石巻「きずな新聞」の10年│第8回│仮設きずな新聞、節目の100号を発行する│岩元暁子
第8回
仮設きずな新聞、節目の100号を発行する
石巻と東京を往復する生活のなかでの結婚
ジョーと出会って約2年が経ち、私は31歳になった。毎月4〜5日間の連休をとり(毎週の休みは1日)、東京で暮らすジョーに会いにいったり、ふたりで旅行をしたり、順調におつきあいを進めてきた。私は、つきあいはじめた当初から、「この人と結婚するんだろうな」となんとなく思っていたし、ジョーも「結婚願望は割とある」と話していた。しかし、いつまで経ってもプロポーズらしきものがない。そしてある日、煮えきらない彼の態度に私の不満が爆発し、「結婚しないなら、もう別れる!」と切りだしたすえに、私たちは結婚することになった。
2014年7月にジョーの実家のある札幌で結納がわりに両家顔合わせをし、11月に石巻市役所に婚姻届けを提出した。母校・上智大学の恩師で、神父様でもある高祖敏明先生に結婚の報告をし、翌年5月に母校のチャペルで挙式をとりおこなっていただくことになった。石巻で暮らしながら、東京で挙げる結婚式の準備をするというのは、いま考えるとどうかしているが、体力に自信のあった当時の私は夜行バスを駆使して東京に通って準備をこなした。
この結婚式の準備をとおして、ジョーとはこれまでにないほどケンカをした。結婚式は一生に一度、しかもそれなりの高いお買いものなので、おたがいの些細な価値観の違いが衝突する。私たちは結婚式を経て、おたがいの価値観をすり合わせていく方法を習得した。おかげで、迎えた結婚式と披露宴は満足のいくものとなった。石巻でお世話になっている人たちにも参列していただくことができ、幸せな時間だった。
新聞制作以外にも活動の幅を広げて
結婚式の翌々日には石巻にもどって、すぐに新聞を発行した。あいかわらずワーカホリックな毎日だった。仮設きずな新聞の編集長としての取材や記事執筆、印刷の仕事に加え、ボランティアの受け入れや、石巻市内で活動するさまざまな団体が集まるネットワーク会議への出席、助成金の申請書を書くための調べもの、地球一周の船旅を終えたピースボートの石巻での寄港地ツアーのコーディネートなどなど、イレギュラーな仕事がつぎつぎと降ってくる。そのほかにも、石巻のビジターズ産業を盛りあげていくために、石巻観光協会のホームページ制作をお手伝いしたり、ボランティアたちといっしょに再開した店舗を取材してスライドショー形式の動画をつくって発信したり、新聞の新たな書き手を育てるために「文章講座」を企画したり、海外からのボランティア希望者の活動をコーディネートしたり、といった単発のプロジェクトもリードした。
「やりたい仕事だけをやるのは、もはや趣味。やりたくない仕事も半分くらいこなさなくては、やりたい仕事はできない」とつねに考えているので、やりたいことがあればあるほど忙しくなったが、そのぶん充実感もあった。
仮設きずな新聞100号記念プロジェクト
結婚式を終えたころ、仮設きずな新聞は90号を超えていた。100号の節目が目前に迫り、「何か記念になることをしよう」と、100号記念プロジェクトがはじまった。
100号を迎えるにあたり、私の胸にわいたのは、「われながら、よくここまで続けてきたなぁ」という思いと、ここまで活動を支えてくれた多くの方々への感謝だった。
活動を支えてくれるボランティアや助成団体、そしてなによりいつもきずな新聞を心待ちにしてくださる住民さんたちに、感謝を伝えたい——その思いで、①仮設きずな新聞100号記念特別号の発行、②100号記念パーティの開催、③ボランティア・住民さんへの感謝状の贈呈の3つを企画した。
100号記念特別号は、念願のカラー版で制作。外側は通常の新聞の仕様にして、きずな新聞にかかわった方々からのメッセージを寄稿してもらった。中面は観音開きになっており、左右の扉には石巻市の仮設住宅の歴史と私たちの活動の歩みを年表形式でまとめた。扉を開くと、これまでの活動写真や、住民さんとボランティアのメッセージを並べたアルバムが見開きで掲載されている。
編集後記には、つぎのように書いた。
私の仕事のメインは新聞を発行することですが、月に2〜3回は新聞の配布にも行きます。「こんにちはー! 仮設きずな新聞をお届けにきましたー!」。出てきた住民さんに新聞を手渡すと、たいてい笑顔で受け取ってくださいます。そして驚くべきことに「これまでの新聞を全部取ってある」という方にも、毎回と言っていいほど出会います。
