科学のバトン│第1回│空気はどんな気持ちか│猪熊隆之(山岳気象予報士)
空気はどんな気持ちか
多くの師、山からの学び
猪熊隆之(山岳気象予報士)
「ハア、ハア、ハア。こちら竹内です。ただいま、山頂に着きました。予想どおりの好天です」
携帯電話の向こうから聞こえてくるのは、竹内洋岳さん1の声。そして、竹内さんのいる場所は、ヒマラヤ山脈にある世界第6位の高峰、チョ・オユー2の山頂。
受話器の向こうから流れてくる竹内さんの荒い呼吸音とヒマラヤ8000mの空気を感じて、私の鼓動は音を立てて高鳴った。日本人初8000m峰14座登頂をめざす竹内さんの13座目となる登頂が成功したのだ。彼はついに14座コンプリートに向けて王手をかけた。私は、興奮を抑えきれない声で「おめでとうございます。くれぐれも気をつけて下山してください」と返すのが精一杯だった——。
私は山専門の気象予報士
私は、山岳気象を専門とする気象会社を経営している気象予報士です。「山の天気予報」3というサイトで国内の300か所以上の山頂の天気予報を提供する一方、上述したプロ登山家の竹内さんをはじめ、テレビや映画の山岳撮影チームをサポートしています。お笑いタレントで、国内外での登山に挑戦するイモトアヤコさんや、史上最高齢でエベレストを登頂した三浦雄一郎さんにも、気象情報を提供しています。
海外の高峰に登頂するうえでもっとも重要になるのが、「登頂する日をいつにするか」です。ヒマラヤの8000mを超える高峰では、ジェット気流の影響で毎秒30mを超える暴風になることもあたりまえ。晴れていても風が強ければ、登頂できません。また、登頂日が晴れていても、そのまえに大雪が降って雪崩のリスクが高くなれば、登山をあきらめざるをえないことがあります。つまり、風が弱く、視界がよくて大雪にならない、といった気象のリスクが少ない日をあらかじめ予想し、その日に登頂することが大切なのです。
撮影隊によっては、「山頂で晴れないとダメ」「ドローンを飛ばせるくらい風が弱い日」など厳しい条件が加えられることもあります。ベースキャンプとよばれる登山基地を一度出発しますと、途中で天気予報が変わったからといって、もどってやりなおすというわけにはなかなかいきません。ヒマラヤの8000m峰では出発から登頂までに3〜4日かかり、エベレストの場合、5〜6日かかります。つまり、1週間程度先の山頂の天候を予想しなければならないことになります。日本でも、3日以上先の予報はコロコロと変わります。気象観測が密におこなわれ、天気を予想するうえで重要なデータとなる数値予報4の精度が高い日本の平地ですらその状態ですから、観測データが少なく、数値予報の精度が低いヒマラヤで精度のよい予報を発表するのは、ひじょうに困難です。
感覚的な予報から科学的な予報へ
「どうして、そんな困難な予報を、遠く離れた日本でおこなえるのか」と聞かれることがよくありますが、答えは自分でもよくわかりません(笑)。
強いて理由を挙げてみるとすれば、ひとつめは、小さいころからの経験です。私は、幼少期からお天気と地図が大好きな「お天気オタク」「地図オタク」でした。とくに、地形が天気にあたえる影響について興味があり、知らず知らずのうちに知識が身についていたところがあります。
また、大学時代に入った山岳部で、気象が得意だった私は予報担当を任されるようになりました。年間100日前後、山に入るなかで、多くの失敗を経験しました。卒業してからも海外の高峰で、天候に翻弄されて失敗した登山がありました。これらの多くの失敗が私に教えてくれたことがたくさんあります。
しかしながら、この段階では科学的な裏づけがなく、「感覚的」に予報を出していたにすぎません。それが科学的な裏づけをもつようになったのは、気象予報士に合格するための勉強と、前職での「気象予報士合格講座」における講師経験です。
文系で数学が苦手な私は、気象予報士に合格するために、ビジネススクールに1年間通って勉強をしました。そのときの講師だったのがメテオテック・ラボという気象会社の松田靖先生5でした。松田先生は海上自衛隊のご出身で、海洋や港湾の気象にたいへんくわしく、熱力学や力学など文系が苦手とする科目をわかりやすく解説していただきました。気象予報士の合格後、松田先生のメテオテック・ラボに入社し、そこで山岳気象業務を立ち上げました。
