こんな授業があったんだ│第9回│ヒロシマへの修学旅行〈後編〉│ 小島靖子+小福田文男
ヒロシマへの修学旅行
被爆の街・ヒロシマを学ぶ〈後編〉
小島靖子+小福田史男
(1984年・八王子養護学校の実践から)
被爆の街・ヒロシマを学ぶ〈後編〉
小島靖子+小福田史男
(1984年・八王子養護学校の実践から)
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自分の生き方を発見する
◉―韓国人被爆者の話をきく
ヒロシマへ修学旅行に行くようになって2年目から、このように毎年、被爆者の話を聞いている。被爆者の話を聞こうと計画した当初は、被爆当時の惨状や思いを、実感をこめて語っていただきたいという願いからであった。ところが、被爆者の話から生徒たちが受けとめたのは、被爆の惨状よりも、むしろ、被爆者が差別されてきた事実や、そのような状況のなかでの生き方であった。
はじめての出会いのとき、生徒たちはいままでけっして語ることのなかった悩みをはじめて語りだした。その後、ヒロシマに行きつづけるなかで、この問題は生徒たちや私たちの課題としてひきつがれた。そして、7年目の昨年は、障害者が差別されている状況に気づき、それを語るだけではなく、自分たちの生き方をみつけるきっかけとしてとらえる生徒もでてきた。
ヒロシマ旅行の2日目の夜、毎年のようにお世話になる下原先生と、先生の知りあいで被爆二世の研本さんがきて話してくれた。
先生の話は力づよかった。先生自身がどんなかたちで被爆され、そのときのようすがどうだったかを身ぶり手ぶりをまじえて話してくれた。「ぼくの、この顔の傷は、そのとき、ガラスがささって切れたもので……」と、いまも消えない傷をうらめしそうに見せながらつづけた。
「この傷のことを、あるときはケンカしてつくった傷だといったこともあった。いまは、原爆をうけたときの傷だとはっきりいう。いわねばと思っているんだ」
研本さんも、「自分の父も母もヒロシマで放射能をうけ、この放射能をうけた父・母から生まれた自分は、生まれたときから身体がよわかった。いつも不安をもっていた。放射能の影響で身体がよわいことをいうと、就職や結婚がうまくいかないということで、被爆二世だということを隠している人も仲間にいます」という。
こんなふたりの話をきいて、「自分たちもおなじように、養護学校の生徒ということを人に言うと損をしちゃいそうで隠しているように思う」といいだした恵子たち。
下原先生と研本さんの話をきいた翌日、市内の河村病院で、原爆病の治療をうけている韓国人の厳おばさんを訪ね、話をきくことができた。
「ヒロシマに原爆が落とされたとき、多くの韓国人が日本につれてこられ、日本で働かされていました。私もそのひとりであったのです。私は軍需工場で働いていたとき、原爆にあいました。私の身体の皮膚はベロッとむけてしまいました。このとき、多くの韓国人が日本人にまじって死んでいきました。おおぜいの人がケガをしました。しかし、韓国人は、このとき、なかなか治療してもらえませんでした。また、韓国人の死体はなかなかかたづけてもらえませんでした。その後も原爆病にかかった人たちはずうっと治療してもらうことができませんでした。(2、3年まえから、この河村病院の先生が韓国人被爆者の治療に理解を示して、個人的にやってくれているということです。)しかも、いまなお韓国人慰霊碑は平和公園のなかに建てさせてもらうことすらできません。日本につれてこられて働かされているあいだに、日本人とおなじように原爆にあったのに、どうしてこんなことになるのでしょう。なんともやりきれない思いです」
厳おばさんの話は重かった。厳おばさんは、いま、治療をうけながら必死に生きようとしている。そして、必死に韓国人のうけている差別の状況を語ってくれた。
◉―「被差別」を超えるために
下原先生と研本さん、それに厳おばさんと2日間にわたって被爆者の話をきいた。この3人の話は、どんな話だったのか、なにを伝えようとしていたのか、それをみんなでもういちど考えあってみようと、夕食後、宿で話しあいをもった。
大沢さん──なんであんなひどいことがおこったの? 戦争がなければ、ああはならなかったのに。
広くん──なんだか、ひどすぎる。
恵子さん──おなじ人間なのに、どうして韓国人の死体をかたづけなかったの。ひどい、ひどい。やっぱり日本人は韓国人を差別している。ひどすぎる。
