニャン子クラブによってアマチュアリズムが導入されたことによる変化。アマチュアリズムの権化であるバンドブームの勃興により、主流であったはずアイドルという存在が不人気なものになり、テレビという最大のメディアに登場することが少なくなってしまった時代。モーニング娘。の人気によりテレビにアイドルが復活した時代。AKB48~ももいろクローバーZがブレイクしていく芸能界的な流れのいっぽうで、テレビに出ずライブを中心に活動する地下アイドルのシーンが拡大していく時代。BiSの成功以降に地下アイドルの世界に芸能畑ではない人びとが音楽的な多様性をもって参入してきた時代。事務所が運営するのではなく、アイドル本人がDIYで活動するようなグループが誕生してきた時代──。
地方出身者である自分にとっては、アイドルとはテレビに出てくるスターでしかなく、基本的にはメディアを通して楽しむものであった。大学進学で上京しても、アイドルが非日常なものというのは変わらず、ごくたまにイベントなどを見に行くことはあっても、基本的にはテレビと雑誌と音源で楽しむものであり、いわゆる在宅ファンとして過ごしてきた。
転機となったのは、ももいろクローバー(Zがつく以前の)が2010年当時乱発していたCD販促のためのインストアイベントに毎週のように赴くようになったことだろう。その小さなスペースで体感するライブに魅せられた(もともと小さなライブハウスでおこなわれるようなアンダーグランドなバンドのライブに好んで行っていた自分の嗜好と親和性が高かったのだろう)自分は、小規模な空間でライブ活動をしているアイドルに嗜好が向くようになり、ライブハウスで活動するような地下アイドルのシーンを見に行くようになった。それ以降、10年近く地下アイドルの現場オタクというものをやっている。
メディアのつくる
「画」のためのオタク像
そういった生活をおくるなかで在宅オタクでは知ることのできない現場オタクのあり方やオタク同士の関係性、現場でのアイドルとオタクの関係性といったものを体感していった。そこで実地に感じていったのは、オタクはべつに同じタイプの人間が同じ考えのもとにアイドルオタクをやっているわけではないということ。つまり、アイドルとオタクの関係というのも多種多様であるということである。
アキバファッションに身を包み、様ざまな色で光るペンライトを振りまわしながらオタ芸を打つ。自分の推しているアイドルを応援するために同じCDを何百枚と買う。性的な欲望から若い女の子を消費しようとしている中年男性。握手会は女の子に触りたくて行っている──。アイドルオタクではない人が抱いているアイドルオタクのイメージというのは、おそらくこういうものが多いだろう。ただ、それがすべて間違いとはいわないが、全てがそういうものかというと違うといわざるを得ない。
テレビのようなメディアがとり上げるアイドルオタク像に片寄りがあるという問題がある。ドラマやバラエティ番組などでは、いまだに90年代のオタク、しかもアニメや漫画を好む二次元のオタクの当時の服装でアイドルオタクを登場させがちなのだが、さすがにおかしなことだろう。10~20代の若い男性オタクのなかで流行っているファッションというものはあり、世間のファッショナブルな若者の流行りとはちょっと違うというような例はたしかにあるが、テレビがとり上げるようなアイドルオタクの服装とは全然違うものだろう。
ペンライトを使うオタ芸にしてもそうだ。そういうオタクもいるにはいるが、現在のアイドルオタクのなかで主流かといえばべつにそうでもない。ペンライト、オタ芸文化というのは声優オタクの文化のほうに色濃く残っているような印象もある。こういった問題は、テレビというものがわかりやすい「画」を必要としているために、そういう世間的には珍奇に見える光景を選んでしまうから生まれる弊害であろう。
アイドルを
「応援」するとは?
こういった外見に属するようなイメージだけではなく、行動原理などについても、それが善意であれ悪意であれ、画一的なイメージでとらえられがちだ。
筆者がアイドルオタク以外の人と話していて落ち着かない気分にさせられるのが「最近応援しているアイドルはどこなんですか?」といった類いのことばである。私はエンターテイメントを見に行き、その演者に対して惚れこみ、ある種の執着をしているだけで、べつに応援をしに行っているわけではないからだ。たしかにアイドルがライブやCD発売の告知をTwitterですればRTもするし、その成功を祈りもするが、べつにそれをアイドルに「やってあげる」ことをオタク活動のメインにしているわけではない。
いっぽうで、アイドルを応援するということをテーマにしているように見えるし、そう発言をするオタクも数多く存在する。ただ、その「応援」というのは、じつのところなんなのだろう?
