石巻「きずな新聞」の10年│最終回│震災から11年、石巻「きずな新聞」は続く│岩元暁子

石巻「きずな新聞」の10年 岩元暁子 石巻の仮設住宅で読み継がれてきた「きずな新聞」。最後のひとりが仮設を出たいま、3.11からの日々を編集長が綴る。

石巻の仮設住宅で読み継がれてきた「きずな新聞」。最後のひとりが仮設を出たいま、3.11からの日々を編集長が綴る。

初回から読む

最終回
震災から11年、石巻「きずな新聞」は続く

心強い仲間との別れ

「正社員になろうかなあって。やっぱりボーナスとか魅力的だし」。マキさんは、きずな新聞をやめたい理由をそう話した。それなりの給与を支払っているつもりではいたが、ボーナスのある正社員とは比較にならない。

 続くことばは、さらにショックだった。「それに、あきちゃんはいつまできずな新聞やるか、わからないでしょう? 突然やめちゃうかもしれないし」。

 直美さんとマキさんを雇用することになったときから、私はたとえ助成金がとれなくて自分の給与が支払えなくなっても、このふたりの雇用だけはぜったいに守ると決めていた。それが雇用主としての責任だし、大げさかもしれないが、私はふたりとその家族の人生を預かっているつもりだった。ふたりに給与が支払えない事態にならないために、必死に助成金の申請書を書いたし、申請した助成金がダメだったときのことも考えて、第2、第3のプランを考えていた。もちろん、そう遠くない将来、仮設住宅は解消されるだろうから、そのときには活動を終了する可能性もあるが、マキさんや直美さんやほかのメンバーに続ける意思があれば、助成金をとるためのノウハウを教えるなどして、活動の運営を引き継ぐことも視野に入れていた。活動を完全に終了するとしても、「突然やめる」などありえない。スタッフや地元のボランティアさんとはしっかり話しあい、やめる時期なども、みんなの合意のもとでと考えていたし、そういう姿勢をいつも見せてきたつもりだった。自分勝手に突然活動をやめてしまうような無責任な人間だと思われていたのかと思うとつらかった。

 マキさんといっしょに働いた1年間、住民さんのこと、ボランティアさんのこと、ささいな悩み、なんでも共有していた。アドバイスや意見をもらったり、いっしょに泣いたり笑ったり、どんな問題もいっしょに解決してきた。ボランティアさんたちも、明るくて面倒見のいいマキさんといっしょに活動できることを喜んでいたし、私も「友の会と決別したのは、こうしてマキさんと出会うためだったんだな!」と何度も思うくらい、彼女を信頼していた。だからこそ、彼女を失うことは身を切られるようなつらさだったが、彼女を縛りつけておくこともできないので、送りだすしかなかった。

育児しながらでも回る新聞配布態勢づくり

 マキさんがいなくなったあとは、たとえ私が不妊治療で東京にいても、なんとか新聞配布が回るような態勢をつくる必要があった。マキさんと同じくらいのコミュニケーション・スキルをもち、同じくらいきずな新聞に時間を割いてくれる人を見つけるのは至難の業で、私は探すまえからあきらめていた。そもそもマキさんとの出会いは奇跡だったのだ。

 かわりに、すでにきずな新聞の活動に携わってくれているボランティアさんから、毎月3日間はかならずコミットしてくれる人を数名募った。給与ではなく、謝金を支払う「有償ボランティア」というかたちで、複数人でマキさんの穴を埋める作戦だ。別に本業をもちながら副業的にかかわりたいと言ってくれるメンバーが3人、手を挙げてくれた。無償のボランティアはどうしてもドタキャンのリスクがつきものだが、有償ボランティアとなると、よっぽどの理由がないかぎりドタキャンやキャンセルはない。県外からの新規ボランティアの受け入れを完全に任せることはできないが、あらかじめお願いしていた日にはちゃんと責任をもって活動に参加してくれるメンバーが複数できたことで、安定して活動できる態勢をつくることができた。