「差別ってどういうことなのかな?」と問うと、恵子は「差別って、私たちにも関係あることだよ。みんな、みんなも関係あるんだよ。養護学校のなかにいると、あんまりわからないけど……。あるじゃない、大山くんだって、佐藤さんだって。みんなに関係あるんだよ」と必死に友だちに問題をなげかけ、自分がこれまでうけてきた差別的な過去を一気にはきだすように語りはじめた。
「私は、兄弟のなかでも差別されていた。何をやるにも、できないとか、おそいとか。悪いことをしていないのにしかられたり。普通学校でもそうだった。どうして私ばかりバカにされるのか、くやしかった。私はくやしくて、普通学校のとき、不良の子といっしょにスカートを長くしたり、先生とは口をきかなかったり、メチャメチャにしていた。どうなってもいいと思った。近所の人も、私のこと、バカにしていた。養護学校へきていることを妹もいろいろいったし。自分のこと、近所の人にもいえなかった。
……でも、みんなもそうだと思うよ。実習のときだって、そうだったじゃない。私たち、やらないうちからできないと思われている。だれだって、何かできることはあるはずだ。私たちは、何かいわれたら、だまっていないで言っていったほうがいいんじゃない。言えない人もいるから、みんなで言っていってあげたほうがいい」
2時間ちかくのあいだ、恵子はひとりで訴えつづけた。
「広くんだってあるでしょ。差別されたこといってごらんよ。みんなあるはずだよ」
広くんはしばらく沈黙したあと、口ごもりながら重い口を開いた。
「これ、みんなにいってないことだけど、ぼくは……、ほんとうは……、台湾人で……。まえにそのことでよくバカにされてくやしかった」
私たち教師もまったく知らないことだった。はじめて自分の生いたちを語った広くんの姿に、一瞬、シーンとなった。野口くんも、「遊んでいて、よくなかまはずれにされた」といいだした。野口くんの話をきいて、恵子は、またいった。
「私たちも差別されていることをちゃんといっていったほうがいい。かくさないで、にげないでいっていかなくちゃいけないんじゃないか」
自分の口から、自分が差別をうけてきたことを語れないでいた友だちも、じっと恵子や広くんや野口くんの話を聞き、うなずき、共鳴していた。いつまでもいつまでも語りつづけて、なにか新しい一歩をふみだそうとしている子どもたちの姿が、私たちにもよくみえてきた。
10時をすぎてしまったので、各部屋にわかれて床についた。私は、さいわい、恵子といっしょの部屋だった。恵子は眠ろうとせず、私に話しかけてくる。
「私ねー、私も友人のこと、これまで差別したり、バカにしたりしてきたような気もする。そのこと、きょう、気づいたよ。私たち、養護学校にいることや、バカにされたこと、私はいっていったほうがいい気がする。自分のこと隠さないで、どうしてバカにするのか、そのことをいっていったほうがいい。私たちだって、やれることやっているんだから。私、なんだか変わってしまいそうな気がする」
それは、むしろ、自分の心の奥をみつめながら、自分にいいきかせている姿だった。
差別と平和を問いつづけたい
◉―被爆者への手紙
深い感動に包まれて、生徒たちはヒロシマ修学旅行から帰った。その感動は、生徒たちばかりでなく、教師たちをも深く包みこんでいた。
そこで、生徒たちといっしょに、自分たちはヒロシマで何を見てきたか、そして、何を考えたか、それを家族や後輩に伝えるために作文を書く授業を試みた。生徒たちは、さっそく厳おばさんと下原先生に手紙を書いた。あの出会いは、彼らにとって、生涯、忘れられないほど衝撃的だったにちがいない。〈( )内は教師の補完。以下おなじ〉
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*厳おばさんに
その後、お元気ですか
この間は病気のところを、私たちにいろいろと話をしてくれてありがとうございました。
おばさんの話をきいて、日本人たちがかんこく人の人にたいして、いろいろなさべつをしたことをすごくいけないことだと思いました。「オモニ(おかあさん)」といいながら、死んでいったかんこく人の人をいつまでもそのままにしておいたなんてひどいなと思いました。日本人は本当にわるいことをしたんだと思います。同じように原ばくにあった人なのにと思います。
それから韓国人の慰霊碑をどうして(も)平和公園につくってくれなかったのは韓国人の人にたいしてのさべつだと思いました。
