石巻「きずな新聞」の10年│第13回│石巻復興きずな新聞舎、設立│岩元暁子
第13回
石巻復興きずな新聞舎、設立
「仮設きずな新聞」の終刊を発表
年が明けて2016年の1月。新年最初の新聞で、「仮設きずな新聞」の終刊について伝えた。終刊についてのお知らせは、私の名前ではなく、ピースボートの代表理事と、私の直属の上司である石巻現地代表の名前で発表した。
編集後記にはこう記している。
「新年明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。
皆様はどんなお正月を迎えられましたか。私は今回夫と一緒に石巻で過ごしました。私にとっては4回目、夫にとっては初めての石巻でのお正月でした。鹿島御児神社に初詣したり、金華山に登ったり、普段お世話になっている方々のお家にお邪魔したりして、私にとって石巻は『一生もの』になったんだなと実感しました。
そんな新年早々、終刊のお知らせをしなければならないことを、とても残念に、そして申し訳なく思っています。これは団体としての判断ですが、今後は私個人として、『一生もの』の石巻にどう関わっていけるのかを模索したいと考えています」
住民さんたちからの反応は、大きく二分されていたように思う。「もう5年だものね、私たちもそろそろ自立しなくちゃね」「むしろ、ここまでよくやってくれたと思う。ありがとうね」と、私たちへの労いとともに、終刊を受けとめてくださる方と、「そっか⋯⋯残念だね⋯⋯」と複雑な表情を見せる方。
前者は、復興公営住宅に当選しているなど、仮設住宅を出る目処が立っている方が多く、対して後者はまだいつ仮設住宅を出られるのか、まったく目処が立っていないという方が多かった。「残念だね」のウラには、「私はまだ目処が立っていないのに、やめちゃうんだね⋯⋯」ということばが聞こえるようだった。
住民さんにとっては「震災から5年」はなんの節目でもない。仮設住宅を出て新しい住まいに移る、そのときこそが節目だ。その瞬間まで、住民さんの心に寄り添いつづける新聞であれたらよかった。私が結婚していなければ、私にもっと資金調達のスキルがあれば、あるいは活動を続けられたかもしれない⋯⋯。そんな気持ちが押し寄せた。
ボランティアたちからの意外な声
2月、ここ数年、仮設きずな新聞の活動に生徒さんをボランティアとして派遣してくれていた埼玉の高校の職員の方とお会いした。
「もし、あきさんが新聞を続けたいという気持ちがあるなら、私たちはこれからもあきさんの活動をサポートしていく気持ちがありますよ」
終刊の知らせを聞いたあと、いろいろ考えてくれたらしい。
「私たちは学校なので、印刷機があります。新聞を印刷して、石巻に送ることも可能です。たとえば2、3か月に1回新聞を発行して、うちの生徒たちが配布する、というのはどうでしょう」
具体的な提案に少し驚いた。どうして、そこまで⋯⋯?
「きずな新聞の活動に参加した生徒たちはみんな、すばらしい感想文を書くんです。住民さんたちとの交流のなかで、防災・減災や家族の大切さに気づいたり、将来の目標を考えなおすきっかけをいただいたり。そんな活動はきずな新聞以外にありません。私は続けてほしいです」
なるほど、そんなふうに思ってくださっていたのか。驚きと感謝を覚えながら、私は「考えてみます」と答えた。
正直、一種の「お世辞」かなと思った。「それぐらいすばらしい活動でしたよ」と。もしくは、「ものごとが終わる」ということに対する一時の感傷か。
いちおう、私はきずな新聞の活動に定期的・継続的にかかわっているボランティアたちに、再度聞いてみることにした。「ほんとうは、きずな新聞、続けたかったりする⋯⋯?」
答えは意外なものだった。
「記事の反響があるのがうれしかった。これからも情報発信をしていきたい」
「新聞を持っていくたび、住民さんに『ありがとう』と言われることが喜びだった」
「県外のボランティアさんたちが築いてきた信頼を、地元住民として引き継いでいきたい」
私は、これまでボランティアさんたちに対して、どこか「申し訳ない」と感じていた。本業もあるなかで、締切に追われながら記事を書くのはたいへんだろうし、せっかく書いた記事は編集長にことごとく直されるし(苦笑)。新聞配布も、いい日ばかりではなく、雨の日も風の日も雪の日もあって、とくに冬の石巻の寒さに心折れるボランティアさんはたくさん見てきた。
住民さんに「ありがとう!」と言ってもらえる日ばかりではなく、怒鳴られたり、いやな顔をされたりする日もある(私も目の前で住民さんに新聞を破られたことがある)。
それでも、住民さんに寄り添ってきたはずの新聞は、いつのまにか、その制作や運営にかかわる人たちのやりがいにもなっていたのだ。
かたちを変えて、続けていけるかもしれない——一人ひとりと対話を重ね、希望は確信に変わった。
きずな新聞にかかわりたい人たちを広く受け入れるには?