 治療の甲斐あって、半年ほどで子どもを授かることができた。直美さんが泣いて喜んでくれたとき、はじめて「私、ほんとうに妊娠したんだ」と実感がわいた。2019年6月が出産予定日とわかり、例年であれば3〜5月頃に助成金の申請書を書くのだが、出産直前に対応できない可能性を考え、つわりに苦しみながら年内に3本の申請書を書いた。なんとか年度内に、年間予算の半分は決めておきたかった。さいわい、2月に1本の助成金が決まり、出産直前に助成金でバタバタすることは避けられた。

 あっというまに出産間近となり、2019年4月末で石巻を離れ、東京で出産準備に入ることになった。5〜8月の4か月間は、完全に私のいない状態で新聞配布を完遂してもらう必要がある。有償ボランティアの3人には、団地の特徴やそれにあわせた配布のノウハウ、緊急時の対応など、数か月かけて伝えてきたつもりだったが、暗黙知になっている部分が多く、「あらためて文章にしておいてほしい」と言われ、マニュアル化することになった。取扱説明書などを読まないタイプの私は、「これ、ほんとうに読むの⋯⋯?」と疑問だったが、ほしいと言われたらつくらざるをえない。私の頭のなかだけにあったことをガバガバとアウトプットし、石巻を離れる直前までパソコンでカタカタ打ちつづけて、合計4万字ほどのマニュアルをつくった。

 マニュアルどおりに活動してくれたかどうかはわからないが、私が石巻にいない期間も、きっちり5000部の新聞を配りきってくれて、有償ボランティアの3人には心から感謝だった。もしかしたら、マキさんひとりでは、ここまでちゃんとした態勢を築くのは難しかったかもしれない。マキさんがきずな新聞を離れたからこそ、3人態勢になったことを考えると、これでよかったのかなとはじめて思えた。

 こうして6月上旬、無事に男の子を出産した。生後3か月半がたち、赤ちゃんの首が座ったころ、石巻にもどった。

 復興住宅の集会所で開かれたお茶っこにいくと、住民さんたちは抱っこの順番待ち(笑)。赤ちゃんを抱っこするおじいちゃん、おばあちゃんたちの顔は、みんなニコニコ。心なしか、みなさん少し若返った気さえする。なんでも、赤ちゃんや動物をかわいがったり、スキンシップしたりすると、オキシトシンというホルモンが分泌され、しあわせな気持ちになったり、免疫力アップにも効果的らしい。私と夫の子だと思っていたが、子どもはみんなのものなんだなと実感した。

集会所のイベントで、赤ちゃんの抱っこの順番待ちをする住民さんたち
集会所のイベントで、赤ちゃんの抱っこの順番待ちをする住民さんたち

 翌年3月まで、息子を連れて石巻と東京を往復する生活を続けた。ひとりで赤ちゃんを連れて新幹線に乗り、お世話をしながら活動するなんて、いっけんものすごい芸当のようだが、この時期の赤ちゃんは寝ている時間も長いし、石巻では直美さんやボランティアさんが息子を見ていてくれたりするので、むしろラクだと感じていた。たくさんの人にかわいがられて息子は人懐っこく育ち、一石二鳥だった。

「石巻市内の仮設住宅、最後の入居者が退去」

 2020年1月、石巻市内のすべての仮設住宅が解消になった。最後のひとりが仮設住宅を出るまで——。その思いで活動を続けてきた私たちにとって、大きな節目になるはずだった。「よかったね! おめでとう!」「私たちもここまでよくがんばったよね!」。そんなことばが飛びかう最後を想像していたが、「追いだされ感」の否めない、なんとも残念な終わり方だった。