私たちもいままでに「じがかけない」とか「勉強ができない」とか「仕事がのろい」といわれみんなからさべつされてきたことがありました。その時私たちはいわれたことからにげていました。
厳さんの話をきいてさべつされてもにげないでさべつする人たちに私たちの気持ちをいってくじけないようにしようと思いました。厳さんの話をきいて私たちのいきかたがかわってくるような気がします。
私たちは、これからしょくば実習に行きます。いやなことがあったら厳さんからおし(え)られたことを思いだしてくじけないで、がんばります。私たちは 三月に卒業をします。みんな(の)人がはたらけるようになるまで一緒にがんばっていきたいと思います。
厳さんの病気が一日でも、早くなおってほしいと思います。元気になって東京にもあそびにきて下さい。
二度と厳さんのように原ばくにあう人があったら、いけないと思います。
そのためにせんそうがおこらないようにしなくては、なりません。
一日を大切にいきていて下さい。
また来年 私たちのこうはいが広島に行きます。もし広島にいったら、話をして下さい。
さようなら お元気で。
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*下原さんに
下原さん、おげんきですか。げんばくでおおぜいの人たちがなくなったのですね。
下原さんは、死ななくて良かったですね。でも、中学校の建物が、つぶれてしたじきになり、大けがをしてしまいました。
下原さんはほっぺにおおけがをしていました。ほっぺの肉が口の中からでてきたことをきいたとき、きもちわるかったです。でも、かわいそうだなとおもいました。いたかっただろうなとおもいます。
一人で病院まで歩いていったなんて すごいなと思いました。
下原さんのけがは、なおっても、放射線で、原爆症になってしまいました。どうせながいきできないとおもった下原さんは めちゃくちゃに生きました。お酒をのんだり、タバコをすったりしたそうですね。
もしも、私がもうじきしぬとしたら、いやだなあと 思います。なにをしていいかわかりません。
下原さんは、元気になってから、一日一日を大切に生きなくては、いけないと思い、被爆者でむねをはって生きて来たという事ですね。
下原さんの話を聞いて、クラスの仲間達も、はげまされました。
十月二十五日から十一月十二日まで、僕達は職場実習に行く予定です。
実習先は、まだ、決まっていませんが、決まったら、がんばって、就職が出来るようにしたいと思います。
来年二年生達も、広島に行くと思いますのでよろしくお願いします。
下原さんも、いつまでも元気でいてください。
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◉―ヒロシマ体験をつづる
現地でみてきた原爆ドームや数多い慰霊碑、平和記念館や資料館に陳列されているさまざまな資料には、たんなる説明だけではなく、過去から現在、そして、現在から未来へ向けての訴えがある。その訴えを感じとった生徒たちは、それをほかの仲間につたえるために、つぎのような作文や詩をかきあげた。
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小山 武
広島に原ばくが(なぜ)おっこったか
放しゃのうがそんなにたいへんだった(の)か
らっかさんがついていたか
ついていたか(を)おしえてください
にんげんが なぜ(にんげんを)ころさなければならないか
げんしばくだんはおそろしい
げんしばくだんが ほんとうにあるんですか
どうして日本がまけたか
アメリカ(人よ)
(ぼくには)しんだひとのきもちがわかるんだ
もう せんそうやめましょう
にどとせんそうはやらないと(約束します)
けっしてくりかえしませんから
ねむってください
あやまちはくりかえしませんから
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多田安彦
B29が爆弾をおとした
おうちにいたひと(が)たおれた
口からちがでた
にんげんが がいこつになった
みんなしんだ
あかんぼう(が)しんだ
おとうさんがしんだ
おかあさんがしんだ
おじいさんがしんだ
へいたいがしんだ
こどもがしんだ
みんなたおれた
たすけてえといった
水 くれっていった
水がなかった
かわのところでしんだ
たすけてえといってしんだ