苦労自慢がしたいわけではありませんが、新聞を書くって結構大変なんです。常にアンテナを張ってネタを集め、台割をつくり、取材をし、記事を書いて、編集する。言葉ひとつ選ぶのにも頭を抱え、栄養ドリンク片手に朝まで編集作業をしたことも、一度や二度ではありません。
しかし、そんな苦労も疲れも、住民の皆さんの笑顔とねぎらいの言葉で吹っ飛びます。「次号もがんばろう!」というパワーをもらいます。ずっと支えられてきたのは、私の方かも知れません。
100号まで私たちを支えてくださり、本当にありがとうございます。これからも共に、歩んでいきましょう。
(仮設きずな新聞編集長 岩元暁子)
100号記念特別号:http://www.kizuna-shinbun.org/wp-content/uploads/2017/02/98ace4e039761faa5097f1c69e57f0cb.pdf
パーティは、夏休み中に来ていた大学生のボランティアたちとともに準備し、仮設住宅の住民さんや地元のボランティア、そして助成団体の方に参加していただいた。会の最後には一人ひとりに感謝状を贈呈し、仮設きずな新聞やボランティアとの思い出を話していただいた。住民さんたち、ボランティアさんたちが、どんな思いで仮設きずな新聞にかかわってくださっていたかがわかり、胸が熱くなった。ただの紙きれ1枚が、こんなにも多くのきずなをつくってきたのだ。
感謝状を受けとった住民のみなさんは、「賞状だのなんだの、みんな津波に持っていがれたがら、うれしいっちゃー」とほんとうに喜んでくれた。数日後に仮設住宅を訪問してみると、壁に飾ってあった。
やることが山積みの毎日に忙殺されて、なかなか感謝を伝える機会というのはつくれないものだが、100号の節目に、あらためて多くの方々に感謝をお伝えできたことはよかった。
祖父の葬儀後に飛びこんできたニュース
9月に入り、大阪にいる祖父の体調が芳しくないということで、急遽会いにいくことになった。結婚の報告もできていなかったので、ジョーとふたりで病院にお見舞いにいった。酸素吸入器をつけている祖父は、何を言っているのかほとんどわからず、意思の疎通は難しかったが、こちらが言っていることは理解していそうだったので、「結婚したんだよ!」と伝えた。すると、それまで何を言っているのかわからなかった祖父が、そのときだけははっきりと「しあわせか?」と聞いてきた。「うん、しあわせだよ!」と答えると、「よかった」と言ってくれた。
それから数日後、祖父の訃報が入った。すぐに飛行機を手配し、翌日の朝イチで仙台から大阪に向かうことにした。葬儀にはジョーも東京から新幹線で来てくれた。祖父との最後の時間をゆっくり過ごすことができたのはよかったが、手どり16万円の生活をしている私にとって、1週間に大阪 – 仙台2往復はお財布に痛すぎた。仕事の内容に不満はないし、石巻にいるぶんには家賃もかからないので最低限の生活はできるが、やはりいざというときに躊躇なく行動できるくらいのお金はいただきたいと思った。
通夜と告別式を終えた9月10日の夜。東京に向かう新幹線のなかで、私は半日ぶりにスマホを開き、ニュースを見てことばを失った。画面に踊っていたのは「鬼怒川決壊」の文字、そして黄土色の川水が家や車を押し流す映像——。決壊した川は津波と同じような威力をもつことを、このとき私ははじめて知った。と、同時に考えていた。「これは……忙しくなるなぁ……」と。
私が所属しているピースボート災害ボランティアセンターは、石巻以外の地域でも活動しており、災害が起これば、各地にスタッフやボランティアが派遣される。私は運転免許を持たない「移動困難者」なので、毎回お留守番組だが、同僚が現地入りすることになると、そのぶんの仕事ががばっと降ってくることがよくあった。
「今回はだれが呼ばれるんだろう?」
このときは、まさか自分が1週間後、その地で汗を流していることになろうとは夢にも思わなかった。
岩元暁子(いわもと・あきこ)
日本ファンドレイジング協会 プログラム・ディレクター/石巻復興きずな新聞舎代表。1983年、神奈川県生まれ。2011年4月、東日本大震災の被災地・宮城県石巻市にボランティアとして入る。ピースボート災害ボランティアセンター職員としての「仮設きずな新聞」の活動を経て、支援者らと「石巻復興きずな新聞舎」を設立し、代表に就任。「最後のひとりが仮設住宅を出るまで」を目標に、被災者の自立支援・コミュニティづくり支援に従事。2020年5月、石巻市内の仮設住宅解消を機に、新聞舎の活動を縮小し、日本ファンドレイジング協会に入局。現在は、同会で勤務しながら、個人として石巻での活動を継続している。石巻復興きずな新聞舎HP:http://www.kizuna-shinbun.org/