「彼女たちの夢を叶えるために応援をする」そういうふうに口にするオタクも多い。彼らの多くは「弱小グループが数々の苦難をのり越えて成功し、国民的なスターになる」というわかりやすい大きな物語を好んでいる。商業的な成功というわかりやすいゴールを目指してアイドルもファンも一体となって突き進む心地よい物語だ。売れることが善であり、売れないことは悪である。あくまで芸能界的な古くさい物語だ。その夢が叶えられる可能性があるのは、あるていど以上大きな芸能事務所に所属しているようなグループでしかない。そういう「地上」と呼ばれるような大手に所属するようなグループを推しているオタクは素直に「応援」しやすいだろう。
48グループが開催していた選抜総選挙というのも、自分の推している女の子に票を入れてあげることで上位メンバーに押し上げたりすることができるという即物的な制度であり、「応援」としてはわかりやすい。ただ、純粋な気持ちで応援のためにやっている人だけではない。自分の推している女の子が上位にいくことで勝利の感覚を得たいという、女の子よりも自分の快楽を優先したゲーム感覚の人もいる。また、ほかのオタクに対する示威行為、一種のマウンティングとして枚数を競う人もいる。こういうオタクの示威行為は選抜総選挙を模した制度を導入した他グループでも見られるだけではなく、小規模な地下アイドルグループのCD発売イベントでも見られる光景だ。
選抜総選挙というものが有名になったせいで、CDの複数枚買いもオタク以外の人からは応援行為のように見られていることもあるが、たいていは一枚買うごとにメンバーと握手できたり、2ショットが撮れたりという特典がついてくるからで、自分の”快”のためにやっている行為である場合が多い。女の子のために愚直に応援しようと思っている人も多く存在はするが、自分の快楽のためにやっていることを「応援」ということばで誤魔化して世間体を良くしているだけの場合、ようするに建前でしかない場合のほうが多いだろう。オタクの良質な部分として理解されがちな「応援」というものも、欺瞞性に満ちたものが多くあるという現状がある。
一枚岩ではない、
多様なオタクたち
未成年を合法的に性的搾取する存在がアイドルオタクであり、そういうビジネスがアイドルであるというとらえ方も現実に即しているわけでもない。そういう嗜好のオタクもいるし、そういうニーズを考慮した現場も実在するが、それがすべてというわけではない。小学生アイドルのライブにはペドフィリア男性だけが赴くわけでもない。性的な欲求ではなく、子どものはしゃぐ姿、子供の無邪気な言動に面白みを感じるが、日常では子どもと接する機会のない人間がそれを求めて訪れている場合もある。それはそれで歪な光景でもあり、子のない男性に与えられる疑似家族体験などと絶賛するようなことではないが。
日本が強度の男性上位社会である以上、すべての社会的な事象にそれは反映されているというのは当然ではある。アイドル文化にも、そういった問題は当然色濃く反映されている。若い女性であるアイドルに対して、ファン=客という関係の不均衡性を利用しながら、理不尽な要求や、パワハラめいた発言をくり返す中年男性という光景は、SNSだけではなく実際のライブの現場でも見ることができる。かといって、それが当然のことのように許容されている世界でもない。そういった行為は、アイドルによっては明確に拒絶を意思表示するし、他のオタクから非難され、ネット上でバトルになる場合やネットリンチ状態になることもある。
そういう、他者の不快な言動を嫌うオタクがつねにどのアイドルに対しても配慮できる人物であるかというとべつにそういうわけでもない。特定のアイドルについて愛情細やかに節度をもって接している人物が、同時に別のアイドルに対しては容姿や年齢を理由に蔑むような言動をとる存在であったりもする。自分の好むタイプのアイドルに対する、ほかのオタクのミソジニー丸出しの言動に怒りを覚えるような人物でも、自分の好まない容姿のアイドルについては彼女がステージ上でおこなっている表現の良し悪し以前の段階で揶揄の対象にしかしなかったりもする。そのいっぽうで、本来彼らがアイドルオタクとして辿ってきた経緯から察せられるタイプとはまったく年齢・容姿がかけ離れているだろうタイプのアイドルを、彼女の表現や人柄からファンになって熱心に応援しているような人たちもいる。そこもまた、単純ではないし嗜好もひとつではないのだ。
アイドルとオタクは
たがいに演じる共犯者
アイドル歌手というものがテレビ芸能人の一形態であった時代から遠く離れ、歌って踊りライブをするタイプのアイドルのあり方も多様化している。芸能界的なわかりやすい成功を目的としているグループもあれば、若い女性がステージで表現活動をするのにもっとも手早い場として機能しているグループもある。アイドルが多様化しているのであれば、オタク側も当然多様化する。地上、地下、地底*とその活動規模によって生まれる差違は当然として、同じ階層のなかでも界隈が違えばオタクの文化も違ってくる。規模が小さくなればなるほどアイドルとオタクの関係性は濃密になるし、「共犯性」を帯びてくる。