松田先生のもとでは、海洋や港湾、陸上(平地)の気象についても学ばせていただきました。たとえば、海では、天気に加えて、波やうねりの高さなどを予想しなければなりません。波とうねりはまったく別ものであり、前者は、海上を風が吹く距離や風の強さが重要で、後者は台風など遠くのシケが影響していること。湾内では、地形によって複雑な流れが起きることや、水深の深い所では波とは違った流れがあることなど、山とは違った予報の難しさがあるこを知りました。そして、風や地形が重要な役割を果たすことなど、山の気象と共通の部分もあり、それがその後の山岳気象の予報にも生かされています。
同時に、メテオテック・ラボでは、気象予報士の合格講座の講師をやらせていただくことになりました。気象予報士としてのみ活動していたときは、わからないことにぶつかってもあまり深くつきつめる時間がなく、「そういうものなのだ」と強引に納得していたところもありましたが、講師になってからは、そういうわけにはいきません。あらためて、天気が変化するしくみ、雲や雨、雪ができるしくみ、大気のさまざまな状態、数値予報の原理などを徹底的に勉強し、理解することができました。
もうひとつ、私が続けてきたのは、現場からのフィードバックをもとに、発表した予報の検証を徹底的におこなうことです。観測データが少ない海外エリアでの登山では、衛星画像の解像度が粗く、雨雲レーダーがないことから、登山隊からのフィードバックが重要になります。私自身が登山の現場に行くことは少なく、基本的には長野県茅野市の事務所から予報を発表していますので、現場において肌で感じる空気の感覚や雲の変化、風の変化などを知ることができません。そこで、登山隊から現場の天気や雲の画像などを送っていただきます。登山隊からの報告を受けて、自分が発表した予想との違いを知り、その原因を究明してつぎの予報に生かしていくことで、予報精度を向上させていきます。つまり、私が発表する予報は、私から登山隊にあたえる一方的なものでなく、登山隊といっしょにつくりあげていくものなのです。
〝空気の振る舞い〟をイメージする
私が2007年にメテオテック・ラボに入社し、日本ではじめてビジネスとしての山岳気象予報をスタートしたときは、ツアー登山やガイド登山、中高年登山グループの気象遭難があいついでいました。それをなんとかしたいと強く思ってはじめた山岳気象予報ですが、山岳気象について体系的に説明した指導書はなく、山岳気象を専門におこなっている気象予報士も存在しませんでした。そこで、浅井冨雄6の局地気象学や、山岳波の研究論文など、関係する研究結果を探しながら、自力で経験を積んでいきました。
山の天気を予想するときに重要なことは、〝空気の振る舞い〟をイメージすることです。〝空気の振る舞い〟をイメージするとは、現在の空気の状態が、将来どのように変化していくのかをイメージすることで、それを予報対象となる山の地形にあてはめていきます。そのさいに重要になるのが、「雲の気持ちになること」と「風の気持ちになること」です。雲や風の気持ちになるには、まず、数値予報やさまざまな天気図、観測データ、衛星画像、大気の安定度などの科学的に根拠のあるデータから、その場の環境を理解します。そこから対象となる山岳の地形を調べて、「この空気の状態では、風がどう吹いていくだろうか」「自分が風だったら、地形の影響でこう動きたいと思うだろうな。ここで勢いを増すだろうな」「自分が雲だったら、どんどんやる気を出して成長していくな」「あまりやる気を出せない状態だから、雲は成長できないな」などと、イメージをふくらましていきます。
山岳気象は山ごとに特性があり、局地的な気象を理解するには、雲や風の観察が必要になります。空気は目に見えないものですが、雲や風が私たちに空気の状態(私は空気の気持ちとよんでいます)を教えてくれています。雲は〝空の翻訳者〟なのです。そのためには、雲が教えてくれるメッセージを理解する必要があり、それには雲のことをくわしく知る必要があります。
