[往復書簡]国籍のゆらぎ、たしかなわたし【第一期】|第4回|民族差別と国籍差別(木下理仁)|安田菜津紀+木下理仁
[往復書簡]第4回
民族差別と国籍差別
木下理仁
安田菜津紀さんへ
こんにちは。お元気ですか。お便りありがとうございました。
娘に「日本人じゃないみたい」と言われたお父さんは本当につらかったでしょうね。考えただけで胸が苦しくなります。それでも菜津紀さんには出自を明かさないと決めて、最後まで貫いたのは、お父さんの優しさであり、強さだったのだと思います。
それにしても、京都の朝鮮初級学校の事件は、本当にひどかったですね。あのとき、ぼくはネットの動画を見てすぐに京都府警に電話をかけました。学校のある地域を管轄する警察署の連絡先を聞いて、そこの警察官に「あんな酷い暴力を放っておくのか、なんとかできないのか」と訴えました。そんなこと、めったにしないのですが。電話に出た相手とどのようなやりとりをしたか、もう憶えていませんが、とにかく黙っていられなかったのです。
その後、校門前で拡声器を使って大音量で罵詈雑言をがなりたてた集団のなかの4人が逮捕され、侮辱罪・威力業務妨害罪・器物損壊罪の有罪判決が出ましたが、彼らが逮捕されたのは事件の9か月後、刑が確定したのはさらに1年半後でした。そんなに時間をかけていては、そのときそこでおびえている子どもたちを守れません。あれほどの暴力が振るわれていながら、なぜ現行犯逮捕できないのかと歯がゆく思います。
安田さんもご存知のとおり、日本では2007年ごろから在日韓国・朝鮮人をはじめとする外国人を声高に差別、侮辱、攻撃するヘイトスピーチが増えました。それがあまりにもひどく、国連の人種差別撤廃委員会から忠告を受けるなどしたため、国も動かざるをえなくなり、2016年には「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律」(ヘイトスピーチ解消法)ができましたが、そこには罰則の規定がないので、ヘイトスピーチをおこなう者がいても、この法律を根拠に逮捕することはできません。
それでも、これがひとつのきっかけとなって少しずつ変化が起きはじめ、神奈川県川崎市では去年(2020年)、「川崎市差別のない人権尊重のまちづくり条例」に、ヘイトスピーチのような行為をくり返しおこなった場合に50万円以下の罰金を科すという規定がもりこまれました。
川崎市で全国に先駆けてヘイトスピーチを規制する条例ができたのは、そこで長年にわたって地道な活動を続けてきた人たちがいたからです。
在日コリアンの人たちが多く暮らす川崎市の臨海部、桜本地区周辺は、ぼくも昔から機会あるごとに足を運び、たくさんの大事なことを学ばせてもらった場所です。1980年代、この地域からうまれた「ともに生きる」ということばは、自分たちの権利を獲得するために長年、日本人と闘ってきた在日の人たちが、それまでの発想を180度転換して生みだした、日本人への“ラブコール”だといわれます。
あるとき、自分たち在日が本当に闘うべき相手は、「日本人」ではなく、差別を生みだすこの社会の構造や人のなかにある差別意識なのではないかと、気づいた人がいたのです。在日を差別する日本人もまた、この社会で生きづらい思いをしている、ある意味、同じ犠牲者なのではないか。だとすれば、たがいにいがみあうのではなく、この社会を生きやすい場所に変えていくために力を合わせてともに行動すべきだと。
在住外国人に酷いことばを投げつける彼らも、いまの日本の社会のなかで何か満たされない辛さを抱えているにちがいありません。そのはけ口が、ヘイトスピーチ、ヘイトデモなのでしょう。現実には簡単なことではありませんが、彼らが在日の人たちとちゃんと出会うことによってみずからを見つめ、「ともに生きる」というメッセージの意味に気づいてくれればと思います。
ところで、「○○人は出て行け!」などと叫ぶヘイトスピーチ、ヘイトデモは、多くの場合、「国籍」ではなく、「民族」や「出自」、あるいは「人種」に対して抱く嫌悪感のようなものからきているように思います。朝鮮学校に通う子どもたちのなかには、朝鮮籍だけでなく、韓国籍や日本籍の子もいるので、国籍が違うからというだけでは朝鮮学校を攻撃する理由にはなりません。
一方、国籍という制度にもとづく差別というのもあります。これは、「国籍が違うのだからしかたがない」と、国籍を理由に対象者を切り捨てるもので、とくに国や地方自治体、そこで働く公務員の言動に表れることが多いように思います。
人種・民族差別と国籍差別は同時に起きることも多く、差別する側もそのふたつを混同していたりするので、ちょっとややこしいのですが、両者は少し性格が違うので、意識してていねいに考えたいと思います。
たとえば、国籍を理由に人としての権利が認められないケースとして、ぼくがいま、とくに気になっているのは、外国につながる子どもたちの教育を受ける権利です。
日本国憲法は「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」と定めていますが、ここでいう「国民」は、日本国籍をもつ人を指しており、外国籍・無国籍の場合は義務教育の対象にはならないと、一般的には解釈されています。そのため、外国籍の子どもが学校に通っていなくても行政の側はあえて関わろうとはしないということも起きるのです。
日本にはいま、本来なら小学生・中学生の学齢期にあるにもかかわらず学校に通っていない「不就学」の子どもが、約2万人いるといわれます。これは「国籍が違うから」といって放っておけるような問題ではありません。文科省も去年からようやくそうした外国籍の子どもたちの就学に向けて努力するよう各自治体に働きかけを始めましたが、現場での取り組みは地域や学校によってまだだいぶ差があるようです。国籍がどうであろうと、すべての子どもには学ぶ権利があります。早くなんとかしないといけません。
ちなみに、日本も批准している「子どもの権利条約」では、「締約国は、教育についての児童の権利を認める」「初等教育を義務的なものとし、すべての者に対して無償のものとする」とされており、その子が住んでいる国の国籍を有するかどうかは、教育を受けるための要件とはされていません。
人種・民族差別と国籍差別、それぞれどこからどんなふうに生まれてくるものなのでしょう? 両者はどう違い、どのように絡んでいるのでしょう?
このあいだの手紙にあった「今後、国籍のあり方はどう変わっていくべきだと考えていますか?」という安田さんの問いに、ぼくはまだ、明確な答えをもっていません。国際結婚や二重国籍、無国籍、難民など、具体的な問題をひとつずつていねいに考えていかないと、なにか大事なことを見落としてしまいそうな気もします。
ただ、アイデンティティや人権と「国籍」とは、かならずしも関連づけて考えるべきものではないんだという意識を、みんながもつようになるといいなとは思います。また、何十年先かわかりませんが、世界中の人が自分の好きな国籍を3つまで自由に選べる、みたいな仕組みができたら面白いだろうな、とも思います。
安田さんはどうですか?
木下理仁(きのした・よしひと)
ファシリテーター/コーディネーター。かながわ開発教育センター(K-DEC)理事・事務局長、東海大学教養学部国際学科非常勤講師。1980年代の終わりに青年海外協力隊の活動でスリランカへ。帰国後、かながわ国際交流財団で16年間、国際交流のイベントや講座の企画・運営を担当。その後、東京外国語大学・国際理解教育専門員、逗子市の市民協働コーディネーターなどを経て、現職。神奈川県を中心に、学校、市民講座、教員研修、自治体職員研修などで「多文化共生」「国際協力」「まちづくり」をテーマにワークショップを行っている。1961年生まれ。趣味は落語。著書に『国籍の?(ハテナ)がわかる本』(太郎次郎社エディタス)など。