3月上旬には、「なんらかのかたちで『仮設きずな新聞』を引き継いでいこう」と決め、走りだした。
3月10日発行の『仮設きずな新聞』最終号の編集後記には、こう書いている。
「毎号、編集後記を書くたびに、『最終号の編集後記を書くときはどんな気持ちだろう』と想像していました。悲しいかな、寂しいかな、もう徹夜しなくていいんだとホッとしているかな。まさか、こんなに晴れ晴れとした気持ちだとは予想していませんでした。
ひとつの終わりは、ひとつの始まり。いまは新しいスタートにワクワクがいっぱいです。また必ずお会いしましょう。その日、その時を、心から楽しみにしています」
活動に定期的に携わってくれていた団体や個人に声をかけたところ、ほとんどの人たちが「今後もきずな新聞にかかわりたい」と言ってくれた。
当初は、協議会か実行委員会的なものを想定していた。きずな新聞にかかわりたい人たちが集い、新聞をつくりたい人たちがつくり、配りたい人たちが配る。それぞれの団体や個人は対等で、きずな新聞をとおして「やりたいこと」が実現できるような体制を思いえがいていた。
しかし、3月下旬になって、冒頭の埼玉の高校から「関係者が多すぎて、この状況では当校はかかわれない」と言われた。「たとえば関係団体が不祥事を起こした場合、当校もそこにかかわっていた、というような嫌疑をもたれかねない。そのような状況では学内の承認が下りない。これまでのようにあきさんがみんなを束ねて、窓口になってくれるのであれば問題ないが、協議会や実行委員会のようなスタイルでは難しい」ということだった。とくに「宗教団体と同じテーブルにつくことは、私立学校法に抵触する恐れがあるので、ぜったいにNG」とのことだった。
当時、新聞の配布を担っていたメンバーに、宗教団体系ボランティア組織から参加している4名がいた。全員が石巻在住で、それぞれ月に8日ずつほどきずな新聞の活動に参加してくれていたため、きずな新聞にとってはひじょうに大きな「戦力」だった。また、宗教を信じている方の特性なのか、みなさん、落ちこんでいる方やつらい状況の方の心に寄り添い、傾聴するのがとてもじょうずだった。
私には、「この活動にこれからもかかわりたい!」と言ってくれる学校も、宗教団体も、切ることはできなかった。なんとか両者を両立させるため、私は実行委員会形式をあきらめ、私が代表として、新団体を立ち上げるしかないと覚悟を決めた。
「石巻復興きずな新聞」を発行する「石巻復興きずな新聞舎」の設立へ
安定して活動できる資金を確保するため、石巻市の助成金に応募することにした。4月5日が締切だったため、「新団体を設立する」と決めてから数日で、新しい新聞の名称、団体の名称、活動内容、団体規約、事務所の所在地、金融機関口座などを用意しなければならなかった。
「仮設住宅を出たら、新聞が読めなくなるのが寂しい」という声をたくさん聞いたことから、新しい新聞は仮設住宅だけでなく復興公営住宅にも配ることにした。新聞の名称は「石巻復興きずな新聞」とし、団体名は「石巻復興きずな新聞舎」とした。団体名を聞いただけで「石巻で復興支援活動をしていること」「メディアを発行していること」がわかるようになり、取材を申し込むさいなどによいだろうと思った。
活動は4つの柱でおこなっていくことにした。
【1】新聞発行を通した情報発信による住民の自立促進
【2】新聞配布を通した訪問・傾聴・見守り活動による心のケア、つながりづくり
【3】地元ボランティアの育成による地域支え合いの仕組みづくり、やりがいづくり
【4】県外ボランティアの受け入れによる震災の風化防止
