石巻「きずな新聞」の10年│第16回│支援者の私が助けられる日々│岩元暁子
第16回
支援者の私が助けられる日々
楽しく幸せな引っ越し
2017年5月7日、私たちは1年間お世話になった「かめ七」さんから、事務所を移転した。石巻駅から徒歩5分という好立地。築50年の2階建て一軒家で、間取りは3DK。トイレがくみとりという部分をのぞけば、リフォームされていて壁も床もキレイで、広さもじゅうぶんだった。1階を事務所として使いながら、2階でボランティアさんを計6人は宿泊させることができる。もちろんお風呂もキッチンもある。布団や家電は、「かめ七」さんの民泊や知人から譲ってもらった。
「かめ七」さんと新事務所は歩いても15分ほどの距離だが、荷物がそれなりにあるので、引っ越しには車、できたらトラックが必要だった。どうしようかと思っていたら、きずな新聞に大川地区の記事を寄稿してくださっている大工の阿部良助さんが2トントラックを出してくれることになった。さらに、良助さんの奥さんの文子さんが、その日手伝いにきてくれるボランティアさんたちのためにおにぎりを用意してくれることになり、良助さんのご近所さんで、牡蠣漁師の小川英樹さんが牡蠣を提供してくれることになった。ボランティアは総勢12人も集まり、作業はあっというまに終わるし、大家さん宅の庭で豪華なお昼ごはんを堪能できるし、こんなに楽しい引っ越しはないんじゃないかと思うような1日だった。
自分ひとりではぜったいに成しとげられないことが、多くの人の助けによって、実現していく。これまでは「支援者」として、石巻の人たちを「助ける」立場で活動してきたので、こうして多くの人たちの手を借りることに若干の申し訳なさや情けなさもあったが、それ以上に石巻の人たちへの感謝でいっぱいだった。私はなんて幸せ者なんだろう。
ピースボートの拠点にいたときからご近所でお世話になっていた小松さんは、こう言ってくれた。
「みんな、あんたがこれまで石巻でやって来てくれたことを見ていて、何か恩返ししたいって思っていたからなんだよ。だからといって『やってもらって当然』と思っちゃいけないけど。あんたがそれだけのことをやってきたっていうことだから。これが人徳というものだっちゃ」
不義理なこともたくさんしてきたと思うので、私に人徳が備わっているとはとても思えなかったが、石巻の人たちと「おたがいさま」の関係が築けているのであれば、素直にうれしかった。
毎年5月7日は「感謝の日」と決めて、引っ越しを手伝ってくれた人たちの写真を眺めながら、感謝の気持ちを思い出している。
ちょうどこの時期、懸案だった有償スタッフも2名雇用することができた。ひとりは事務を担ってくれるなおみさんで、会計のあいちゃんが抜けた穴を埋めてもらうことができた。もうひとりは、ヘルパーの資格をもつマキさんで、高齢者とのコミュニケーションに長けていて、新聞配布をメインに活動してもらうことになった。どちらも、石巻復興きずな新聞舎の設立当初から活動を応援してくれていた伊東義塾の伊東さんの紹介だ。
困ったときは勇気を出してだれかに相談してみる。すると、助けてくれる人が現れる。世の中はそんなふうにできているのかもしれないということを知った。なおみさん、マキさんが定期的にかかわってくれるようになり、きずな新聞の活動は各段に安定したし、私も「ひとりじゃない」と思えるようになって、精神的にもずいぶん余裕ができた。前の年に「友だちの会」から裏切りにあったのも、なおみさん、マキさん、そして新しい仲間に出会うためだったんじゃないかと思えた。
「支援する歓びをありがとう」
初期費用と家賃、そしていっきに増えた人件費をまかなうために、前年度はふたつとった助成金を、この年は3つとることになった。