雲の研究者として有名な荒木健太郎さん7という方がいらっしゃいます。彼は、日本でもっともすぐれた〝雲の翻訳者〟です。雲の発することばがどうしても理解できないとき、彼に教えを乞います。彼と雲について語りあっているときは、私にとって至福の時間です。彼と話していると、雲に対する、だれよりも深い愛情を感じることができますし、これまでわからなかった空気の気持ちがじょじょに明かされていくときのドキドキ感はたまりません。荒木さんは、私にとっての〝雲の先生〟です。
雲の気持ちを知るための登山
私にとって、天気がイメージしやすい山、イメージしにくい山というものがあります。トレッキングをふくめて何度も何度も行っているヨーロッパ・アルプスやニュージーランド、エベレストなどはイメージがしやすいですが、アフリカや中南米など、自分が行ったことのない山はイメージしにくいですね。それと、中・高緯度地方の山岳よりも熱帯地域の予報が難しいです。前者は低気圧や高気圧が周期的に通過することによって天候が変化するため、予想がしやすいですが、後者は気圧配置にほとんど変化がなく、局所的に発生する積乱雲や、谷風(たにかぜ)とよばれる局地風によって発生する霧などによって天候が変化するからです。
そこで、新型コロナウイルス感染症の流行前までは、熱帯地域のキリマンジャロやエクアドルの高峰に登って、それぞれの山の気象特性を現場で学んできました。そのとき、ダイナミックに変化する熱帯の雲たちが、私にさまざまなことを伝えてくれました。キリマンジャロでは、北東側の砂漠地帯からの乾燥した空気と南東貿易風からの湿った空気が闘っているようすが間近で見られましたし、エクアドルでは、熱帯雨林を育む熱帯収束帯とよばれる降水帯をもたらす積乱雲群を見ることができました。これまでなんとなく「こうじゃないかな」と思っていた天気のイメージが、はっきりとかたちになって頭のなかに入ってきた感じでした。自分への挑戦だった登山が、それ以降、目に見えない空気の気持ち、雲の気持ちを知るための登山になっていったのです。
1 竹内洋岳:日本ではじめてプロ宣言をした登山家で、日本人初の8000m峰14座登頂を果たす。植村直己冒険賞、文部科学大臣顕彰スポーツ功労者顕彰を受賞。
2 チョ・オユー:中国とネパールの国境にある標高8201mの山。ヒマラヤ山脈にある世界第6位の高峰。その名はシェルパ語(チベット語)で「トルコ石の女神」を意味する。
3 山の天気予報:登山者向けの山頂天気予報。18山域59山の山頂天気や、具体的な気象リスクについての気象予報士のくわしい解説、大荒れ情報、「今週末のおすすめ山域」など登山者の知りたい気象情報が満載。2022年1月末、スペシャル予報60山、ノーマル予報をふくめて330山に予報対象山を大幅に拡大するリニューアルを実施。i.yamatenki.co.jp
4 数値予報:コンピュータが、現在の観測データをもとに、将来の気圧や気温、雲の量、相対湿度などの気象データを格子点ごとに計算して算出する予想値。数値予報の精度は、近年飛躍的に高まっていて、平地での予想はほとんどが数値予報に頼っているが、山岳においては、数値予報で使われる地形とじっさいの地形とが異なることもあり、精度が低下する傾向にある。
5 松田靖:気象予報士、博士(学術)。東京理科大学理工学部物理学科卒。民間気象会社、株式会社メテオテック・ラボを設立。
6 浅井冨雄:気象学者、博士(理学)。東京大学名誉教授。京都大学理学部卒。大気の乱流の研究で知られる。
7 荒木健太郎:雲研究者、気象庁気象研究所研究官、博士(学術)。映画『天気の子』(新海誠監督)気象監修、NHK『おかえりモネ』気象資料提供。著書に、『空のふしぎがすべてわかる!——すごすぎる天気の図鑑(KADOKAWA)、『雲を愛する技術』(光文社新書)など多数。
(次回に続く)
猪熊隆之(いのくま・たかゆき)
気象予報士、株式会社ヤマテン代表、中央大学山岳部前監督、国立登山研修所専門調査委員及び講師。1970年生まれ。チョムカンリ(チベット)、エベレスト西稜(7700m付近まで)、剣岳北方稜線全山縦走などの登攀歴がある。日本テレビ「世界の果てまでイッテQ」の登山隊やNHK「グレートサミッツ」など国内外の撮影をサポートするほか、山岳交通機関、スキー場、旅行会社、山小屋などに気象情報を提供している。著書に、『山の天気にだまされるな』『山岳気象大全』(山と溪谷社)、『山岳気象予報士で恩返し』(三五館)など多数。