他人と生きるための社会学キーワード|第2回(第3期)|ひきこもり──言葉が照らしだすもの・覆い隠すもの|関水徹平

リレー連載 他人と生きるための社会学キーワード 毎号、ひとつのキーワードから「問題を考えつづける」ための視点を伝えます。社会学者から若い人へのメッセージ

毎回、ひとつのキーワードから「問題を考えつづける」ための視点を伝えます。社会学者から若い人へのメッセージ。

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ひきこもり
言葉が照らしだすもの・覆い隠すもの

関水徹平

 私がひきこもり界隈にかかわりはじめたのはおよそ15年前、2000年代半ばのことだった。当時、社会学を学ぶ大学院生で、ひきこもりというテーマ、とくにひきこもる経験に関心をもち、逡巡のすえ思いきってあるひきこもりの会──当事者・経験者、家族、支援者、研究者などさまざまな立場の人たちが集まる会──に参加した。

 参加して驚いたのは、当事者と呼ばれる立場の人たちの多様さだった。とても弁の立つ人、人懐っこい笑顔の人、緊張した面持ちで黙っている人、ひきこもり当事者・経験者ひとりひとりに抱いた印象はさまざまで、統一的な像を結ばなかった。無業の人だけでなく非正規雇用などで働いている人もいたし、障害年金・生活保護などを受給している人もいた。会で交わされる話題も、学校でのいじめ、教師への恨み、職場の人間関係の難しさ、親との同居生活の悩み、医師との関係、障害年金受給の手続きに関すること、今後の生活への不安など多様だった。

 当時、私の頭の中には「社会との折りあいのつかなさ・生きづらさに苦しみながら、実存に向きあう人」といった「ひきこもり」イメージがあった。もともと私がひきこもり経験に強く惹かれたのは、自身のひきこもり経験をふり返りながら上山和樹さんが書かれた『「ひきこもり」だった僕から』(講談社、2001年)を読んだことがきっかけだった。そこには、「存在の寄る辺なさ」「世界の不条理」といった哲学的ともいえる経験が描かれていた。実際のひきこもりの会には、そのような哲学的な問題に向きあう当事者というイメージにピッタリ当てはまるような人はいなかった。頭の中のイメージに合致する人を求めること自体がおかしいのだが。

 ひきこもりの会に集う当事者や家族の、多様な経験、現状、苦悩に圧倒されつつ、会への参加を重ねるうちに、ある気づきがあった。それは、会に集う人びとの生きづらさの多くの部分を、ひきこもりを経験したことのない私自身もよく理解できるように思える、ということだった。いじめ、学業不振、職場の人間関係のしんどさなど、さまざまな挫折や生きづらさの積み重ねがあり、ひとたび学校・職場からドロップアウトしてしまうと、家族以外に頼れる先がない。家族は「自立」を要求するが、それは容易でなく、家族関係は悪化し、自責と自己否定の念も深まる。家族への依存が長期化すれば、経済的困窮や親亡き後への不安も増す。けれど社会とのつながりをとり戻す手立ては見えてこない。家族にとっても、就学・就労が難しい本人とのかかわりに悩みつつ、本人の生活を経済的に支えつつ、就学・就労に向けて背中を押し、かつ本人を精神的に支えなければならない。その過重な負担に家族も苦しまざるをえない。こうした当事者・家族の生きづらさは、私自身がこの社会で営んでいる生とも地続きであり、そのような出口の見えない生きづらさを生みだす社会の姿は私自身もよく知っているものだと感じた。

 家族依存を強いる社会の中で、ひきこもりという言葉は、人びとの多様な生きづらさを照らしだす手がかりとなっている。社会活動家の湯浅誠は、貧困支援の経験から、雇用のネット・社会保険のネットから外れると生活保護という最後のセーフティネットにさえ受けとめられず、路上に行きつく日本社会のあり方を「すべり台社会」と表現する(湯浅 2008)。多くの人にとって「すべり台」の途中にある唯一のストッパーが家族である。ひきこもりという言葉は、「すべり台」の途中で家族というネットに受けとめられ、そこから抜けだす手立てがない多様な人たちの状況を集約的に示している。

 一方で、ひきこもりという言葉が照らしだすものだけではなく、それが覆い隠すものも気になるようになった。ひきこもりは、個人の行為・状態を指すとともに、その状態を家族が抱え込むこと、家族がセーフティネットとして機能することを前提にした言葉である。行政のひきこもり支援施策や支援現場でも「家族が対応すべき家族問題」という文脈でとらえられていることが多い。だが、家族は、学校・会社に居場所のない人に、先述のように①経済的な保障、②就学・就労のサポート、③精神的ケアという複数の責任を期待され、追い詰められている。このことを踏まえれば、ひきこもり問題という言葉が暗黙の前提としている部分──「家族問題としてのひきこもり問題」という暗黙の了解──に光を当てる必要があるように思われる。

 家族問題という枠組みの下でひきこもりが理解されることで、支援現場においても、家族という資源を最大限活用して問題に取り組むことが優先される。ひきこもり問題に対処する担い手として家族の責任が強調されつづけてしまう。だが、親子関係の煮詰まった状態を解消するには、むしろ家族が課されている多重の責任を解除していくことが必要である。

