他人と生きるための社会学キーワード|第5回(第2期)|「公共」と「現代社会」──どのような「思考力」を育てようとしているか|小原明恵
「公共」と「現代社会」
どのような「思考力」を育てようとしているか
小原明恵
2022年4月より、高校の公民科に「公共」という必修科目が新しく登場した。この科目は、アクティブ・ラーニングと呼ばれることもある「主体的・対話的で深い学び」を積極的に取り入れ、生徒が自立した主体となり、他者と協働して社会を創るために必要な力を育成することを目指している。2016年に選挙権年齢が18歳に引き下げられ、主権者教育の中核的科目としての役割も期待されており、生徒自身に現代社会の課題を探究させる学習も設けられている。知識を習得するだけでなく、主体的に考えることが求められているのである。
学習者に主体的に考えさせることは新しい学習スタイルのように思われるかもしれない。ところが、じつは過去にも類似の理念を掲げて新設された社会科の科目が存在した。「公共」の新設と引き換えに、高校公民科で廃止されることになった「現代社会」(ここからは「現社」と略称で呼ぶ)という科目である。
ここでは、現社における「思考力」育成に関する教育課程政策の論理の変容を見ていこう。それによって、社会科の学習において学習者みずからが考えることがなぜ重視されていたのか、現社を新設したときの「思考力」育成の論理がどのように変化して現在に至っているのかを考えてみたい。それは新しく始まった「公共」の理念を吟味することにも役立つだろう。
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よく「戦後教育」といわれるが、敗戦直後に用意された学校教育は、現在のものとはだいぶ様子が異なっていた。そこでは、経験主義と呼ばれる、子ども自身の生活経験にもとづき、自発的に活動することをとおして学習する教育がおこなわれていた。この時期の社会科は「初期社会科」と呼ばれる。ところが、1950年代後半から、教科の体系性を重視し、演繹論的な順序で学習を進める系統主義へと教育課程の基軸となる考え方が転換した。こうして高度経済成長期には系統主義教育がおこなわれたが、そのような教育は知識の「詰め込み教育」であると問題視されるようになった。そこで、文部省は系統主義教育を問い直し、1976年に、知識の伝達にかたよった学校教育を改め、「自ら考え正しく判断できる力」を養う教育へとふたたび方針を転換した。この方針のもとでつくられた1978年告示学習指導要領において、高校社会科に新たに必修科目として設置されたのが現社である。
現社は「思考力」重視の学習を目指すことを理念に掲げていた。学習指導要領の作成委員であった梶哲夫(筑波大学教授・当時)は、知識を注入するのではなく、既習の知識を生かしながら生徒がみずからの課題として社会と人間に関する問題に取り組み、その過程で思考力や判断力を育てることが現社の意図であると述べている(小林信郎・梶哲夫編『「現代社会」の単元構成と展開』明治図書、1983年)。「思考力」が重視されたのは、知識中心の系統主義的な学習から脱却するためであった。
梶はまた、現社の指導方法を検討するには初期社会科の実践の成果を再吟味することが肝要であると述べており、現社は経験主義の初期社会科を範にしていたといえる。1947年に出された初期社会科の学習指導要領は、戦前・戦中の教育が青少年の考える力を尊重せずに「他人の見解をそのままに受けとらせようとしたこと」を反省し、みずからの生活経験にもとづき、教えられる知識を批判的に検討することを許容した。したがって、初期社会科を範とする現社の「思考力」も、提示された知識をみずからの生活経験にもとづき批判的に検討する場面で発揮され、育成される能力として位置づけられていたといえよう。