日々の活動修了後に、徹夜で申請書を書き、結果が出る時期になると5分おきにメールボックスを確認して、食事ものどを通らないような日々を送った。自分の人件費と活動費を工面すればよかったころとは違い、だれかを雇うということはたいへんな責任とプレッシャーをともなうことだった。さいわい、応募した3つの助成金はすべて通り、とりあえず1年間は財政面の心配はいらなくなった。
しかし、助成金を頼りにしていては、毎年この綱渡りの状況が続くことになる。なんとかほかの財源も確保していく必要があった。
そんなときに出会ったのが「ファンドレイザー」を育成するための研修プログラムだった。非営利活動団体が活動資金を調達することを「ファンドレイジング」、それを担当する人を「ファンドレイザー」というが、日本ファンドレイジング協会という団体が研修を開催していて、それがとてもよいと聞き、東京まで受けにいった。ファンドレイジングは、「目先の資金をどう確保・調達するか」にとどまらず、「団体のビジョン・ミッションを達成するために、どのように組織・事業・財源を一体的に成長させていくのか」という、ひじょうに高い視座に立った概念で、私は夜行バス明けだったにもかかわらず、夢中で講義を聴いた。これまでピースボートやきずな新聞舎で事業や団体運営にかかわってきて、なんとなく「こうなのかな」と思っていたことがひとつにつながっていく感覚だった。
その研修によると、寄付者に対しては感謝と報告が大切で、なかでも感謝は「7回伝えよう」ということだった。前の年に実施したクラウドファンディングを思いかえしてみると、私は、寄付者に対しての感謝よりも申し訳なさが勝って、うまく感謝をことばで伝えきれていなかったと思いいたった。
ちょうどこの時期、助成金以外の財源を確保するため「賛助会員」のしくみをつくった。年会費5000円できずな新聞の活動を応援する制度だ。御礼として、毎月新聞と年に1回報告書を郵送することにした。私はやっぱり「申し訳ない」という気持ちがどこかにあったが、あるとき支援者の方のひとりから「支援する歓びをありがとう」というメールが届いた。「支援する歓び」。思ってもみなかったことばに鳥肌が立った。と同時に、寄付者や会員は志を同じくする「仲間」であることを実感した。「申し訳ない」なんて思っているひまはない。胸を張って寄付をいただき、そのぶん活動と感謝でお返ししようと思った。
「気になる住民さん」のためのきずな新聞
マキさんといっしょに新聞を配るようになってよかったのは、スケジュール的に安定して活動できるようになったことだけではなかった。「気になる住民さん」の情報を共有する相手ができたことで、私の心はだいぶ軽くなった。
孤立、孤独、不眠、抑うつ、病気、住民トラブル、アルコール中毒、自殺未遂、家庭内暴力⋯⋯。訪問活動をしていると、心配な住民さんや気になる住民さんに出会うことも多く、それをひとりでためこんでしまうのが地味にストレスだった。ボランティアさんと共有することもあるが、来月もそのボランティアさんと同じ団地に行くとはかぎらないので、「中長期的に住民さんをケアするパートナー」になるのは難しい。その点、月に8日間いっしょに活動するマキさんとは、おたがいに気になる住民さんの情報を共有して、長い目で見た住民さんとのベストなかかわり方をいっしょに考えることができた。
仮設O団地のYさんも「気になる住民さん」のひとり。仮設きずな新聞が50号で休刊になったときに実施した読者アンケートで、「回収ボックスがない!」「だれも信用できない!」と激怒して電話をしてきた男性だ。医療や福祉の手からこぼれ落ちるような、こんな住民さんのためにこそ、きずな新聞は活動を続けるべき——あのとき、そう強く感じたからこそ、仮設きずな新聞は再開して51号を発行できたと私は思っている。その後の活動のなかで、私たちはその住民さんの部屋番号を突きとめ、名前を知り、新聞を持って訪問すればあるていど会話できる関係性を築いていた。仮設きずな新聞時代、私はひんぱんに新聞配布には参加していなかったので、私自身は直接Yさんを訪問していなかったが、いつも気にして、訪問したスタッフやボランティアからようすを聞いていた。