石巻復興きずな新聞はメディアでありながら、心のケアもおこない、地元ボランティアのやりがいもつくりつつ、県外ボランティアも受け入れる、というラーメンの「ぜんぶ乗せ」のような活動内容だが、私はどの要素も捨てられなかった。ひとつでも欠けてしまったら、それはきずな新聞ではないような気がしていた。
「仮設きずな新聞」のボランティアに何度も参加してくれていて、経理の仕事をしているあいちゃんが、新団体の会計をやってくれることになり、団体規約のひな型もつくってくれた。団体規約がなんたるものか、まったく理解していなかった私にとって、あいちゃんは救世主だった。
口座はあいちゃんの提案で、遠隔でも使えるように「ゆうちょダイレクト」でつくることになった。法人格をもたない任意団体が口座をつくるのはなかなかハードルが高く、何度も郵便局と自宅を往復して提出書類をつくりなおさなくてはならず、それだけで心が折れそうだった。無事に通帳がつくれた日は、ずっと担当してくれた郵便局の職員さんと手をとりあって喜びたい気分だった。
3月31日にピースボート職員としての仕事を終え、それから5日間缶詰になって助成金の申請書を書いた。阪神淡路大震災後の復興まちづくりを視察にいくための助成金申請は書いたことがあったが、年間の活動計画や事業予算を盛りこんだ本格的な申請書を書くのははじめての経験だ。ふっと気を抜くと「助成金 申請書 書き方」と無意識にグーグル先生に聞いてしまうくらい追いつめられながら、なんとか14ページにわたる力作を書きあげた。
助成金申請には「2つ以上の住民自治組織(町内会等)」の推薦書が必要だった。なんせできたてホヤホヤの、なんの活動実績もない馬の骨として申請するわけなので、「せめて推薦書だけはどこよりもたくさん集めよう!」と、仮設住宅の自治会長さんや世話人さんを頼り、16枚の推薦書を集めた。「ああ、きずな新聞ね! 楽しみにしている人多いからねえ!」「がんばらいんよ! 期待してっからね!」。署名をもらいに訪問した会長さんたちに声をかけられるたびに、背筋が伸びる思いだった。こんなに応援されているのだから、ちゃんと再開させなければ。
まだまだ準備の途中ではあったが、みなさんの期待に背中を押され、2016年4月1日、石巻復興きずな新聞舎が発足した。
ピースボートとの関係
ピースボートの拠点が事務所として使えなくなるため、5月からは、街なかで民泊を運営する呉服店「かめ七」さんと、仮設きずな新聞で川柳のコーナーを担当していた地元の方が運営する塾をお借りすることにした。私やボランティアさんの宿泊、ボランティアさんとのミーティング、新聞を置かせてもらう、などのスペースとしてはかめ七さんの2階を、事務作業をするときはWi-Fiやプリンターがそろっている塾を使わせてもらった。
じつは、ピースボート災害ボランティアセンターとしては石巻の活動を撤退することになっていたが、漁村の支援や活性化をめざしたプロジェクトは「ピースボートセンターいしのまき」という新団体で引き継いで活動を続けていた。
新しいピースボートの拠点は、かめ七さんと目の鼻の場所にあり、まわりからは「どうしてピースボートの拠点を使わせてもらわないの?」と不思議がられたが、ピースボートセンターいしのまきの新代表からは「ピースボートセンターいしのまきのリソースは、新しいきずな新聞の活動にはいっさい貸さない」と言われていた。「新団体の定款に記載されていないことはやってはいけないから」という、わかるような、わからないような理由だった。