 最後の住民、Sさんが震災前に暮らしていた地区では大規模な区画整理がおこなわれ、道路が引かれたのはつい最近。隣地との境界トラブルもあり、自宅再建に時間がかかっていた。「再建まで仮設住宅に」という希望も虚しく、Sさんは空いている復興住宅に転居を余儀なくされた。そしてあろうことか、まだSさんが住んでいるのに仮設住宅の解体工事がはじまった。引っ越し準備をするSさんの隣で重機が仮設住宅を解体していくようすは、信じがたい光景だった。工期を決めた方々は住民本人の気持ちを想像したことがあるのだろうか。そして、それがどれだけの健康被害を生むか、考えたことがあるのだろうか。

最後のひとりがまだ暮らしているなかで解体がはじまった仮設住宅
最後のひとりがまだ暮らしているなかで解体がはじまった仮設住宅

 背中を丸め、苦い顔をしながら小声で話すSさんを見ながら、私はひとりの女性を思い出していた。

 2017年〜2018年頃、石巻の仮設住宅では、入居数の少なくなった団地から拠点団地へ移転する「集約」がおこなわれた。集約にはコミュニティや治安維持といった住民へのメリットもあるが、なかには、急なスケジュールに住民が疲弊するケースも見られた。

 その女性は移転先が決まって2週間で引っ越さなくてはならず、しかもそのときは繁忙期で平日にしか業者を頼めなかった。彼女の娘さんは、朝、もとの仮設住宅から登校し、夕方、新しい仮設住宅に帰ってくる、という状況だった。移転後すぐにふだんどおりの生活がはじめられるよう、2週間ほぼ徹夜で荷づくりしたそうだ。仮設とはいえ、家族5人が6年住んだ家。引っ越し準備はさぞたいへんだったろう。そして数か月後、彼女は脳出血で倒れてしまう。一命はとりとめたが半年間入院し、いまも半身不随だ。医師には、引っ越しのストレスが原因だろうと言われたそうだ。

 市の職員には、「ほんとうは2週間で引っ越さないといけないけれど、あなたは5人家族で仕事もしていて、高齢の親御さんやお子さんもいてたいへんだろうから、1か月後でいいですよ。無理しないでね!」と言ってあげてほしかった。失った右半身の自由はもうもどらないのだ。

 Sさんが仮設住宅を退去し復興住宅に移った翌日、地元紙も全国紙の地方版にも「石巻市内の仮設住宅、最後の入居者が退去」の見出しが載った。どの記事もポジティブな論調で、それが無性に腹立たしかった。急かすようにはじまった解体工事のかたわらで、Sさんがどんな気持ちで最後の数日を過ごしたか。それは、はたして正しいあり方だったのか。事実の奥にある真実を伝え、問題を提起するのがジャーナリズムじゃないのか。

 ⋯⋯と言う私もまた、市役所に怒鳴りこみにいくことも、苦情の電話をすることも、きずな新聞の紙面で市の対応について批判的な記事を書くこともできなかった。でも、せめて「私たちは味方だよ」というメッセージが伝わればと、Sさんが復興住宅に移ってからも、新聞を持ってSさんのもとに通った。「ひとりでも味方してくれる人がいる」。そう思えることが、困難のなかにあっても前を向く力になることを、私は約9年間の活動をとおして何度も実感してきた。

ゴールがなくなったいま思うこと

 いろいろ思うところはありつつも、「最後のひとりが仮設住宅を出るまで」という当初の目標は達成することができた。ピースボートを退職して、石巻復興きずな新聞舎を立ち上げてから、4年がたっていた。

 このまま活動を終えることも考えたが、ボランティアさんと話してみると、「このまま終わってしまうのは残念でさみしい」という思いが共通していた。復興住宅にも課題は山積しているし、新聞を楽しみに待っている住民さんも大勢いる。

 ただ、私自身は2020年4月で石巻を離れることを決めていた。石巻や活動がどうでもよくなったわけでも、やる気がなくなったわけでもないのだが、現実的に、子どもを連れて活動を続けることに限界を感じていた。1歳が近づくにつれ、子どもは、お昼寝の時間も減り、自我が芽生え、目が離せない時間が増えていく。子どもの成長にあわせて、全力で相手をしてあげたいし、そうするべきだと思うが、活動をしながらでは難しい。保育園は住民票のある場所でしか預けられないため、これまで東京と石巻を行ったり来たりしながら生活していた私たちは、このタイミングでどこかに居を定めなければならなかった。さすがに父親であるジョーのいない石巻で保育園に預けるわけにもいかず、子どもは2020年4月から東京の保育園に預けるしかなかった。