石巻復興きずな新聞になってからは、私が直接訪問するようになった。なんせ頭ごなしに怒鳴られた記憶が強烈だったので、はじめて訪問したときはドキドキしたが、Yさんは3年前の電話からは想像もできないくらい、静かでおとなしくなっていた。重度のうつ病だった。
「もしかして、編集長さん?」
Yさんはうつろな目でそう聞いた。
「そうです」と言ったら、あのときのことを蒸しかえして怒られたり、もしくは謝られたりするんだろうか⋯⋯と一瞬躊躇したが、嘘をついてもしかたないので、正直に「そうです」と答えた。
Yさんは覚えていないのか、怒鳴った相手が私だと知らなかったのか、「編集長さんが来てくれるなんて、うれしいな」と言った。
月に1回、新聞を持って訪問し、毎回声をかけた。体調の悪いYさんは、毎月出てきて会えるわけではなかったが、会えたときは心のうちを聴かせてもらった。
「体調は⋯⋯悪いですね⋯⋯。どうしても『死にたい』って思ってしまって⋯⋯。『どうしたららくに死ねっかな』とか、『買い置きの食糧がなくなったら死のう』とか、朝からそればかり、ずっと考えてるんです」
死にたいって思いながら毎日を生きるのは、さぞかししんどいだろう。それでも、どうして生きているの? と問うと、「迷惑かける人もいるから⋯⋯ですかね」と答える。
まわりの人のために生きる「やさしさ」を、彼はまだもちあわせている。「生きててくれて、よかったよ。しんどいのに、ありがとうね」。そう言うと、少し笑顔を見せた。
またある日は、外から呼びかけると、「いまパンツ一丁だからー。ちょっと待ってー」と言って、わざわざ服を着て出てきてくれた。身長の話になって、Yさんがじっさいの身長より高く見えると言ったら「何かやらなくちゃ(あげなくちゃ)ないなあー。ほめられちゃったやー」と冗談を言った。別れぎわには「また来月も来てね。体がしんどくて、出てこられないときもあるんだけど」と言って、手を振ってくれた。
私がYさんの部屋を訪問しているのを見て、団地の世話役の方が心配して声をかけてくれたこともあった。「あきちゃん、あの部屋だけど⋯⋯へんな住民が住んでるんだよ。以前も集会所に怒鳴りこんできたことがあってね。無理して行くこと、ないんだからね」。
私たちの「気になる住民さん」は、往々にしてご近所さんとうまくいっていないので、こうした助言やアドバイスを受けることはよくある。「こういう住民さんのためにこそ、きずな新聞を続けている」というのは、なかなか理解してもらいにくいので、「心配ありがとうね。〇〇さんもたいへんだったね」と答えておく。
Yさんを訪問するようになって1年と少し。アップダウンはあるものの、Yさんは着実に回復してきているように感じていた。「生きていてよかった」。そのことばが聴ける日も来るのかなと期待していた。
そんな7月のある日、団地の世話役の方に別の場所でばったり会ったときに、彼が亡くなったと聞いた。部屋で亡くなっていたそうだ。すぐに車を走らせて、Yさんの団地に向かった。彼の部屋はもぬけの殻だった。
くわしい死因はわからなかったが、石巻にしてはとても暑い夏だった。熱中症だったのかも知れない。うつ症状のひどい彼は、食事も着がえもお風呂も「めんどくさい」と言っていた。「エアコンつけるのが、めんどくさくなっちゃって」。彼の声が聞こえるような気がした。
最後に新聞を持って訪れていたのはマキさんだった。マキさんからは「すごく体調が悪そうだった」という報告を受けていて、「来月はあきちゃんが行ったほうがいいと思う」とも言われていた。そのつもりだったが、それは叶わなかった。
「生きていてよかった」と思えた日はあっただろうか。家族ともうまくいかず、経済的にも困窮し、「死にたい、しか考えられない」日々。そのなかで、なにかひとつでも救いはあっただろうか。私にもっと力があれば。もっとうまくかかわれれば。彼はいまも生きていて、もっと回復していたのかもしれない——。後悔はつきなかったが、出会えてことばを交わせたこと、心を通わせられたことには感謝していた。