一般的にアイドルが男性とつきあうことに対してオタクは許さないというイメージがあるだろう。じっさい、そういう人は多い。若いオタクはじっさいにオタクとアイドルがつきあう例を知っているし、自分にもそのチャンスがあると考えている人も多く、それが叶えられないと知ると愛情が憎しみに変わるような人もいる。また、処女信仰的なものに固執した中年以上の男性のなかにも多く見られる。
いっぽうで、現場にそういったものが介入してこなければ意に介さない人もいる。自分が2000年代前半に通っていた地下アイドルの現場で起こった出来事だが、あるグループのメンバーのひとりに彼氏がいることを現場の常連のオタクの大半が知っていたにもかかわらず、とくに問題にしようという動きにならなかったという事例がある。彼氏が彼女のSNSを乗っ取ってオタクにアピールしてくるようなことがあったり、匿名アカウントによる告発があったりもしたのに、とくに公で糾弾しようという空気もなく、それは解散まで続いたのである。
自分もふくめたオタクにとっては、「アイドル」としての正しいあり方などよりも、ことが公になって人気メンバーであった彼女が責任をとらされて辞めさせられることで、グループの存続が危うくなることのほうが重要であり、自分たちの居場所が継続することのほうが大切なことだったからである。これもアイドルとオタクの共犯性の現れのひとつであろう。
これはたしかに特殊な事例ではあるが、地下アイドル現場の常連オタクはアイドルのプライベートな事情や運営の内幕について、あるていど以上知っている場合も少なくない。そのうえでオタクをやっている人も多く、表面上はアイドルに対して幻想を抱いているように見える人がじっさいにそういうふうな人物だとはかぎらない。その場が継続することを優先して、対外的には、そういうアイドルオタク像をロールプレイしているだけの場合も多いのだ。アイドル側もオタク側も「現場」を成立させるためにたがいに求められる姿をロールプレイしているという解釈もできる。それは世間的に想像されているオタク像からは解離したものだろう。
* 地底とは単に現場の規模の小ささをさす場合と、オリジナル楽曲を持たずに閉鎖的な活動をしている界隈をさす場合もあるが、どちらにしろ極小規模な現場で活動しているアイドルのことを指している
最低かもしれないが、
希望も感じさせる関係性
現在流布されているアイドルオタクのイメージは、それが良いイメージにつけ、悪いイメージにつけ、一部の切りとりに過ぎないというのが、自分の体験を通して得た実感であり、そこに違和感をもっていた。また、アイドルとオタクの関係性についても同じだ。地上のアイドル現場と地下アイドル現場ではオタクのあり方もアイドルとオタクの関係性も変わってくる。さらにいうならば、各アイドルごとに違ってくる。
この連載では、そういったアイドルオタクやアイドルとオタクの関係性の、あまりクローズアップされないような、世間的にわかりにくい部分について、筆者が体験したり、見聞きしたりしたことをもとに考えていきたい。わたしをふくむアイドルオタクに広く共通する傾向について触れていく場合もあれば、ニッチな現場で起こっている出来事について触れていく場合もある。また、ここで扱われるのは、歌い踊りライブをするということを活動の中心に据えている女性アイドルのオタクについてのことがメインになる。
ここでとり上げるオタク像は一般的なイメージからはズレたものが多くなるだろう。ある場合は想像以上に酷いということになるかもしれないし、ある場合は想像だにしていなかったものかも知れない。そこには最低のものもあるかも知れないが、希望を感じさせるものもある。
アイドルとオタクは最終的には他人でしかない。家族でもなければ、友達でもない。週に何回も会話していたとしても、アイドル活動を彼女たちが辞めてしまえば二度と会えなくなるかもしれない存在だ。逆にいえば、オタク側がライブに行かなくなればアイドルもオタクに会うことはできなくなる。そういう奇妙な関係性のなかで、旧来のアイドルとオタクの疑似恋愛を介在するだけではない、「奇妙な共犯関係」ともいうべきものが存在している。そこになにか見るべきものがあるような気がするのだ。
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■この連載が本になります(2023年3月31日発売、定価1800円+税)
2021年1月から全12回にわたって、著者がアイドルオタクとして10年以上にわたり地下アイドル現場で体感してきたアイドルとオタクの悲喜こもごもを通して、地下アイドルとオタクの関係を考察してきた本連載が、2023年3月、『地下アイドルとのつきあいかた』とタイトルを変え、書籍として発売されます。大幅に書き下ろしを加えて、ちょっとマニアックな用語集も収録。これまでありそうでなかった当事者研究的「地下アイドルオタク」論にして新時代の「人間関係論」です。
ロマン優光(ろまん・ゆうこう)
1972年高知県生まれ。ソロパンクユニット「プンクボイ」で音楽デビューしたのち、友人であった掟ポルシェとともに、ニューウェイヴバンド「ロマンポルシェ。」を結成。ディレイ担当。WEBサイト「ブッチNEWS」でコラム「ロマン優光のさよなら、くまさん」を隔週連載中。
著書に『90年代サブカルの呪い』『SNSは権力に忠実なバカだらけ』『間違ったサブカルで「マウンティング」してくるすべてのクズどもに』『日本人の99.9%はバカ』(いずれもコア新書)、『音楽家残酷物語』(ひよこ書房)。