ところがその後、学習指導要領が改訂されるなかで、「思考力」を重視する論理は変容していった。1989年に出された学習指導要領では、高校の社会科が解体されて地理歴史科と公民科がつくられ、現社は公民科の選択科目になった。初期社会科で重視されていた小学校から高校までの社会科の一貫性は失われ、初期社会科のある種の復活としての現社という性格も失われた。また、現社新設時に強かった知識中心の学習に対する否定的姿勢は、徐々に弱まっていった。「生きる力」を掲げた1990年代後半に出された学習指導要領では、内容の精選が目指されたものの、「学力低下」が問題とされたことを受けて教育課程行政は「確かな学力」路線へと転換し、知識の学習は基礎・基本として忌避されなくなった。
こうして系統主義的な知識学習が復活していったものの、「思考力」は軽視されることなく、「思考力、判断力、表現力など」(1987年の教育課程審議会答申)や、「自ら学び、自ら考える力」(1996年の中央教育審議会答申)といった表現で、教育課程政策全体においても、現社においても重視されつづけた。
ただし、「思考力」を重視する論理は、現社新設時とは異なるものへと変容した。1989年に出された学習指導要領やこれに合わせて改訂された指導要録では、変化する社会を生きぬくためには自己教育力が必要であり、これを裏づけるのは知識・技能だけでなく、関心・意欲・態度、思考力・判断力・表現力といった諸力であるとされた。「思考力」は自己教育力を裏づけるひとつの能力と位置づけられたのである。さらに、2008年に出された中央教育審議会の答申では、知識・技能とそれらを活用する思考力・判断力・表現力等が車輪の両輪として重視され、思考力は知識を「活用」するために必要な能力とされた。
現社新設時は、「思考力」は知識中心の学習から脱却し、提示された知識を生活経験にもとづき批判的に検討する場面で、発揮され、育成される力と位置づけられていた。しかし、現社の学習指導要領が改訂されるなかで、「思考力」は変化する社会を生きぬくための力のひとつと位置づけられ、2008年以降は知識を「活用」するための力とされた。現社新設時は、「思考力」には知識を批判的に検討することが含まれていたが、その論理は変容し、提示された知識を受け入れて使いこなす力が「思考力」とされるに至った。
新科目「公共」においても、「思考力・判断力・表現力等」は、知識・技能を「活用」するための力と位置づけられている。「公共」における「思考力」の意味には、知識を活用することは含まれているものの、知識を生活経験にもとづいて批判的に検討することは含まれていないともいえるだろう。
批判という要素を希薄にした状態でアクティブ・ラーニングを推進した場合、学習者は提示される知識を無批判に受容して議論を展開してしまうかもしれない。「生活経験にもとづく批判」という考え方が戦後初期の教育に導入されたのは、戦前・戦中の国家主義的知識を注入させる教育を反省し、民主主義社会を担う市民を育てようとしたためであった。国が学習指導要領などを通じて学校知識を統制する日本の教育課程制度のもとでは、学校知識にナショナリズムは不可避的に入り込む。そうであるからこそ、これからの社会を創る市民を育てる科目である「公共」には、学校知識を学習者が批判的に検討する余地をあらかじめ用意しておくことが必要ではないだろうか。
■ブックガイド──その先を知りたい人へ
佐藤博志・岡本智周『「ゆとり」批判はどうつくられたのか』太郎次郎社エディタス、2014年.
田上哲「経験主義の社会科における個と集団の問題」深澤広明・吉田成章編『学習集団づくりが育てる「学びに向かう力」』渓水社、2020年、pp.179-180.
竹内常一・子安潤ほか『2008年版学習指導要領を読む視点』白澤社、2008年.
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小原明恵(こばる・あきえ)
筑波大学教学マネジメント室助教。専門分野:教育社会学、公民科の教科書研究。
主要著作:
「教科書会社の意思決定が教科書のページ分量に与える影響──高等学校『現代社会』教科書における『政治・経済』分野の重点化を事例として」単著、『日本高校教育学会年報』第23号、2016年
「現代女子大学の自己認識に関する一試論──学長メッセージの内容分析」共著、『名古屋高等教育研究』第17号、2017年
「論争的問題を扱う探究学習に関する学校知識の構造──高校教科書における原子力発電に関する記述の内容分析」単著、『社会学年誌』第63号、2022年