そんな話や想いを、マキさんとはたくさん共有した。夏休みで、怒涛のボランティアの受け入れがあったが、私がYさんのことを引きずらずにすんだのは、マキさんのおかげだったかもしれない。
思いもよらない事態
事務所移転後、約1年がたち、仲間も増えてすべてが順調に推移しているように思えた。弟さんにガンが見つかったしげさんも、無事に手術が成功し、以前よりは少なくなったものの、活動に復帰してくれていた。ヘルパーの資格をもつマキさんは「きずな新聞こそ、私がやりたかったことだったんだ! ここで働けて幸せ!」と何度も言ってくれていた。「友だちの会」と決別したときはほんとうにつらかったが、あの日々があったからこそ、直美さんやマキさん、そのほかのボランティアさんたちとも出会うことができたのだと思うと、あの日々にさえ感謝だった。
そんなとき、たまたま受けた検査で、子宮と卵巣に病気があることがわかった。すぐに生命に影響するわけではないが、治療しないと進行してしまうため、治療を勧められた。ただし、治療は排卵を止める薬を使うことから、妊娠の可能性はゼロになる。排卵や生理を止めることで病気の進行を抑えられるので、妊娠することも治療になるということだった。
当時、私は35歳。31歳で結婚していらい、いつか子どもを授かれればいいなという思いはあったが、私もジョーも「子どもはぜったいほしい!」とは思っていなかった。ただ、結果として子どものいない人生を受け入れることはあっても、現時点で「可能性がゼロになる」という選択をみずからするほど、子どもがほしくないわけでもなかった。
「できたら妊娠したいと思っているんですけれど⋯⋯」。医者にそう伝えると、「であれば、不妊治療をして、一刻も早く妊娠してください」という答えが返ってきた。東京の病院でセカンドオピニオンを求めたが、同じ見立てと回答だった。こうして、まったく想定外の不妊治療に取り組むことになった。
不妊治療はタイミングがひじょうに重要で、私のように石巻と東京を行ったり来たりしている人には不可能に近い芸当だった。卵胞の育ちぐあいによって治療が進むため、予定を立てることがとても難しい。「来週、来てください」「明後日また受診してください」というようなことが日常茶飯事だ。
「明日から石巻なので⋯⋯」と言うと、「では、今周期はあきらめましょう」となり、1周期=約1か月を棒に振ることになる。ボランティアさんと予定をあわせて、1か月分の新聞配布の活動日を調整する私にとっては、両立は至難のわざだった。
「マキさん、なおみさんに話して、協力してもらうしかないか」
私が石巻にいなくても活動がうまく回るように、ふたりに協力をお願いしようとした矢先、突然マキさんから「きずな新聞をやめたい」という話があった。1か月前は「きずな新聞こそ、私がやりたかったことだったんだ!」と言ってくれていたのに⋯⋯いったい何が? 目の前が真っ暗になった気分だった。
岩元暁子(いわもと・あきこ)
日本ファンドレイジング協会 プログラム・ディレクター/石巻復興きずな新聞舎代表。1983年、神奈川県生まれ。2011年4月、東日本大震災の被災地・宮城県石巻市にボランティアとして入る。ピースボート災害ボランティアセンター職員としての「仮設きずな新聞」の活動を経て、支援者らと「石巻復興きずな新聞舎」を設立し、代表に就任。「最後のひとりが仮設住宅を出るまで」を目標に、被災者の自立支援・コミュニティづくり支援に従事。2020年5月、石巻市内の仮設住宅解消を機に、新聞舎の活動を縮小し、日本ファンドレイジング協会に入局。現在は、同会で勤務しながら、個人として石巻での活動を継続している。石巻復興きずな新聞舎HP:http://www.kizuna-shinbun.org/