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日ごろ、あまり文章で自分の気持ちを表わしたり、話したりすることの少ない安くんが、このような作文をつづったのは、おそらくヒロシマでの衝撃があまりに大きく、心の奥ふかくにそれが沈澱していたからではないだろうか。また、小山くんは、ヒロシマ旅行のあと、この作文にもみられるように、「戦争はあってはいけない。戦争はくり返してはいけない。戦争はやめよう」と会う人ごとに訴えていた。
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石田かおる
私は、広島にいって自分が、いろいろかわってきたと思っています。どういうふうにかわったかというと、友だちといろいろ話をするようになったり、友だちのことを考えるようになりました。友だちのことを考えるようになったのは、広島にいってからです。広島で原爆にあった人の話をきいたとき、私も友だちにたいして差別をしていたことに気がつきました。それまでは、差別のことがわかりませんでした。広島にいって本当によかったです。もし広島にいかなかったら、私もずーと差別をしていたかもしれません。
私は、八王子養護学校にきたことでなやんだことがありました。妹に八王子養護学校のことでバカにされたことがありました。でも、私は、今、妹にいえるようになりました。友だちにも、かくさないでいっていきたいと思います。職場実習にいったときも、養護学校だということで、いやなこともいろいろありました。でも、そのときは、自分で考えていることをいっていかなくてはと思います。
バカにされたら、みんないっていけるようになってほしいと思います。
広島にいって差別ということをいろいろ考えることができるようになったと思います。先生たちの中にも、差別して考えている人もいるなあとときどき思うことがあります。そんなときは、それは差別だといっていきたいと思っています。
私の生き方を、すこし考えれるようになったように思います。広島にいってよかったと思います。
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こんな彼女の気持ちを知らされ、ヒロシマの学習は、私たちの予想をこえて生徒たちの心をゆさぶっていることに驚かされた。とくに、教師への批判をこめたことばに、私たちは身のひきしまる思いがした。
文章をつづることがむずかしい生徒たちには、教師がきき書きしてつづってあげた。つぎのは、口述筆記したものである。
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しゅうがくりょこう 田山麻里
げんばくで、おうちがやけてくずれちゃった。
みんな「あちいー、あちいー」「いたいよ、いたいよ」
あかいから、あついから。
てがやけどしちゃったの。がいこつ。
かあさんが、あかちゃんだいてたの。
あかちゃん、ひとりでないてたの。
おかあさん、しんじゃって「えーん」ってないたの。かなしいから。
かわいそうになっちゃった。
みんな、はだかになっちゃって。
麻里はいやだ。あんなふうになりたくない。
ガラス、あったの。くろいガラス。
おべんとうがあったの。こげたごはん。
がっこうに、かえってみんなではなした。
B29、とんだの。
げんばく、おとしたの。
山口せんせいに、はなしてあげたの。
おわりじゃないの。まだいっぱい、かきたいの。
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現地でたくさんの慰霊碑をみてきたが、その記憶をさらに鮮明にするために〝嵐のなかの母子像〟を描いた絵ハガキをみながら作文をつづることもしてみた。この絵ハガキは、母子像が青空のもとに写しだされているが、生徒たちが想像しやすいように、青空の部分を火災にぬりかえてみた。そのとき、萩山君はつぎのような作文をつくった。
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おかあさんがこどもをおぶってひっしににげている。おかあさんがこどもをかばってにげている。おかあさんがこどもをかかえてにげている。おかあさんがくるしみながらこどもをおぶっている。おかあさんがこどもといっしょう(「いっしょう」は「いっしょ」のこと。以下同)にしに(もの)ぐるいでにげている。おかあさんがこどもといっしょうにしに(もの)ぐるいでにげている。おかあさんがこどもといっしょうにひをよけてにげている。おかあさんがこどもといっしょうにたすけてといっている。もうおかあさんがだめだといっている。でもこどもがおかあさんにがんばれといっている。おかあさんもがんばるといっている。でも、こどもはひとりでがんばるといっている。でもおかあさ(ん)はひとりではむりだといっている。