 ひきこもりという言葉を個人的行為・状態、家族問題という枠組みのもとで理解することは、動きの見えない本人をなんとか動かそうとする個人に対する働きかけをうながすとともに、問題の広がりと対処を家族という範囲にとどめてしまう。そのことで、個々人が直面する経済的困窮や、排除的な学校制度、働きづらさを生む職場、安定雇用の縮小した労働市場のあり方といった構造的問題は見えにくくなる。

 ひきこもりを個人的行為と家族問題というフレームで理解することが不適切であることを示唆する調査結果はいくつもある。内閣府のひきこもり調査(2019年)は、じつは家に閉じこもった状態ではなく「社会的自立からの距離」に焦点を当ててひきこもりを定義しており、それを個人的行為・家族問題と解釈することにはそもそも無理がある。実際、この調査ではひきこもりと定義されるケースの9割が外出可能である。足立区のひきこもり調査(2020年)によれば、「生活が経済的に困窮している」という回答がひきこもり事例の7割にのぼる。これも、ひきこもりが外出頻度といった個人的行為の問題ではなく、家族単位の問題でもなく、貧困問題という視点から取り組まれなければならない問題であることを示唆する。また、江戸川区の調査(2021年)は、ひきこもりを「給与収入で課税されていない」「区の介護・障害等の行政サービスを利用していない」状態で、かつ家族以外とほとんど交流がない人と定義しており、実質的には「社会サービス・給付を受給していない孤立者」を調査しているとみることができる。この調査はそうした人が区内に少なくとも8千人近くいることを示している。ひきこもりという言葉は、これらの調査が示す、社会的自立の困難・経済的困窮・社会保障の不備といった多様な生活課題・社会的課題を、暗黙のうちに個人の行為・家族の問題という前提に回収してしまう。ひきこもりという言葉は、そのようなマジックワードであるからこそ日本社会の中で広く受け入れられてきた、ともいえるかもしれない。

 ひきこもり研究を始めた当初、私の頭の中にあったひきこもり像がどれほどステレオタイプ(紋切り型)で偏見に満ちたものだったか、ひきこもり当事者・経験者、家族の話を聞くなかでそのことに少しずつ気づかされた。ひきこもりという言葉に結びつけられたさまざまな経験・生のあり方を知ることで、蒙を啓かれた分、ひきこもりとは何か、簡単には答えられないとも思うようになった。

 ひきこもりにかぎらず、人間の経験や生のあり方を類型化する言葉は、その言葉が示す経験・生のあり方の固有性を無視すれば、とたんに平板なステレオタイプになってしまう。現象学的社会学の開祖アルフレッド・シュッツは、目の前にいる相手の固有の経験に目を向ける態度(汝定位)と類型的な把握ですませる態度(彼ら定位)とを区別する(アルフレッド・シュッツ著作集3巻)。汝定位と彼ら定位、どちらが正しくてどちらが間違っているということではない。どちらの態度も他者とともに生き、社会を形成するために必要な態度である。だが、相手の経験や関心を無視して一方的に既成の類型的な把握を押しつける場合、そのかかわりは抑圧的であったり差別的であったりすることをシュッツは指摘している。ひきこもりという言葉のもとで、ひきこもり当事者・経験者、家族が集い、語りあう場が成り立つように、経験を類型化する言葉は固有の生を生きる人びとを結びつける。一方で、言葉が人びとの固有の生とともにあることを忘れ、類型的把握を一方的に押しつけるような使われ方をするとき、人を差別・排除する道具にもなる。社会学者は類型的な把握によって世界をよりわかりやすく整理したいと願うが、社会科学的な類型化も、日常的な言葉と同様、ひとりひとりが生きる経験・生の固有性を取りこぼす。類型的な把握と、目の前に生きる他者の固有性への向き合いを往還しつづけることで、はじめて言葉の理解は豊かになり、言葉は他者とともに生きることを助けるのではないか。

 言葉は、他者とともに生きることを可能にもするし、難しくもする。忘れ去られる言葉、使われなくなる言葉が無数にあるなかで、ひきこもりという言葉はまだまだ人びとの経験や生のあり方を指し示しつづけるようだ。この言葉が何を照らしだし、何を陰に隠すのか、どのように人と人を結びつけ、人と人を切り離すのか、さらに目を凝らしてみたい。


■ブックガイド──その先を知りたい人へ
関水徹平『「ひきこもり」経験の社会学』左右社、2016年
アルフレッド・シュッツ『アルフレッド・シュッツ著作集第3巻 社会理論の研究』マルジュ社、1998年
湯浅誠『反貧困──「すべり台社会」からの脱出』岩波新書、2008年

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関水徹平(せきみず・てっぺい)
明治学院大学社会学部社会福祉学科准教授。早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。専門分野:福祉社会学・知識社会学・ひきこもり研究。
主要著作:
『「ひきこもり」経験の社会学』左右社、2016年
『知の社会学の可能性』共著、学文社、2019年

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