他人と生きるための社会学キーワード|第6回(第4期)|教師の「責任」観を見直す──協働の促進を目指して|片山悠樹
教師の「責任」観を見直す
協働の促進を目指して
片山悠樹
学級を起点とした働き方改善
教師の働き方改善といえば部活動が議論の中心になりがちだが、そうした議論は小学校の教師にはあてはまらない。小学校の教師の場合、学級の「責任」をひとりで担うしくみ=学級担任制によって多忙(感)が助長されている。子どもたちが登校すると下校まで教室で共に過ごし、トイレに行く暇もないほど慌ただしい時間を小学校の教師は過ごす。学級担任制と多忙(感)の問題は切っても切り離せない。ところが、いま、学級担任制が変わろうとしている。
どのように変わろうとしているのか。2021年7月に文部科学省が公表した「義務教育9年間を見通した教科担任制の在り方について」では、「教師の負担軽減」を目的に教科担任制を小学校高学年に導入することが提案され、現在実施されている。また、いくつかの自治体や学校では「チーム担任制」(学年担任制)の導入が試みられている。一部報道によれば、兵庫県神戸市、岡山県津山市などで導入され、教員間の連携による指導力の向上とともに、学級担任の負担軽減が目指されているという。
「教科担任制」や「チーム担任制」は「業務」の分担をとおした働き方改善といえるが、その成否は「業務」の分担だけでなく、「責任」の分担にかかっている。そのことを明らかにするため、「責任」の分担を目指したかつての実践例を取り上げてみたい。それは「ティーム・ティーチング」(以下、T・T)である。
「責任」の分担の実践
T・Tはアメリカで起こった教育改革運動であり、実践の起源は1957年のマサチューセッツ州の小学校とされる。T・Tの定義はさまざまであるが、広く知られたものは以下の定義である。
ティーム・ティーチングとは、授業組織の一様式で、教職員とかれらに割りあてられた生徒を含み、ふたりもしくはそれ以上の教師が、協力して、同じ生徒グループの授業全体、または、その主要部面について、責任を持つものである。(Shaplin, Judson T. & Olds, Henry F., 1964=1966, 『ティーム・ティーチングの研究』黎明書房、p.27)
上にあるように、T・Tとは教授活動の「責任」を複数の教師で担うものである。当時のアメリカは教員不足、教育内容の高度化、教育テクノロジーの発展などの課題を抱えており、その解決策としてT・Tが盛り上がりを見せた(Bair, M. & Woodward, R G., 1963=1966, 『ティーム・ティーチング』東洋館出版社)。
アメリカで生まれたT・Tは、1962年ごろに日本へと導入され、1960年代後半には関心は高まりを見せる。当時の調査によれば(『義務教育改善に関する意見調査・報告書』1971年)、T・Tの導入に賛成する教師が多数を占めており(下表参照)、ある種の「ブーム」であった。
定着の失敗
ところが、こうした「ブーム」はあっという間に終焉を迎える。日俣周二は「これからの《校内の研究課題》をどうとらえるか」(1979年、『総合教育技術』34 (7) )のなかで、「かつて、ティーム・ティーチングの実践化を試行したとき、……」(p.29)と書いているが、1979年の時点でT・Tは「かつて」=過去の実践とされている。T・Tの導入への積極的な雰囲気から一転、T・Tは定着することなく、1970年代後半には「ブーム」の終焉を迎える。
なぜ、「ブーム」は終わったのか。その要因としていくつかあげられるが、ここでは教師の「責任」観にスポットをあててみたい。それは、教授活動の責任の分担=T・Tが、責任の分担という認識が曖昧なまま、教育現場に広がっていくというものである。以下では、当時の教育雑誌に掲載されている実践記録から、そのあたりを素描してみよう。
生活指導への拡大
教育雑誌を開くと、1970年代前半までは教科指導でのT・Tの実践記録をよく目にする。一方で、1960年代後半あたりから、T・Tを生活指導へと応用する実践報告が見られるようになる。たとえば、T・Tと教科担任制を導入した小学校の校長(信国猛)は「複数担任制が人間形成をねらいとすることから、私どもは、子供の生活の指導から出発しなければならないと考えている」(1975年、「複数担任制をとおしての学校経営」『学校経営』20(5)、p.61)と述べ、生活指導における業務の分担を報告している。