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◉―「ちちをかえせ、ははをかえせ」を読んで
ヒロシマにでかけるまえ、「第二次大戦の歴史」について、学習帳や写真などを使って、その学習もしてきた。そこでは、「なぜ戦争がおきたのか」「なぜヒロシマに原爆が落とされたのか」などを考えあってみようと思った。しかし、生徒たちにとって遠い過去のことや体験のないことを年代をおってとらえていくことはむずかしく、「戦争とはなにか」ということを伝えきれない思いでいた。
ところが、ヒロシマの現地での学習や被爆者の話に出会うことによって、生徒たちは「戦争」について深く考えはじめるようになっていった。
ヒロシマからもどって2、3日してから、峠三吉の詩「ちちをかえせ、ははをかえせ」をもう一度よみかえし、学習したときのことである。「かえせ、かえせ」とくりかえし訴えているこの詩のなかの「かえせ」ということばは、だれにむかって訴えているのかを考えてみようということになった。
山田くんは「アメリカだ」という。そのことばをきいて、平井さんは「だって、日本も真珠湾を攻撃しているんだよ。だから、アメリカだけじゃない」という。深山くんは「日本人も、中国で人を殺してた。(彼は丸木美術館で見た南京大虐殺の絵を思いだしたのだろう。)だから、アメリカだけではないはずだ」という。「厳おばさんたちをむりに朝鮮からつれてきたのも日本人だ。朝鮮の人たちは、おおぜいヒロシマにつれてこられて、働かされ、原爆にあって死んでしまった。死体もかたづけてもらえなかったって、おばさんがいってたじゃない」と石山さんも、アメリカだけではないという。「アメリカだ」といった山田くんは考えこんでしまった。いったいだれに向かって「かえせ」といっているのだろうか? 彼ばかりでなく、みんな考えこんでしまった。
木村くんが「へいわをかえせ? 〝かえせ〟はへんだ。おかしいな」とボソッといった。「なんのこと?」とあちこちからいわれて困惑した木村くんは、「へいわをつくろう! つくろうだよ」とこぶしをあげた。何人かが「そうだ。そうだ。へいわをつくろうだ」といってこぶしをふりあげた。
原爆を落としたのはアメリカだが、戦争の責任はアメリカだけではない。戦争というものは、残酷で悲惨なさまざまな状況をうんでいくものだということを感じとってきたようだ。また、へいわは、他人にむかって〝つくれ〟とか〝かえせ〟とかいうものではなく、「自分たちひとりひとりが、みんなでつくっていくものだ」ということも感じたようだった。
八王子養護学校・高等部3年生の修学旅行さきをヒロシマに定めてからことし(1984年度)で8年目になる。そのあいだに、はたして「ちえ遅れ」の子らにヒロシマがわかるのか、なぜヒロシマに行くのか、という疑問や反対の声が父母・教師からいくたびか寄せられ、私たち自身もくりかえし問いなおしてきた。
被爆者の立場からすれば、被爆時の惨状は、とうてい絵でもことばでも伝えきれないだろうし、被爆後の人生における不安や苦悩も表わしきれないにちがいない。その被爆者自身でさえ伝えきれない内容をどう理解するのか。さらに侵略戦争の歴史や現代の核問題となると、おとなでも理解しきれないことが多いのではないか──そう問い詰められたら、すべての子どもにヒロシマがわかったなどとはとてもいえない。しかし、生徒は生徒なりに、ヒロシマ修学旅行の体験をこのように受けとめているのである。
出典:小島靖子・小福田史男(編著)『ものづくりとヒロシマの授業』1985年、太郎次郎社
八王子養護学校の実践を伝える本
◎ 遠山啓 編『歩きはじめの算数』国土社、1972年
◎ 小島靖子・ 小福田史男 編『八王子養護学校の思想と実践』明治図書出版、1984年
◎ 鈴木瑞穂『子ども美術館17:絵がかけたよ 養護学校の子どもたち』ポプラ社、1983年
◎ 加藤茂男『子ども美術館18:ぼくらは生きたい 原爆の絵をかく』同前
◎ 小島靖子・ 小福田史男 編著『ものづくりとヒロシマの授業』太郎次郎社、1985年