 私が東京で働いて、石巻に通いながらでも活動できる頻度、申請や報告の負担の大きい助成金をとらずとも、寄付や会費だけで活動できる規模ということで、きずな新聞を3か月に1回の季刊紙にすることにした。

 規模は縮小しても充実した活動ができるようにと、いろいろと手は考えていたのだが、時を同じくしてコロナ禍がはじまり、なかなか思うように活動できない2年半だった。しかし、積みあげてきたコミュニティがゼロになったコロナ禍だからこそ、新聞配布の活動を続けてきてよかったと思う瞬間もたくさんあった。集会所の使用に制限がかかり、人と会えない日々が続くなかで、不安やストレスを口にする方は少なくない。

コロナで訪問活動が難しかった2020年5月に、復興住宅の住民に送ったメッセージカード。裏面には全国のボランティアから集めたメッセージが書かれている
コロナで訪問活動が難しかった2020年5月に、復興住宅の住民に送ったメッセージカード。裏面には全国のボランティアから集めたメッセージが書かれている

 東京で暮らしはじめてからは、日本ファンドレイジング協会という中間支援のNPOで、非営利組織の資金調達を担う「ファンドレイザー」の育成に携わっている。自分の団体を運営してきて、いちばん苦労したのが資金調達だったので、その分野でだれかの力になれたらと思ったのが入職の理由だ。はじめての中間支援。現場を離れて、私はやっていけるのだろうか、やりがいを感じるのだろうかと正直不安だったが、これが思いのほか楽しい。目先の活動資金だけでなく、共感を広げながら、ともに社会課題を解決するための「仲間」を増やす、という視点をもって活動できる団体が増えてほしいと願いながら、日々多くの団体と向きあっている。

 本業のかたわら、新聞の発行月が近づくと、記事を集めて編集し、ボランティアさんたちとスケジュールを調整して新聞配布の段取りをする。子育てとフルタイムの仕事だけでも毎日倒れそうなくらい忙しいのに、われながらよくやっているなと思う(やれていないことも多い。この原稿もいつも締め切りを破っている⋯⋯。編集者さん、ごめんなさい)。私が石巻に行けるのはどこかの週末+1日くらいだが、私が東京にいる日も活動してくれる地元ボランティアさんたちがいるので、なんとか活動が成り立っている。

 じつは昨年、「震災から10年の節目で活動終了」ということばが頭をよぎった。しかし、年数を節目にするのはきずな新聞らしくないと思い、続けることにした。短距離走もマラソンも、ゴールがあるからがんばれる。ゴールがなくなったいま、私がめざすのは、「楽しく続けられる」かたち。まわりの景色を楽しみながら歩く散歩のように、これからも細く長く、石巻にかかわりつづけていきたい。

 

岩元暁子(いわもと・あきこ)
日本ファンドレイジング協会 プログラム・ディレクター/石巻復興きずな新聞舎代表。1983年、神奈川県生まれ。2011年4月、東日本大震災の被災地・宮城県石巻市にボランティアとして入る。ピースボート災害ボランティアセンター職員としての「仮設きずな新聞」の活動を経て、支援者らと「石巻復興きずな新聞舎」を設立し、代表に就任。「最後のひとりが仮設住宅を出るまで」を目標に、被災者の自立支援・コミュニティづくり支援に従事。2020年5月、石巻市内の仮設住宅解消を機に、新聞舎の活動を縮小し、日本ファンドレイジング協会に入局。現在は、同会で勤務しながら、個人として石巻での活動を継続している。石巻復興きずな新聞舎HP:http://www.kizuna-shinbun.org/