生活指導への拡大は、下村哲夫の文章からもうかがえる。
ティーム・ティーチングではさらにこれを一歩進め、教師を「学級」の枠から引き離し、複数の教師が協力して、従来の数学級に相当する生徒を直接に担任することになる。学習指導ばかりでなく生活指導を含めた全部が複数の教師の共同責任になるわけである。(1969年、「学校教育の段階──六・三制の再検討(5)教授組織と学校」『学校経営』14(9)、p.95)
「学習指導ばかりでなく生活指導を含めた」とあるように、教授活動の分担であるT・Tが日本では生活指導へと拡大しようとしていた。さらに、ほとんどの実践記録には、業務の分担に関する記述がある一方、責任の分担についての言及はない。日本で広まったT・Tは、責任の分担が曖昧なままの業務の分担であったといえる。
学級担任制のメリットの見直し
上で「拡大しようとした」と書いているのは、同時期に対立的な意見が寄せられたためである。それは、学級担任制のメリットの見直しである。そこでは、子どもの発達を踏まえ、ひとりの教師による指導が望ましいといった主張が見られた。ここではある座談会を例としてあげておこう。その座談会では、小学校の教師がT・Tについて議論し、教育心理学者の加藤隆勝が以下のようにまとめている。
外国ですと、子どもたちの集団編成が、何か知的な教科学習の便宜のために編成され……中略……日本での、生活集団のような意味合いが、非常に薄い。やっぱり学級であれば、そこでみんなが生活して、喜怒哀楽を共にするものが欲しいと思う。そこにまた全人的な形成の役割もあるでしょう。/外国では集団を機能的に考えるが、必ずしも人格形成の面は考えないので、外国の研究をそのまま日本の学校に持ってきてはならない。日本のよさ──それは一方においては、“学級王国”なんて閉鎖性にもつながるんですが、生活集団としての良さとともに、学習の観点から見た集団編成を合わせて考えていくことが、今後とも課題と言えるでしょう。(1974年、「子どもを生かす協力的指導」『初等教育資料』No.307、p.39)
欧米の学級集団=学習集団との比較のなかで、日本の学級集団の特徴(生活集団の重視)が指摘され、日本ではT・Tよりも学級担任制のほうが適合的であることが示唆されている。責任の分担が曖昧なままT・Tが広がるなかで、ひとりの教師が責任を担うメリットへの見直しの動きが起こったのである。
責任の分担は可能か?
かつてのT・Tの導入を取り上げ、定着の失敗の要因として「責任」観に注目した。責任の分担が曖昧なまま、T・Tは生活指導まで拡大しつつあったが、その反動として学級担任制のメリットへの見直しが生じた。そうしたなかで、T・Tの「ブーム」は終わってしまう。ここでの議論には、現在の「チーム担任制」や「教科担任制」を考えるポイントが含まれている。
私たちの研究チームは、小学校の「チーム担任制」の研究に着手しているが、教育現場でヒアリングすると、学級担任制の根強さを耳にする。学級の責任はひとりで担うのが望ましいという意識が見え隠れする。しかし、子どもを取り巻く環境の変化のなか、ひとりで責任を担うしくみは限界に達している。教師の働き方を犠牲に、なんとか(?)維持されてきたが、もはやしくみの維持は困難であろう。そのため、「チーム担任制」や「学級担任制」の導入が話題となっているが、教育現場に普及し定着するためには、責任の分担への認識が重要である。たんに業務を分担するだけでなく、責任をいかに分担するのか。それぞれの教育現場の状況に合った責任の分担のあり方を議論し、業務の分担を設計するとスムーズに機能するのではないか。かつてのT・Tのように、「チーム担任制」や「教科担任制」が「ブーム」で終わらないためにも、責任の分担に関する検討が求められる。
■ブックガイド──その先を知りたい人へ
日本教育社会学会編『教育社会学研究』第90集[特集:教育と責任の社会学]、2012年.
柳治男『〈学級〉の歴史学──自明化された空間を疑う』講談社、2005年.
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片山悠樹(かたやま・ゆうき)
愛知教育大学准教授。大阪大学大学院人間科学研究科博士後期課程修了。博士(人間科学)。専門分野:教育社会学、職業教育。
主要著作:
『「ものづくり」と職業教育』岩波書店、2016年
『現場から変える!教師の働き方』共編著、大月書店、2023年
『就「社」社会で就「職」する若者たち』編著、学文社、近刊
ほか