何かもっと別なところに理由はあったのではないかといまも思うが、ともあれ、4月の時点ではプリンターさえ借りられない環境で、申請書や提出資料を印刷するために何度もコンビニに通った。住民さんもボランティアさんも「続けてほしい」「続けたい」と言っている新聞を続けるために新団体を立ち上げたのに、どうしてこんなことに——と泣きたい気持ちにもなったが、泣いているひまなどまったくないくらいに、一分一秒、忙しかった。
クラウドファンディング、運転免許取得、着々と進む準備
助成金の結果を問わず、2か月の準備期間をとって、6月に「石巻復興きずな新聞」を創刊すると決めた。
そのかん、クラウドファンディングに挑戦することにした。助成金は結果が出るまでに時間がかかるし、使途の制限があるため、あるていど自由に使うことができる資金を確保しておきたかった。スタートアップのタイミングがいちばん支援が集まるものだろう。結果、147人から160万円の寄付を集めることができた。
ふつうに考えれば、「ありがたい!」と喜び、感謝するべきところだが、なんとも言えない複雑な感情がわいた。寄付をしてくれた人のほとんどが私の知人・友人で、支援に対して「ありがたい」というより「申し訳ない」という気持ちになった。また、「知人・友人たちから寄付をしてもらわないと活動が再開できないことへの情けなさ」みたいな感情もあった。その後しばらくは、寄付をしてくれた人たちにどう接してよいのかわからず、なんとなく苦しくてつらかった。
5月には、運転免許をとりに合宿にいった。車社会の石巻で、5年間免許なしで生活・活動してきたが、団体の代表として、今後は何かあったときに責任をとらなくてならない立場。自分の意思で必要な移動ができる手段を手に入れておくことは重要だと考えた。私は子どものころから乗りもの酔いがひどく、運転してみたいと思ったことなどいちどもなかったし、「私はぜったいに運転に向いていない」という謎の確信があったのだが、こんな私でも無事に免許をとることができた(そして、なんと今年はゴールド免許までゲットした!)。
5月28日、「石巻復興きずな新聞」にかかわる方々を集めて、キックオフイベントを開催した。「仮設きずな新聞」から「石巻復興きずな新聞」にいたるまでの経緯と、新団体の活動計画、そして全員から「どんな思いで石巻復興きずな新聞の活動にかかわるか」を画用紙に書いて発表してもらった。
「孤独をなくす」
「きずな・継続・しめきりを守る!」
「大川地区を伝えていきたい」
「人と人とのつながり、支え合いの街づくり」
ことばは違えど、みな根底にある想いは共通しているのだと感じられた。
クラウドファンディングも目標を達成し、よき仲間にも恵まれ、助成金も決まり、あとは6月10日の創刊を待つばかり——そんなとき、一本の電話に目の前が真っ暗になった。
岩元暁子(いわもと・あきこ)
日本ファンドレイジング協会 プログラム・ディレクター/石巻復興きずな新聞舎代表。1983年、神奈川県生まれ。2011年4月、東日本大震災の被災地・宮城県石巻市にボランティアとして入る。ピースボート災害ボランティアセンター職員としての「仮設きずな新聞」の活動を経て、支援者らと「石巻復興きずな新聞舎」を設立し、代表に就任。「最後のひとりが仮設住宅を出るまで」を目標に、被災者の自立支援・コミュニティづくり支援に従事。2020年5月、石巻市内の仮設住宅解消を機に、新聞舎の活動を縮小し、日本ファンドレイジング協会に入局。現在は、同会で勤務しながら、個人として石巻での活動を継続している。石巻復興きずな新聞舎HP:http://www.kizuna-shinbun.org/